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星々に結ぶ

 彼が自分を探していたということは、すぐに分かった。落胆と失望、不安と恨みに浸ったアカイア人たちをかき分け、清々しいばかりの少年はまっすぐにポリュビオスのもとへ駆け寄ってくる。
 ローマに入ってから彼ときちんと顔を合わせるのはこれが初めてだった。メガロポリスで初めて互いを見知ったのはそう昔のことではない。それなのに、幼い日の思い出のようにあのひとときは美しかった。きらきらしく眩い瞳ばかりが思い返すどの姿よりも澄んで力に満ちていたけれど。
「……裁きを受ける、筈だったのですが」
 真っ先に口から出た言葉がそれであることに、ポリュビオスはおのれに対し深く蔑む気持ちになる。言わずにはおられなかった、暗澹たる顔の他の同胞と、自分とは、目の前にこの少年がいるかいないかの違いしかないのだ。
 数人の代表が元老院から退出し広場に出て告げたのは、裁判は開かれないということ、自分たちは沙汰を受けないままそれぞれどこかの町に送られ、何をすることもできず囚われるということだった。ポリュビオスがぽつぽつとそう語るのを少年はじっと聞き、頷き、眉をぎゅっと寄せて彼の敬慕するであろう国父たちのいる方向を見遣った。
 白々しいまでの青空を背負うには自分たちは惨めに過ぎる。祖国を思えばその行く末を他ならぬこの地から案ずる歪さに自嘲し、何ら力を持たぬ存在であることに慣れず情熱を持て余している。
 暫くのあいだポリュビオスを見上げていた少年は、慰めを避けて思慮深い面持ちで彼の纏う市民服の生地を撫でた。未だ頼りない肩に重くかかるそれから何か教えを受けるように。
「父が、そのようになるのではないかと話していました。あなた方は人質だけれど……」
「王子たちのように扱われる道理はありませんね。スキピオ、先に礼を言わねばならなかったのに失念していました」
「お礼? 何のです」
 ポリュビオスが彼の腕に触れると、スキピオはその手を取ってしっかりと握った。十八歳になったばかりの彼の手のひらは既に兵士のそれに近く、快い。
「こうしてわたしの元へ来てくださいました」
 それ以上の言葉を尽くさなかったので、スキピオには言葉通りの意味以上には何も伝わらなかったようだった。首を小さく傾げ、いいんですと答えた彼の柔らかな微笑みを見る。
 安心してください、そう彼は続けて言った。たったの十八歳、様々な事柄についてひとりで責任を負えるとは認められない少年が、それでも彼のできうること全て示してポリュビオスの手を握っていた。


 重みのかかる左腕が痺れ始めているのに、その原因を取り除く気に少しもならない。ポリュビオスは右手だけで書物をたぐり、やや不自由を覚えながらも体勢さえ変えないままずっとそうしていた。ずっとと言っても、この少年が寝息を立て始めたのはつい先程のことである。
 昼前の涼しい頃合い、ぴたりと接した肌の温度はさほど気にならなかった。スキピオは朝食の時点で少し怠そうに瞬きを繰り返していたが、多くの者達が伺候に訪れるのに応対する間はその様子を隠していたようだし、一段落つけてポリュビオスの部屋に顔を出したそのときにも快活な表情を見せた。
 まだ暮らしに慣れはしないだろうが何か足りないものはないかとスキピオは尋ね、ほんの少しの要望を伝えると嬉しげにした。それからポリュビオスの隣に腰掛けて暫くは軽い世間話をしていたのだが。
 ふと続いた無言にポリュビオスが目を向けると彼はひどく重たげに瞼を上げようと四苦八苦し、その末に、根負けしたのだった。そのうえこうも安らいだ顔をされたのでは起こすに起こせないというものだ。
「…………」
 メガロポリスで言葉を交わしたときからその印象はあったけれども、年齢に見合った振る舞い、年齢から期待されるよりよほどしっかりとした考え方を持つ一方で、彼はどこかいとけない。彼の客人の腕に凭れて寝入る姿にはこうして誰かに支えられることに慣れた風情があった。誰か、と言って、スキピオを可愛がっている様子の父親や兄であろうが。
 そろりと腕をずらすと睫毛が震え、ポリュビオスは動きを止める。しかし起きる気配がないので思い切って腕を抜き、痺れたそれをスキピオの肩に回して体を寄せた。
 この地が縁遠いものであった当時から、スキピオ家の令名は聞き及ぶところであった。かのアフリカヌスの逸話の幾つかを聞き知り、父祖より続く名声はギリシア人の耳にも届いた。その後継者がこの優しげな少年であると知れば、人は意外と思うだろうか。
 あらわになった未だ細い首、如何ともしがたく繊細な線を描く輪郭を、他意なくただ美しいと感じた。伸びやかな手脚の健やかなこと、口に出さないまでもひと目見たときから感嘆しているのだ。この国の人々にこうした美点を認める感性はあれど愛でる性向がないというのは、惜しい気もする。
 不意にじっと注がれる視線をむずかるように小さく唸り声がした。濃い海に似た色の瞳が姿を見せ、スキピオが俯けていた顔を上げ……ぼんやりとポリュビオスと目を合わせたかと思うと小さく飛び上がる。
「あれ、……あれ? 僕、寝ていました?」
「ほんの少しだけ」
「すみません……!」
 垂らしてもいない涎を拭う仕草をしながら慌てて身を離そうとするので、ポリュビオスはほんの少し力を込めてそれを制した。目を丸くしたスキピオの、やや羞じらいに赤らんだ頬に唇を寄せる。
 そっと触れるだけで離れた相手を、スキピオは不思議そうに見遣った。何よりも、とポリュビオスが考えているのをまったく知らぬ顔だ。何よりも、この燦めく瞳こそ彼を表してやまない。
「今日はさほどの用はないのでしょう?」
「そう、なんですが、アエミリア様の御用に付き添わなくてはいけないので……あの、ポリュビオス?」
「何でしょう」
「いまのは?」
 好悪のない、素直なばかりの顔で言うので、ポリュビオスは知らず目を細めた。それを笑ったと思ったようでスキピオが反射のように笑みを返す。
「わたし共は、こういうことをするのですよ」
「そうなのですか」
 それでなぜ納得してくれるのか不思議なほどあっさりスキピオは頷き、父がするみたいなことをするのですねとはにかんだ。
「すみません、長居して」
「いいえ……」
 彼が疲れた様子でいるのが何故か、尋ねてやりたい気がしたが、ポリュビオスはただ少年の背を見送った。
 この数日、スキピオは暇を見ては客人の様子を確かめにやって来て、他愛ない会話をしては戻っていく。何をして過ごすのか、おそらくは数年続くであろうこの生活をどのように組みてたてていくか、決めかねているポリュビオスの内心を慮ってのことだろう。
 けれどそれだけでないなら、手を差し伸べるべきはこちらではないだろうか。あの少年には善き父と兄があり、友人があり、またこの家の人々があったがーー思案を止め、ポリュビオスは手にした書物に目を落とした。
 メガロポリスで借り受けた書物はスキピオに返したが、彼はこの家にあるものならば好きに読んでいいと言って書斎に自由に出入りする許しをポリュビオスに与えていた。スキピオは扉を開いて待っているのだ、という気がする。


 現状、ポリュビオスの身柄を預かるのはスキピオとファビウスの兄弟である、ということになっているようである。数日をスキピオ家で、次の数日をファビウス家で過ごし、また今度は、といった具合で、しばらくの間ポリュビオスの住まいは定まらなかった。小さな家でも与えられてそこで一人で暮らすというわけにもいかないのだけれど。
 ファビウス・マクシムス家とて、この国にその名声を知らぬ者はない名家だ。パウルスは長男と次男とをこれ以上ない家柄の跡継ぎとしたのだ。単なる豊かさで言うならば、弟の継いだ家の方が勝っている様子ではあった。
 ただ時にはこの家の方が喧しいかもしれないと思う。空が白み始めた時刻、廊下をどかどかとやたらに音を立てて過ぎていく気配に起こされると尚更。
「ーー兄上、昨日言ってた書簡ってどこに置いたっけ」
「だからそれは荷物に入れただろう」
「ああ! ……どの荷物?」
「一番小さな包みだよ。セルウィリアヌス、自分で入れたじゃないか。寝惚けてる?」
 そんなわけないだろうと言い返す声の主が、最初に聞こえた呼びかけと結びつかないことに思い至ってやっと、ポリュビオスははっきりと目覚めた。
「ああ、ポリュビオス。……起こしてしまいましたよね」
「いえ……」
 身支度を整えてから客間を出ると、まだ衣服をあらためていないファビウスが通り過ぎるところだった。
 彼の義弟、セルウィリアヌスが生家の別荘へ向かうのを送り出したところだと言うファビウスは、なんだか朝からどっと疲れた、という顔である。
 セルウィウス・カエピオ家の子息がファビウス家の養子となってファビウス・セルウィリアヌスを名乗っている、というような考え方が、ポリュビオスにもようやく身につき始めていた。血筋の上ではまったくの他人だが、彼らはこの家での兄弟である。ファビウスはその義弟にも、親身になってやっているらしかった。
「あの子は本当に、落ち着きがなくて……」
「彼は……スキピオと同じ齢でしたか」
「そうです。でも同じなのは齢だけかな」
 どちらも一長一短あって、微笑ましい。それほど齢が離れていないのに年長者の顔で言い、ファビウスはふと自分の姿格好に目を落とした。
 ばつが悪そうにポリュビオスの身なりと自分とを比べて、失礼と一言置いてそそくさと自室に戻って行く。その悔しげな口元は弟によく似ていて、もう一人前だという顔をしている彼も未熟なところがあるのだとどこか、ポリュビオスを安堵させるものだった。
 残されたポリュビオスに、顔馴染みになった中年の奴隷が食堂の準備ができたと言うのでそれに従う。まだ結婚をせず、また、養家に共に暮らす人のないファビウスの朝は静かなもので、セルウィリアヌスがいないとなれば一層だった。
 並べられた軽い朝食に手を付けないで待っていると、ファビウスはさほどかからず姿を見せた。着物も履物も改め、叩き起こされた疲れの気配もまったくない。
「……お見苦しいところを。あの子に起こされて部屋を出たままだった」
「構いませんよ、朝早く、家の中でのことです」
「隙のないあなたに言われても、ますます恥ずかしい気がしますよ」
 髪を手櫛で整えながら冗談めかして笑ったファビウスに奴隷がひとり近付いてきて、何やら耳打ちする。目を瞠った彼は首を傾げるポリュビオスに、ついさっきの言葉を取り消すと言った。
「ついさっきと言うと」
「プブリウスの方がセルウィリアヌスよりは落ち着いていると思っていましたが、そうでもなかった。……もう迎えに来たみたいです」
 いやもしかすると朝食も一緒がいいとか、そういうことかとファビウスが踵を返す。しかし食堂を出たかと思うとまた振り返って戸口から顔を見せ、
「叱ってくださいね」
 そう言った顔は笑っていたのでひとつも凄みがなかったが、いやだからか、ポリュビオスは請け負った。
 パンを一切れ、ゆっくりと噛んでいる間に、二人分の足音がこちらへやって来る。兄の小言を受け流すスキピオの声が、顔を見てもいないのに幼く聞こえた。
 兄に続いて顔を出した少年はポリュビオスと視線がかち合うとぱっと顔を明るくする。
「おはようございます、ポリュビオス」
「スキピオ、挨拶の前に言うことは?」
「挨拶が先かと思って……はい、せめてお食事の終わる頃に来るべきでした」
「ええ、そうでしょうね。おはようございます。お兄様のお許しを頂いてからお座りなさい」
 上目遣いに窺われたファビウスがすぐに自分の分の食事の並べられた席を指差すのだから、お叱りがどれほど効き目があるのだか甚だ怪しいものだ。それでも小言が続くのは、やはり愛情の証左に違いない。
「父上には昼前に行くと言ってあるんだから、うちに早く来てもしょうがないだろう」
「うちで時間までじっとしていてもそわそわするんだもの」
「じっとじゃなくて、色々とすることはあるだろうに」
「放り出したわけじゃないよ、昨日のうちに……そういえばセルウィリアヌスはいないの」
「さっき、カエピオの別荘に行った」
 いないと言うのに気配を探るように周囲を窺ったスキピオは、納得して皿に手を伸ばした。
「彼がいると、何か?」
「気になっただけです、静かだなって」
 機嫌よく、何もかも快い心地なのだと分かる顔をしたスキピオというのは実のところありふれたものでなかった。彼の気がかりが側近くで彼を見ていないときはこうなのだ。そういうことは口に出さずに、ポリュビオスはファビウスに声をかけた。
「パウルス殿が演説をなさるおつもりだと伺いましたが」
「ああ……ええ、市民の皆が父を心配しているので、気持ちを和らげてやりたいのだそうです」
「語ることであの方のお気持ちも和らぎましょうね」
 そうでしょうねと、ファビウスはそれを願ってか目を伏せる。
 彼らの実父アエミリウス・パウルスが獲得した勝利の影は、栄光の発するあまりの光輝のために、どこまでも底が続くのかと思われるほど深いものとなった。
 ポリュビオスの眼の前にいるこの兄弟は、父親の愛情ゆえに生家を離れ、それぞれに優れた家名を負っている。彼らにかわって生まれ持った名を受け継ぐはずだったのは、異なる母親を持つ彼らの弟たちだったーーその後継を失い、彼らの生家は空になろうとしている。
「もともと父は先立っての執政官職にも乗り気でなくて、人前に出るのが好きという訳でもないのです。それで少し……」
「兄は心配しているんですよ、お疲れになってしまうんじゃないかって」
 大丈夫だよと言い添えた弟にファビウスは頷くこともその逆もなく、ちらとこちらを見る。
「……人に語ったり人を説得したりするうちに、自分にも決着を着けさせてやれるということは、多いですよ。あなたの心配ももっともだとは思いますが」
 ポリュビオスの言葉の何かに気を引かれてスキピオの注意の殆どが自分に向いたのに、ポリュビオスは内心で首を傾げた。
 兄とは少し違う色味の瞳はポリュビオスか、その姿を通り越していつかの出来事かを追うように動いた。どこか戸惑いを隠せずーー躊躇ってか。
「ポリュビオス、」
「ーーファビウス。ひとつ相談があるのですが」
 被さってしまった呼びかけにポリュビオスはまたスキピオに目を向けたが、彼の目はもう兄の方へ向きを変えていた。
 他のアカイア人たちとの手紙のやり取りについて、ポリュビオスと兄とが言葉を交わす間スキピオはなぜか口を挟まずじっと彼らの間を見ていた。そこに飛び交い浮かぶ言葉を、何度も読み返しているのかもしれなかった。


 仔犬にじゃれつかれ尻餅をつく妹を支えようとし、一緒になって地面に転がったスキピオが、声を立てて笑っていた。躾のされる前の仔犬は待ても何も聞かず尾を振り甲高く吠え、中庭で遊ぶ兄妹はそれが楽しくて仕方がないようだった。
 パウルスの書斎には中庭に向けて窓が開かれており、そこからは中庭の様子が、何に遮られることもなくよく見える。植木があったが邪魔なので移したのだと言ったのは彼の長子だったが、冗談話ではない気がした。
「お子様方は揃って仲睦まじくていらっしゃるのですね」
 執務机のパウルスを振り返ると、彼はにっこり笑って首肯した。彼が二度の結婚をしたので子供たちは異なる母親を持つが、その違いが彼らを大きく隔てることはなかったようだった。
 パウルスの子煩悩を知ったのはつい最近のことで、ポリュビオスは多少それに戸惑ったものだ。ペルセウスを下した、それ以前にも武勲を有する勇猛な将軍、その徳を広く称えられる古い貴族の家長が、養子に出した息子たちの来訪に相好を崩して幼い子に対しするように両腕を広げるとは思うまい。
「あの子らは機嫌よく過ごしているかい」
「機嫌よく……ええ、概ね」
「よかった。私たちに気を遣うのか、悲しい顔をしないものだからね」
「……パウルス殿のお話になると、スキピオもファビウスも表情が柔らかくなります」
 案じつつも、その名を出すだけで安心できるというように。手頃な枝を投げて仔犬に取ってこさせているスキピオの横顔は、そういうときの彼の顔に似ていた。
 分かっていると言うようにまた微笑み、パウルスは飽きることもなく中庭を眺めている。ポリュビオスが窓辺を離れ、客用にか置かれた椅子に腰掛けると、ああ、と思い出したように言って振り返った。
「ポリュビオス、息子たちに頼めないようなことがあれば、私に言ってくれればいい。力になろう」
 何分あの子たちも大人ではあるが、力不足は否めないから。暖かく言う彼に、ポリュビオスは礼を述べた。自分がいまここにいて、望外の自由を得ているのが他ならぬこの人物の恩恵だと、知らぬわけもない。
 だからもう十分だったし、スキピオにもファビウスにも叶えられぬようなことを望むつもりはない。彼らが請け負える願いが増えたならばまた、ポリュビオスも様々に望むのであろう。
 言わずとも通ずると思って口を閉ざしている相手に、パウルスは背凭れに身を預けながら「本当に、私を頼って欲しい」と重ねた。約束なのだと。
「……約束?」
「リュコルタス殿は私たちがメガロポリスを発つ前に、この地に再び訪れることがあればまた自分を訪ねてほしいと……また、ご自分や一族がローマを訪れることがあればくれぐれもよろしくと。仰らずとも分かっていることだと、その時には不思議だったが」
 不意を突かれた。言葉もなくさんざん目を泳がし、結局また目の前の人物へと辿り着かせたポリュビオスに、彼は少し悲しげな目をした。
「私はあの当時には、君の立場についてそこまでの考えが至っていなかった」
 各地の使節が追放者の名簿を持ち寄って将軍に差し出し、それに目を通したとき、リュコルタスの次子の名を見つけた。共にそれを見つけたスキピオが、だからかと言って、貸した書物の話をしたので、パウルスの方も諒解がいったのだと。
 もっと早くに気がついていて、それで何ができたという話ではない。ただパウルスはリュコルタスにもっとしっかりとした言葉で応えなかったことを悔いているのだと言った。
「悔いていらっしゃるのですか、……あなたに何の責がありましょう。父は、二度と会うことはなくともお前は戻ってくるだろうと言いました。パウルス殿は十分過ぎるほどあの老人を安堵させてくださったのです」
「二度となど、言わせたくはなかった」
「父にあまり高望みさせないでください、やっと老いを認めたところだったのですよ……」
 あまりにおのれの声が弱々しいので、ポリュビオスはらしくもなく気持ちに反して笑った。窓へと目を転じれば、父や兄にするように自分を仰ぐ友人がいて、それだのにポリュビオスはこの家での彼と同じに子供になってしまっている。誰かの子供、人から生まれ育まれては決してそうでなくなることはできない存在であることは、いまとなっては苦しい。
 くるりとスキピオが向きを変えて、目を瞠った。
「あ……、ーー待ちなさい、こら!」
 待てをまだ知らない仔犬が部屋に駆け込んできて、ひとしきり走り回った後、ポリュビオスの服の裾にじゃれつく。手を伸ばしても逃げないので膝に上げたところで、テルティアとスキピオが追って飛び込んできた。
 兄妹が仔犬とポリュビオスを見比べ、それからそろりと父親を窺う。その顔があんまり似ているのでパウルスはようやっと笑いを堪えて、真面目な顔つきでポリュビオスの膝に落ち着いている仔犬を示した。テルティアが寄ってくるのに仔犬が耳を立てる。
「ポリュビオス、ごめんなさい。お兄様が変なところに枝を投げてしまったの」
「構いませんよ」
 テルティアが抱くと仔犬もやや大きく見える。少女が短い毛並みに頬を寄せて破顔し、きっとこの部屋にあまり入ってはいけないと言いつけられているのだろう、小さく礼をして中庭に戻って行く。
 彼女と一緒に出て行くかと思われたスキピオはポリュビオスのそばに立ったままで、
「ポリュビオス」
 と囁くように言った。
「何です?」
「あの……いえ、何でも。ね、父上、今日は先生と、妹たちも一緒に夕食をと思うんですが、いかがでしょう」
「いいよ。身内だけだから」
「はい! ああ、母上もですよ。遠慮なさらないように父上から言っておいてくださいね」
「分かってる分かってる」
 煙たがる素振りをされてひとつもそれを気にせず、スキピオはポリュビオスの腕を取った。どうかしたのかと見上げられ、何が、と尋ね返すように小首を傾げる。玄関で出迎えてすぐ兄の手を引いたテルティアのやり方と何も変わらなかった。
 立ち上がると、スキピオは父親に念押しをしながら書斎を出る。仔犬の鳴き声のする方へ歩いて行く彼が、妹の姿が見える前に振り返らずにまた小さく、彼の友人の名を囁いた。
「……何です、スキピオ」
 少しばかり体温の高い彼の手が、肘から手首へと滑り落ちて、最後には頼りなく指を握った。スキピオは結局何も言わなかった。


 朝方、ローマを見たいと言い出したポリュビオスに、スキピオは少し驚きはしたが嫌な顔をせずでは案内しますと頷いた。昼食を従者に持たせてあちこちを回ったが、日が傾くより先に彼らは屋敷に戻った。
 市壁の内でも外でも、ギリシア人がうろついたところで誰が目を向けるでもなく、しかしスキピオは様々に案じてか慣れたとしてもひとりで出歩かぬようにと彼の客人に言いつけていた。ポリュビオスはそれを必ずしも守るつもりはなかったが、スキピオが案内を進んで請け負ってくれると言うなら悪くはなかろうとも思う。
 七つの丘すべて巡ったわけでなく、何もかもを目にしたとはとても言えないながら、いちいち説明してくれたスキピオの様子がこの日の出来事を意義深くする。あの少年は、これからよりよくなる場所だと言った。自らの手でとは、慎み深さからか言わなかったが。
 夜の暗がりで油灯を頼りに、とりとめなく見聞きしたものを書き留めながら、彼の家門の墓所のそばでスキピオの言ったことを思い返す。無垢なまでに真摯に手を取り言うものだから、抗弁する気が萎えて頷いてしまった。
 この地での幸福は、得てして不安を引き連れてくる。老いから病みがちになった父の近況など兄からの便りのほか知るすべはないというのに、ポリュビオスは時にそれを憂いるのを忘れる。
 スキピオがポリュビオスの最も叶えて欲しい望みを知らぬわけはなかった。彼の乞うのに近い声音は、それを知っていて彼自らの望みを告げるそれであったのだ。ならばと、思う。
 筆を置き、端書きを適当な文箱に放り込んで、寝支度をと席を立ったが、ポリュビオスはそのまま彼の部屋を出た。夕餉を共にしたものの夜の挨拶をせずにいたことはひとつの口実であって、スキピオの部屋から明かりが漏れているのを目にしたとき息をついた心地のほうが、真実に近い。
「スキピオ?」
 婚約さえまだの少年の部屋にもしかすると彼以外がいるのではと、扉を開きかけたところで気がついたけれども、幸いにして部屋には彼だけだった。
 寝台そばの卓に置かれたランプの明かりが、それから少し離れた窓辺にいるスキピオの姿をかえって暗く、見えづらくしていた。月のない夜、長椅子に蹲るようにして動かない彼の顔は闇に目が慣れても判然としない。
 脇に置かれた蝋板を見るに、どうやら彼も何か書物をしていて、その途中でか寝入ってしまったらしい。昨夜もよく眠れなかったのかもしれない。
 長椅子の傍らに膝をついたポリュビオスはその眠りが深いのかを確かめようと手を伸ばしかけた。しかしその手は少年に触れないまま、膝の上へ戻された。
 小さく、しゃくりあげながら彼が誰かを呼ぶ。その名はこの国であまりにありきたりで、街路で呼べば数え切れない男が顔を向けるだろうといったものだったが、誰を指すものかポリュビオスには察しがついてしまった。
 ルキウス、そう呼び、両手を抱き締めるように背を丸めたスキピオの強張った肩に、少なからぬ躊躇いを押しやってポリュビオスは手を添える。夢に苛まれているのか、夢さえ見ないままに魘されているのか、苦しげな息遣いが続いた。
「……大丈夫ですよ」
 頬を拭った指をまた濡らすものに止め処がないならばそれでよかった。不意に息を詰める彼の肩を撫で、名を呼んだ。目覚めよと呼びかけるのでなく。
「心配はいりません、大丈夫」
 もうほんの子供ではない彼にそれを言ってやるのには、彼自身の許しがなくてはならないだろう。示される真っ直ぐな友愛も、尊敬も、ポリュビオスにこう言わせるには足りなかった。ポリュビオスはこの少年にかけられるものすべてかけてやってもいい、それは自分がいまや彼に庇護され、ある種の支配を受けるからではない。
 きっと、胸の裡全て明かせばスキピオを当惑させるだろう。やはり何もかもが違うから、通じない言葉が彼らの間にはあった。
 どうにか起こさないように抱え上げた身体は流石に軽くはないが、伸び代がある。短い距離を運んで寝台に寝かせるとスキピオの目元に涙のあとが見え、しかし顰めつらしい様子はなかった。いくらかの間、ポリュビオスは寝台に腰掛けて少年の眠りが何にも妨げられないのを確かめてから、ランプを取り上げて明かりを消した。
 扉を閉め自分の部屋に戻ろうとしたところで、視界の端に捉えた姿に振り返る。ポリュビオスはその人物に意外さを覚え眉を寄せかけ、彼女が寝衣に上掛けだけの姿であることに気がついて目を逸らした。
 彼女の甥の部屋と中庭を挟んで向かい合う自身の部屋の戸口から、アエミリアはこちらを見つめていた。部屋を出たところでポリュビオスを見咎めたのか、ずっとそこにいたのかは、知れぬことだがーー客人の目礼に彼女は形だけ同じものを返し、部屋へ戻っていった。


 この兄弟は歩くときいつもポリュビオスを真ん中に置きたがった。ファビウスが左に立てばスキピオは右に、逆であればまた然りである。
「それで、彼ったら僕にそれを読ませてくれなかったんだよ。期待させられ損だ」
「おまえがまた無理を言ったんだろうに。アフェルだって満足できないものを人に見せたくはないさ」
「最初に書き上げたら見せてくれると言ったんだってば」
「またそうやって、散々迫ってうんと言わせたんだろう?」
 軽口の応酬はいつもそう長いこと続かないが、軽妙にぽんぽんとやりとりをして突然終わるので、この国の人間の習性なのかと最初誤解しかけたものだ。
 スキピオがそれでも約束だったのだと言い張って終わったやり取りは、ポリュビオスにはよく分からない話だ。尋ねれば何であれ教えてくれるだろうが、彼は彼で通り過ぎていく町の景色の方に目が向いている。時折こちらだと誘導しながら歩く兄弟にはまったく見慣れた、もうほとんど目に入りさえしない町並みであろう。
 彼らはファビウスの屋敷を出て、連れ立って歩いているところだった。午前の空気は未だひんやりとして、忙しなく活動する市民たちの気配はむしろ昼よりもみっしりと市内を満たしている。貴族の邸宅の多い地区を離れた途端にこの騒がしいこと、まったく好ましいが、まだまだ最高潮というわけではない。
「ーーファビウス、話していた裁判がこの後あるのでしたか」
「ええ、ポリュビオスのおかげで一通りなんとかなるかと……」
「憂い顔ですね」
「もっと自信あり気な顔をしろと父に言われていっそう、そういう顔ができなくなったんです」
 ファビウスが懐から出してきたパピルスを、ポリュビオスは特に受け取らなかった。草稿を書くのにあれこれと相談を持ちかけられ答えてやったが、その時点でファビウスは特に弁論下手という感触がなく、問題なかろうと思って。
 法廷での告訴や弁護は、この国の若者にとって政治へと足を踏み出すのに大切な活動のひとつだ。ファビウスやスキピオならば彼らの家が持つ多くの人脈が彼らを頼る人々を与え、機会にはほとんど事欠かない。あまり挑戦的なことをせず、初めには手に負えそうな案件を請けて、というのがファビウスの現状だった。
 けれどもこの日には自分が原告であると言うので、法廷での決まり文句の数々が頭から逃げ出しはしないか、せっかく組み立てた論を自分で散らかしはしないか、常以上に心配なのだろう。
「法解釈については助言してさしあげられないが……わたしにもよく分かるのだから、大抵の人を説得することができるでしょう」
「そう言っていただけると気が楽です……」
「少しも楽そうじゃない顔だよ、兄さん」
「うん……こうやって悩んだ末に杞憂に済ませたいなんていう、姑息な考えがないではなくてね」
 弟と同じで大人しげな風貌がいっそう弱るのを、スキピオは眉を下げて見つめていた。少し考えるふうで腕を組んだのち、殊更に明るい声を作る。
「ポリュビオスも、故郷ではこうした経験が?」
「ありますよ、証人探しに走り回ったこともある」
「……失敗も?」
 ファビウスの問いには楽観に傾きかけた希望があり、ポリュビオスは頷く。
「失敗をしない人はいませんからね。どのように躓いて、どのように転ぶのかは違いましょうが。友人を助けてやれなかったこととてありますとも。ファビウス、あなたはもう少し能天気にご自身の若さなどを振りかざしてよろしいと思いますよ」
 はにかみ、ファビウスは力の入りすぎていた肩を少し楽にした。自分の屋敷に戻る弟とポリュビオスとに断ってからフォルムの方へと歩いていく背中を、スキピオは少し長すぎる時間見送っていた。
 小さく声をかけると驚いたように肩を揺らす。それを誤魔化してか大きく数歩進み、いつもの足取りに落ち着くとちらりとポリュビオスを覗き見た。数日前にパウルス家でしたのと同じ目つきで。
 昨夜、その予定がなかったのに彼がポリュビオスを伴ってファビウス邸で夕食を取り、そのまま泊まりまでしたのが、驚くほど単純な理由によることは知っていた。養祖母と顔を合わせたくないという、ある意味で子供じみた理由である。
「…………」
 ポリュビオスの方が無言を選んでこの沈黙を作っていた。この少年は彼の養祖母、同時に伯母である女性に何やら諭され、消沈している。何を言われたのやらそれは検討もつかぬが、スキピオが彼の継いだ家よりも生家や兄の家を居心地よく感じているのは明らかだった。
 横顔を見ていると、そうであるとしか思えないのだ。養家の人々に見せるやや萎縮した、行儀の良すぎるほど良い顔つきと、選びぬいた末に取り間違った言葉、それを悔いる翳りが。
「僕も、」とスキピオはほとんど上の空で呟く。「法廷に出たほうがいいでしょうか」
「あなたがなさりたければ、なさればよろしい」
「そうですね……」
 ほしい答えでなかったらしいが、ポリュビオスには他に呉れてやる言葉がなかった。
 隣立つ相手の逡巡と緊張が、敵に構えるけものがそばにいるように伝わってくる。何度も握られては開かれる手に知らぬ顔をするのは大したことのない演技だが、いまにも泣き出しそうな少年にまるで関心がない顔をする、というのはーー「ポリュビオス」
 熱に浮かされたように頬を紅潮させ、スキピオは顔をあげないままもう一度、ほんの小さな声で友の名を口にする。ポリュビオスが思わず足を止めるとそれに倣い、未だに舌の根に絡む躊躇いを飲み下し、一度、固く目を閉じた。
「ポリュビオス、どうしてですか」
 ほとんど涙を浮かべたように潤んでいる瞳に、薄情な顔の男が映り込んでいる。いいや単に驚かされているだけだ、そういう顔なのだから仕方がない。
「あなたはいつも兄に話しかけて、問いかけるのも答えるのも、兄の方だ。どうして僕をのけものになさるんです」
「それは……ついさっきのことを仰っているのですか、あれはあなたのお兄様が悩んでおいでで、あなただってーー」
「いつも、いつもふたりきりでいられたら、こんな思いに囚われはしないでしょう」
 とめどなく流れ出す言葉に彼自身が追いつききれていないようだった。スキピオの眼差しが痛いほどに思いに満ちていた。
「でも誰かと一緒だと、……あなたも、皆と同じように僕に落胆なさっているんでしょうか。市民たちは僕をおとなしくて頭の鈍い人間だと言うのだそうです。ローマ人らしくない……スキピオ家が求めるのはおよそ僕のような人間でなくて、正反対なのだと。僕は……」
 ぐっと堪えるために息を止めてから、「僕はそう言われていることが何よりも苦しい」と彼は吐き出した。
「そんな……」
 よく回る口だと自負していたものを、ポリュビオスはもどかしさに呻くように言うほかなかった。一瞬の間でさえ、何かを取り返しのつかない彼方へと追いやろうとしている。
「そんなこと、仰らないでください。そんな考えを心の片隅に置くのだってやめてください」
 我慢ならない、と言うのは止した。
「わたしがあなたを蔑むような真似をするはずがない。あなたが心配なさるようなわたしの振る舞いは、みなファビウスのほうが年上だからそうするだけなのです。あの方が問いかけるならばあなたも問い、あの方に答えるのならばあなたにも答えていると思っているだけのこと。当たり前のことでありすぎて、他意など、思いつきさえしませんでしたとも。ーーけれど、スキピオ」
「…………」
「たったいま、確信を得ました。あなたの苦しみは紛れもなくあなたがいっそうの高みを目指していらっしゃる証だ。……あなたさえ望んでくださるのならば、わたしは何もかもあなたに懸けて、あなたがあなたの望む姿を得るのを助けましょう。他の勉学ならばともかくのこと、あなたを苦しめるこの事柄について言えば、あなたを支えて差し上げられる者は」
 言葉の終わらぬうちに、引き寄せる強さで、スキピオが微かに震える両手でもってポリュビオスの右手をかたく握りしめた。
「……わたしの他には、いません」
「ポリュビオス、僕、そればかり願っていたんです」
「ええ」
「それこそが僕の願いです! あなたが他の何よりも僕を思って、そばにいてくださったら。それが叶ったら、僕は……僕に価値があると、そう頷かせることができると、信じられると思うんです」
 その手があまりに熱いので、ポリュビオスは顔のほころびるのを禁じ得なかった。様々な、あらゆるものを備え生まれ、与えられ、それに満足せぬ情熱を持つ未だ少年にすぎない彼は、おのれには価値がないと、そう断じられていると信じている。
 他の誰かがそう察し、手を差し伸べなかったのが何故か、ポリュビオスには分からない。握った手を離れがたく思いいつまでも立ち止まっているスキピオが、なぜ彼を慈しむ誰にも助けを求めずーー誰しもにとって期待通りではない自らを明かすことができなかったのか。
「やっと……」
「え?」
「いいえ。……わたしはやっとあなたに応えられたのだと思って」
 涙の筋などない彼の目元を手の甲でなぞり、両手を軽く叩いて右手を引き抜く。抱き締めてやりたい気がしたけれどそれはいまでなくてよかった。往来する人々の視線を意識する余裕の生まれたらしいスキピオは照れたふうに笑った。
 他の何よりも彼を思い、そばにいることが、いまのポリュビオスには約束できた。自らがそれを望むのも嘘ではなかった。そしていつまでも、と少年は思うだろう。いつまでも、片時も離れずと。それが叶わぬことをポリュビオスは願い、信じていた。
 彼の望みを自分は叶え、自分の望みは彼が叶える。夢を見るようにして思い描かれるばかりのいつかの日が、姿を結んで待っているのだと。


 これほど上機嫌な顔は初めて見る。と言うよりも、彼の上機嫌にはもはや際限がないように思われた。
「やっと紹介できた、今日は起きてからずっと緊張して仕方がなかったんだよ!」
 椅子に落ち着かず部屋中を歩き回るスキピオに、ポリュビオスは何度か声をかけたが。聞こえていないのか聞いていないのか彼の挙動が落ち着く気配はなかった。
 数日に一度の頻度でスキピオはポリュビオスを屋敷から連れ出したが、この日は彼の友人ーー親友を紹介したいという誘いだった。ガイウス・ラエリウス、彼の話にたびたび登場する、スキピオよりもいくらか年長の青年。
 相手が知り合いを忙しなく作るのをまだ厭うだろうという気遣いからか、スキピオに彼の家族以外を引き合わされるのは今日が初めてだった。スキピオ邸やパウルス邸よりもずっとこじんまりとして簡素なラエリウス邸に、スキピオはほとんど家族の一員のような態度で入っていき、その家の誰もそれを咎めなかった。
「……ギリシアから、スキピオに手紙を貰ったんです」
 そっとポリュビオスに話しかけたラエリウスは微苦笑を浮かべながらもちっとも嫌そうでない。
 彼は高貴な生まれではないらしいーー三つの名前を持つのでないことがそれを示す、と言うーーが、品のある面立ちで、椅子に腰掛けたポリュビオスのそばに立つ佇まいも整っていた。
「私、あなたのことを勝手に色々想像しました。メガロポリスで出会った方々について、なんだかとても楽しそうに書いていたものだから」
「褒めてくれていたのでしょうね」
「ふふ。くれていた、なんて……ここのところもあなたの話ばかりですよ」
 何故か部屋を出ていったスキピオを追うでもなく、ラエリウスは訝しみさえせずゆったりとしていた。
 そう多くはないが書籍の並べられた棚と机のある小さな部屋は、もともとラエリウスの父親が仕事をするのに使っていたのを譲られたという。父は書き物などを落ち着いてできない性分で、と、代筆をしている途中の手紙を指してラエリウスは笑った。それがやはり、ちっとも嫌そうでない。
 まろい線の彼の眦が、愛情深さを示すように思われた。長い時間の上に築かれた堅牢なその城に閉ざされた門はなく、いつも開かれて新たな来訪者を迎え入れている、という、そういう印象が彼にはあった。
「あなた方はやはり、同じ名の先人の縁からご友人に?」
「ええ。ですが出会ったとき、彼はまだスキピオではなくただのプブリウスでした。どれほど大きくなるものか、自分でさえ想像できないくらい小さな、ただの子供だった」
 ハンニバルとの戦争をその終結の立役者のそばで経験した男の息子は、彼の親友がいま彼の屋敷のどこで何をしているのか、見ているように分かるらしい。
 ほんの少し、時間を気にしてか相手の心証を気にしてかのためらい、焦りに似たものがラエリウスの顔に過る。
「ポリュビオス殿、あなたが出会ったのは若き日のアフリカヌスである、と、そう思われますか」
 その問いの真意はおそらく、幾重にも茂る垣根の向こう、彼らの血と記憶とで刻まれたものだっただろう。それがどうしてか、驚くほどにあっさりと、ポリュビオスには見抜くことができた。
 この青年はポリュビオスがスキピオにどんな約束をしたのか、知っているのだろう。
「……あなたもスキピオに、かくあれかしと願われますか」
「もちろん、それは彼の大望です」
「彼はその望みに見合わぬ器であるから変わらねばならないと?」
「それを決めるのはわたしではありません」
 眉間に寄せられた憂慮がラエリウスにむしろ凄みを与えるようで、ポリュビオスはそれを見上げ少し、途方に暮れる気分になる。
 父にするように兄にするようにと言うが、スキピオはラエリウスを父兄を必要とするようには求めてはいまい。半身を思うように慈しみ尊ぶ、これほどの存在を得ることは人間には難しい。それを彼らが知っているのかどうか。
 他の誰も問わぬことをラエリウスは問うているのだ。答えられる者をやっと目の前にして、長いこと秘めてきたものを明かすように。
「わたしはただ、スキピオが欲するところを助けてやりたいと思います。彼はそれに足りる、いいえ、もうじゅうぶんに足りていて、あとは満たす器の姿を知るだけでしょう」
「それは……」
 雨が降っていましたと呟いたポリュビオスに、ラエリウスは目を丸くして、雨、と繰り返す。そう、雨が降っていた。
「わたしが彼を知ったのは、パウルス殿について知ったのち……メガロポリスを訪れるローマの将軍が子息を伴っていると聞いてからのことでした」
 名を知っていることと、その関係、立場の詳細まで知っていることはまったく違っていて、異国の人間からすれば彼らの名前について理解することさえひとつの垣根であった。
 スキピオが来ると聞いた。そう聞けば浮かぶのはハンニバルを打ち破った英雄であったし、コルネリウス氏のうちでそれだけを思いかべるのはこの場合に限れば正しかった。しかし、どうだろう。しとしとと雨の降る午前、中庭のそばで書物を広げ何やら悩ましげに首を捻っていた少年は、名の表すところの光輝であっただろうか。
「彼がわたしの知る最初のローマ人だったわけではない。けれどラエリウス殿、気恥ずかしいのを堪えて言えば、わたしにとって故郷で出会った少年はわたしの歩かねばならない道の有様を教える灯火だった」
 ラエリウスが不意に身を低め、ポリュビオスの座る椅子のそばに膝をついた。見上げられてやっと、この青年にもポリュビオスがすでに親しんだ若者たちと同じ輝かしさがあると悟る。諭すつもりで語ることをラエリウスは決して拒まず、柔らかに受け容れるだろう。
「彼はわたしを必要としています。それに応えるのは、ひとつのわたしの仕事です」
「ポリュビオス殿、私はあなたに謝らなくては」
「……必要ないでしょうね。かえってわたしのほうが、お礼を申し上げるところかもしれない。あなたを安堵せしめるということは、わたしは誤ってはいないということでしょう……」
 父や兄の次にあの少年を知るラエリウスは、そのときだけ少し不恰好な笑い方をした。きっといつも、整って美しく、どこか冷たく笑うのであろうに。
「ーーねえ、ラエリウス! この子また太っ……なにしてるの?」
 眉を上げたスキピオは、友人たちを順繰りに何度も見て、何も分からなかったのかその眉を顰めた。彼の腕にはいささか大きすぎる猫が抱えられ、背後には飲み物など用意した奴隷の姿が見えた。
 ラエリウスがさっと立ち上がってなんでもないさと笑うと、スキピオから猫を取り上げる。納得しきらない面持ちでスキピオは友人を見つめていたが、不穏さなど嗅ぎ取らなかったのかひょいと肩を竦めた。
「ふたりが仲良くなってくれたならいいんだよ」
「もちろん、心配いらないよ。君や君の父上、兄上が見込んだお方だ。ね、ポリュビオス殿」
「ただのポリュビオスで構いませんよ」
「なら私も、ただのラエリウスがいい」
 ふと、スキピオが彼の引き合わせたふたりの間、そこに浮かび解ける言葉に目を向けた。
 ほんの瞬きの間のこと、彼ははにかんで、くすぐったくって仕方がないというように口元に手を添える。喜んでいることだけが確かだったから、ラエリウスはそれを気にしなかった。
 いつの間にやらラエリウスの腕から抜け出しポリュビオスと背凭れの間に身をねじ込んだ猫は、スキピオが見ていたのと同じところを見遣って目をぱちりとさせる。
 自分と彼らの間に横たわる長い長い空白は、言葉のみならず多くのものにより埋められていくだろう。それがポリュビオスの胸の裡に苦痛よりも空虚よりも何を呼び込んだものか。彼らに明かすのはすべて語るに足りるだけの大きな山を築いて後と、そう思われた。

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