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猫の子

 最初に名を呼び交わしたとき、私たちはどちらもただの子供だった。彼をパウルスと呼んだことはない。まだ彼の父が存命である頃のことで、彼も私をただガイウスと呼んだ。だが名が何であれ、また、自分たちが何ものであれ、それは取るに足らぬ事実であったろうと思う。当時私が幼かったなら、彼はもっと幼く、少年と呼ぶにも躊躇うほどの小さな子供だった。
 手探りに互いを知ろうとする暇もなく、いや、その間隙など必要なく、彼はすぐに私に笑顔を見せてくれた。私の父は彼があまりに素直に好意を口にし、私の手を片時も離さないでいるのを見て、自分の親友のことを思い出すと言っては笑った。プブリウス。そう私は彼を呼ぶ。たとえ同じ名を持つ者がどれほどいようとも、その時の私たちにとってはお互いを示すものでしかなかった。私の手を引いてパウルス邸のなかで最も彼が気に入っていた場所、街路に面する垣根の近くに歩いて行くと、他に誰もいないのを確かめて、プブリウスは私とともにあたたかな土の上に座り込んだ。
「たまに猫が来るの」
 秘密を話すことが好きな子供で、けれども私に秘密を打ち明けろと強いることは決してなかった。私はそうして差し出される彼の小さく、数多い秘密を丁寧に受け取っては仕舞いこみ、その日は一緒に猫を待った。
 春先のことで、程なくしてその猫は大きな腹を揺らしながらやって来た。プブリウスが手を伸ばすとそれに擦り寄り、私がいても逃げるようなことはない。小さな子供が膝に乗せるとほとんど伸し掛かられているように見える大きな猫は、金色の目を細め、餌をくれるでもない人間にどうしてかよく懐いているようだった。
「飼っているわけじゃない?」
「母上がよくないっておっしゃるから。弟がひっかかれたら、いけないでしょ?」
 そうだね、と私は返す。彼が母上と呼ぶのが彼の母親ではないことを初めから私は分かっていたけれども、プブリウスがそのことで苦しむ様子はなかった。プブリウスはまだ赤子だった腹違いの弟のためにと言われれば、ひとつも口を利かないでいることさえできたのだ。
「ガイウスもだっこしてみたら」
 そうは言われても持ち上げることもやや難しい大きな猫を前に、私は手を彷徨わせてから、その腹にそっと触れた。猫はきれいなわけでも、特別かわいらしいわけでもなかった。図太そうな、きっといろいろな人の膝に乗って餌をねだっている、そういう顔をしていた。
 猫は一度にたくさんの兄弟と一緒に生まれるのだ、ということを思い出した。それは羨ましいことと私には思えたものだ。
「子猫を見せてくれるといいね。ここで産むつもりがあるのかどうか、よく分からないけれど。きっとプブリウスには見せに来てくれる」
 猫の毛は太陽に暖められて、ふわふわとしている。私の家にも獣と呼べるものはいなかったから、その手触りは未知のものだった。
「そしたらガイウスにも見せてあげる。嫌がったりしないよ。ね?」
 プブリウスが鼻先を近づけるとそれに小さな鼻をくっつけて、猫はなおんと鳴いた。もしかするともっと違う音だったかもしれない。いつこの猫と知り合ったかとか、どうして誰よりも信頼していた兄にさえ話していなかったのかとか、私は尋ねた。彼は尋ねられるごとに笑顔を見せて、「お母さまがまだいたころに見つけた」「兄さまは猫も犬も苦手だから」と話してくれた。
 プブリウスと私とが友人となったのには、私たちの父の恣意があっただろうと思う。生母と引き離すには幼すぎるほど幼かったプブリウスが寂しがっているだろうと、パウルスは考えなかったらしいが、兄のクィントゥスは気が付いたのだ。
 友達をつくってあげたいと、クィントゥスは私の父に言ったらしい。パウルスについて議場や法廷に行くことのあったクィントゥスは既に家の外に顔見知りや友人と言える存在を得ていたが、プブリウスにはいなかった。それこそ懐いている猫くらいしか。「生半可な気持ちであの子の友達になってやろうとするとひどい目を見る気がする」と何故か私の父は予言めいた言葉を呟きつつも、その願いに我が子でもって応えることにした。それがきっかけである。それだけのことが、自分で望んだわけでもないことが、なぜこうにも大切なものを与えてくれたのか、私にはその頃から不思議でならなかった。
 猫が胸のあたりに頭を預けて眠り込むと、プブリウスの口数は少なくなる。私もただそれを見守り、影が大きさを変えていくのをたまに確かめた。陽の光を透かした彼の髪は猫と同じような触り心地がしそうだとか、次に遊びに来ることができるのはいつだろうかとか、私は頭の隅でいつも何か考え事をしている。
 寂しいとか、不安だとか、プブリウスは言わない。私も問いかけなかった。彼は真実私に心を許し、私はそれに応えるという以上に彼に心を砕いていたが、それは強いて引き出すべき秘密ではなかった。
 プブリウスが誰にも連れられないで私の家にやって来たのは、柔らかかった日差しが鋭さを帯び始めた頃だった。その腕には小さな子猫が抱かれており、彼はひどく消沈した様子だった。
「置いていっちゃったの」
 玄関先に立ち尽くし、灰混じりの白い毛並みを撫で付けながら、プブリウスはどうしてか私のほうを見なかった。私の後ろにいる母のほうを見まいとしたのかもしれない。母がいまにも腕を伸ばしたいのを抑えてプブリウスの言葉を待っているのを私は背中に痛いほど感じたから、そのときのプブリウスの懸念にはほとんど意味がなかった。
「何日も放ったらかしで、たぶん迎えにこないだろうって……それで、こんなに小さいとひとりで生きていけないけど、母上はやっぱり猫は駄目だっておっしゃるの。それで……」
「くれるの?」
 私と母が口を揃えて言ったから、プブリウスは呆気にとられてから、無言で猫を差し出した。母の強い視線を感じつつ私は小さな生き物を受け取り、プブリウスがしていたのを真似て胸に引き寄せる。
「ありがとう」
 子猫が欲しかったわけでなかったし、私はすぐに息子の手から子猫を取り上げた母が目を輝かせているほどには、生き物を可愛がる気性ではなかった。けれどもプブリウスが任せてくれた猫である。母にも礼を、それも何度も言われ、プブリウスはだんだんと顔を赤くしていった。
 泣いてしまうかと私が思うのと、プブリウスの大きな目からしずくがひとつ落ちるのは同時だった。父が留守でよかったと私は心底思った。もし父がいたなら、プブリウスは泣かないでいただろうから。
「置いていっちゃった……」
 母に抱かれた猫がか細い声で何度も鳴く。自分の手を伸ばしてやるでも、抱きしめてやるでもなく、ただ私たちを彼女の部屋に連れて行った母は、父親たちよりもよほど子供たちについて諒解していたのだろう。
 彼は何度か私の家を訪れていたけれども、ひとりで辿り着けるとは誰も考えていなかったに違いない。いまごろ母が奴隷を遣ってパウルス家に知らせているかもしれないが、迎えがすぐに来てはいけない。椅子に座ることもなく立ったままで、プブリウスの落とした涙はひとつきりだった。きっと弟が生れてからは、彼は声を上げて泣いたりしなかった。
 いつも私に楽しいことを打ち明けてくれる。私が彼の楽しみに賛同すれば、プブリウスは心の底から喜んでくれた。
「プブリウス」
 好意は特別なことではない。私たちはただ友達にと望まれたことも知らず友達になり、これほどに意の通いあう相手が互いの他に誰も見つからないまま大人になっていくのを知らなかった。
 私は彼の髪に触れた。彼が猫にしてやっていたように撫で付けて、しゃがみこんで彼の顔を覗き込む。私には容易くは納得のできない静けさでプブリウスが私を見返すのを、微笑むことくらいでしか、許してやれなかった。
「あの猫は、母上が可愛がってくれるよ。僕も大切にする。ありがとう、連れてきてくれて」
「ねえ、あの猫は可愛い?」
「すごく。僕ははじめて子猫に触ったよ、あんなに軽いんだね」
「可愛くなくて置いてっちゃったんだって……」
「……誰が言ったの?」
 答えないまま、プブリウスはじっと、私がもういちど微笑みをつくるのを待ち構えていた。けれど、私はうまく微笑ってやることができなかった。できようはずもないのだ。私もまたそのときには拙くものを考えることしかできなかったが、この友人を可哀想だと言ってそれで打ち捨てることは怖くてならなかった。誰がそうしても、誰がそうしてやれと言っても。
 父は時折、何か見知らぬ生き物を見るような顔で私に対して手をこまねいている。なんだかよく分からない、と私が話すことを聞いて彼は言ったが、私は、それに傷つけられたことは誓ってなかった。
 泣いたりするかわりに、プブリウスは私の首に両腕でしがみつく。猫のにおいがして、幼い子供の甘いにおいがした。私は彼を抱き返してやりたいのに、まるでまだ腕に猫がいるかのように、私の腕は動かなかった。
「ガイウス」彼は呼び、何度も繰り返した。「ガイウス、あの猫を好きになってね」


 ごろごろと喉を鳴らして目を細める。だらしなく四本の足を放り出した猫はそれを好き勝手に引っ張られても嫌がる素振りを見せないで、ただ撫でる手を引っ込めるとまんまるに目を開いた。それがおかしいのか、プブリウスは何度も手を止めては撫で、止めては撫で、飽きない様子でいる。私はほとんどぼうっとした頭で机に肘をついてそれを眺めていた。
 彼が気まぐれに訪ねてきたとき私は書斎で父の手紙の代筆をしていて、プブリウスは今更自分に構わないでもいいと言ったが、やはり手は止まった。真昼はとうに過ぎたが夕刻にはいくらか余裕のある長閑な頃合い、この友人がいると暇だと感じることがない。
 母が甘やかしているうちに母猫よりも図体の大きな猫に変貌を遂げたかつてのか弱い子猫は、そのまま彼の膝で眠り始めて涎を垂らすことまであった。その矢鱈と大きな猫を抱いても、もうプブリウスは伸し掛かられているようには見えない。あといくらか経てば彼もブッラを外してトガを着るようになる。そうした変化がとみに目につくようになっていた。
 私の膝にいるときはそこまでだらしなくないだろうと話しかけても、当然ながら獣なので答えはない。かわりにプブリウスが老猫を可愛がってやりながら「格好つけてるんだよ」と笑った。
「結局君のことがいちばん好きじゃないか」
「私にはそうは見えないんだけど……」
 子猫だったころは愛想があった、とさえ思う。大きくなるにつれて遠慮をしなくなって、書き物をしている机の上を好きに転げまわるものだから叱りつけたことだってあった。それに何ら効果がなかったことは、インク壺をひっくり返されてだめになったパピルスを見れば分かる。
 猫を連れてこの家を訪れた日から、今日まで、プブリウスは私を訪ねると必ずこうして猫に触れた。彼が呼ばわると微睡んでいても何かに夢中になっていても走ってきて伸ばされる腕に飛び込む、まるで母猫の思い出を引き継いでいるかのような懐き方で、母は何度も悔しがった。
「ねえ、ガイウス」
 撫でれば撫でるほど抜ける猫の毛を指にひっつけて、それを鬱陶しがりもしないでいる。
「この子の子供がいるのって知ってる?」
「え? ……知らない」
「お母さまの家の近くで見つけたんだ。あれはきっとこの子の血をひいてるよ、似たような柄だったし、顔がおんなじで」
「ぜんぜん気付かなかった。……なんだ、紹介してくれてもいいのに」
「母親ならそうしたかもしれないね」
 我が子がいることなど夢にも思っていないような脱力しきった顔を見ていると、かえって気楽にも思われた。猫屋敷を母は喜ぶかもしれないが、父は悲鳴を上げるだろう。
「あの猫がこの子を君のところに置いていったのは、君のためだったのじゃないかと最近思うようになったよ」
 きょとんとしているとまろい線ばかりでつくられていた時分と同じ表情になる。プブリウスはもしかすると、私がいつまでも憶えているさまざまなことのいくらかをもう忘れてしまっているかもしれない。
「それなら、君に紹介してよかったんだろうな」
 今度は私のほうが意を掴めずに目を瞬く番だった。
「あの母猫はこの子を置いていったきり、一度もきてくれなかった。でもその前に、この子の兄弟たちを連れてきてくれた。この子だけ模様が違ってたから、そのせいかと思ったりもしたんだけど。でも猫がそんなこといちいち気にするはずないよね」
「いちばん可愛い子猫だったのじゃない?」
「それこそ猫の知ったことじゃない……ガイウス、けっこうこの子のこと贔屓目で見てるんだね」
「うちの猫だもの」
 寒い日には一緒に眠ったし、暑い日には涼しい場所を作ってやった。道端で猫を見かけても軒先に犬を見つけても何も思わないけれど、家に帰ってきてこの猫が出迎えてくれると嬉しい気がしたものだ。
「君はかならず約束を守ってくれる」
 ぽつりと呟きが落ち、私は灰斑の毛並みから目を上げる。何も知らずに夢を見る猫を挟んで、私たちは同じことを思い出している。
「憶えていたのかい」
「僕の言い出したことじゃないか。ガイウスはちゃんと憶えているって僕は知ってたよ、きっと、僕は君とのことならひとつだって忘れていないよ」
「……僕もそうだ」
 何か心もとなく思うとき、伸ばした指先に何も触れないのではないかと思うとき、私たちは言葉を間違えなかった。だから疑うということはなかった。
「君なら、っていつも僕は思う」
 翳りなく微笑う。私がそうして微笑う彼にどれほどのものを与えられてきたか、与えられているか、きっと彼は知っている。私たちの間に秘密はなかった。幼い彼がひとつひとつ私に見せてくれたように、私が、それをみな受け取り忘れることがないように。
 あの日彼が私を選んでくれたことに、私は全てでもって応えたかった。それが私の望みだったのだ。私にとって彼と等しい誰かがいないことが、彼に許され、そして彼にとってもまたそれが事実であるという確信を、彼が躊躇わないことを望んだ。それだけでよかった。私たちは喧嘩など一度もしたことがなく、それをおかしなことだと言う人がいても、構わなかった。
 浅い眠りから覚めた猫がうにゃうにゃと口の中で何か言いながら膝を降り、私を見上げた。好き好きに振る舞うくせに時折こうして諒解を得てからどこかへ行きたがる。「行っておいで」と私は言って、プブリウスの指に絡んだ猫の毛を払った。あの猫は君のことがいちばんに好きなのだと、プブリウスがまた繰り返して言うので、私はそれにも頷いた。

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