top of page

払暁

 クィントゥス・トゥベロは、その邸の空気が澄み切っているのを感じて、それだけで泣いてしまえそうだった。みずから出迎えてくれた邸の主人が浮かべた笑み、挨拶とともにトゥベロの肩に触れた手の優しさも、変わりがない。
「このようなときに押しかけて、申し訳ありません。あなたにこそ頼みたいことなのです」
 椅子に腰掛けてトゥベロに構わないのだと言ってくれるそのひと、ラエリウスの、目元はほんのすこし窶れて見えた。
 自分の母が泣かないでいるふりをしていること、自分と出会う人々がみな不安がっていること、そんなことを話したくてここに来たわけではなかったから、ラエリウスが常と同じく鷹揚に目を細めるのに救われる。トゥベロには、尋ねたいことならばいくらかあった。だがそれも後回しだ。
「伯父の追悼演説を……私と、マクシムスとで、行うことになっています。あの方には子がおられないから」
「ああ。君たちがいてくれてほんとうによかった」
「ですが、あなたにこれを言うのはいかにも、その、情けないことなのですが。私はどうにも、どうしても、話下手です。書くにしても拙くてならない。それであなたに、原稿をお願いしたくて」
「私に?」
 意外そうな声を出されて、トゥベロは当惑した。そうだ、ラエリウス、あなたにだ。その他に誰がいると言うのだろうとさえ口にしかけてどうにかこらえ、頷いた。ラエリウスの瞳がすこしトゥベロから逸らされて中庭で揺れる葉を追い、時折沈思を示すのにやるように彼は口元に指先を持っていく。
 通された部屋に大きく開かれた窓からの傾きかけた日差しをやや眩しく思った。邸は静かだった。おそらく、静かにせよと主人が言いつけているからだろう。数多くの訪問者があってもおかしくはないのだ……伯父の邸が静寂から程遠い有様であるのをトゥベロは従兄弟とともに目の当たりにして、その足でここへ来た。
 ラエリウスが口を開くのを待つ間、トゥベロは自分の師のことを思い出した。パナイティオスはなぜ、もう少し長くローマに留まることができなかったのだろう。つい先ごろギリシアに戻っていった哲学者がいたならトゥベロはこの困惑、不安、そして悲しみに近づきつつある無力感を正しくやりすごしたはずだった。
「マクシムスはどうするのだろう」
 その瞳はどこかを泳いだまま、ラエリウスが言う。
「彼は自分で書けるでしょう、たぶん……」
「うん。ときにトゥベロ、君の夕食を用意させてくれないかな」
「え?」
「私は、構わない。構わないけれど君の言葉も必要だろう」
 奴隷を呼び寄せて卓と書き道具を持ってこさせると、彼はにこりとした。確かに、彼のあまりに流麗な言葉の並びは、自分が口にするとまるきり他人の書いたそれだと分かってしまうだろう。
 ラエリウスは彼自身の父のために追悼演説を行ったことがあった。そのとき彼がどのようにして亡父を惜しみ、同時に悲痛な色なしに称えたのか、トゥベロは演説について途方に暮れかけてすぐ思い出したのだ。トゥベロもマクシムスも、ラエリウスも、彼らが遭遇した死について、考えをまとめるほどの時間を与えられてはいない。伯父が死んだのはおそらくは昨夜のことだったーーそれが分かったのは今朝のことだった。
 みな不安がっている。笑う者はひとりもいない。あの姿が二度と目前に現れないのだと知り、まるで壮麗な行列が過ぎ去っていってしまった後のように呆然としている。
「伯父の顔を見ることはできませんでした」
 アトリウムに横たえられた遺体は、慣わし通りに清められ、トガを着せられていた。家の者たちが形式ではなくさめざめと泣き、彼の保護を受けていた者たちがどうすればいいのか教えてほしそうに立ち尽くしていた。
「伯父の顔にはベールがかけられていた。それを、どうかとらないでいてほしいと言われた」
 下書きのための端紙にはまだ何も書き付けられていない。ラエリウスは手元に目を落としていたがトゥベロの眼差しに応えた。マクシムスがひどく気を害された様子でいたのだ、と言い訳がましくトゥベロは言った。
「ひと目、最後にお会いしたいという気持ちだったから……」
 昨日の伯父の姿を最後のものにしたくない。何もおかしなところなんてなかった、端然と彼は立ち、歩き、話して、人々に見送られて邸へと帰った。ならば今日だって同じ姿を目にできなくてはおかしいではないか? きっとマクシムスも同じように思ったはずだった。
 こんなことは後回しにすると、ついさっき自分に言いつけたことだのに。ますます困惑したようになって黙ったトゥベロは出されていた杯を手にしたが、口をつけられなかった。
 夜明けの前、伯父の訃報が市内を駆け巡るよりもすこし早く、ラエリウスは真っ先にそれを知らされ、取り乱した伯父の妻のもとへ駆けつけた。女主人が平静を失ってもあの家が正しい行動をとり衆目に耐えることができているのは、このひとがそのように差配をしたおかげなのだ。
 あのベールを、センプロニアがかけたものだとばかり思っていた。
「トゥベロ」
 何度も瞬きを繰り返し、晴らした視界にラエリウスの姿を認める。彼はやはり微笑んで、年若い友人を見守っていた。
「トゥベロ、君の伯父のことを私に語っておくれ」
「何を、お話しすればいいのでしょう」
「君は彼について、私の知らないことをたくさん知っているはずじゃないか。家族なのだから」
 それに対して自分が口走ろうとしたことに気付いて、トゥベロは咄嗟に杯を傾け、ただ唇を濡らした。けれども何も誤魔化せてはいないし、ラエリウスがそうしたトゥベロの様子をなんら解釈を挟まず見ているだけであることが、怖くなった。
「伯父は」とトゥベロは振り絞った。「誰よりもあなたと一緒にいたし、あなたほど伯父を知る人なんて、いません。確かに私やマクシムスは伯父によくしていただいた、母は伯父を慕っているし、きっと、そう、仲がよかっただろうと思います。でも」
「でも?」
「あなたほど、意味はなかった」
 ラエリウスが続きを促すように黙っているので、トゥベロは居た堪れなくなる。自分も彼も、伯父への称賛の言葉はあふれるほどに持ち合わせているというのに、トゥベロが口にするのはこんなことなのだ。
「あの方にとって欠くべからざるは、何よりもあなたでした。そうでしょう? 私は伯父が好きでした、だって凱旋式で市民の歓呼を受ける英雄は、私の家にやってきてくれるんです。私が訪ねると嬉しいと言ってくれる。誇らしかったのはあの方のことなのか、自分のことなのか、どちらであっても同じだろうと思います。でも時折考えました、もし伯父に子がいて、その子供が伯父に相応しいだけの人間であったなら、僕は、……」
「続けなさい、トゥベロ」
「僕は、何も変わらないのだろうと思った。伯父はきっと自分に子供がいてもいなくても、僕やマクシムス、カトーを、グラックスを……同じように可愛がってくれたでしょう。同じようにです」
「それをおかしなことだと思うのかい」
「昔には思いました、いまは、わかりません」
 紙はやはり何も書き付けられず、少しずつ暗くなる室内を、奴隷の灯した明かりが守っていた。このひとを賢人と呼び尊ぶ者はみなこの眼差しを見たのだろうという目をして、ラエリウスは椅子に背を預ける。彼は怒らなかったし、急かさなかった。いつだってそうなのだ。トゥベロにはなぜ伯父がこのひとを必要としたのか分かる気がした。
「もしも彼にも私にも後継者となる子供がいたとして、トゥベロ。私たちはその子供たちよりも互いのほうをたいせつにすると思うのだね」
 トゥベロが首を縦にも横にも振らないでいると、彼は少しだけ困ったような顔をする。
「愛情を値踏みしようと言うのではないんです」
「分かっているよ、君はそんなひとではない」
「私には、なんだかよく分からなくなってしまった。伯父が好きでした、憧れていた、でも怖いと思ったのです」
 血が流れた、その血にはいくらか、トゥベロと同じ血が混じっていた。些細な同一であるのに、トゥベロは自分の頭が割られたような思いがした。伯父の心が驚くべき速度で、怖れるべき緻密さで冷えるものと知っていたのに、トゥベロはそれが自分には関わりがないものと甘えていた。
 だって優しかったのだ。甥に対して彼は言葉を惜しまなかった、褒めるのにしても、叱るのにしても。トゥベロは彼を恨んだことはない。彼らにはそうではないのだ、いまもそうではないのだ。まだ血が流れている、と思う。血のこびりついた伯父の言葉を思い出す。
 祭日に伯父の別荘を訪れたことはそう遠い思い出ではなかった。その場にはこのラエリウスもいた、ラエリウスがやって来るのを知らされたときの伯父の顔やすぐに取られた行動をトゥベロは見ていた。彼らは家族を除けば他の誰よりも長いこと互いを知っていたのに、伯父は気の抜けた格好でラエリウスに姿を見せたがらなかった。早すぎる時間に訪れた甥の前で欠伸さえしたのに。
 ラエリウスがペンをとる。パピルスの上をペン先が滑る音は心地よかった。彼は、とトゥベロは思う。自分に何を語って欲しかったのだろう。それに自分が応えられなかったことばかりが鮮明だった。
「なぜ死んでしまったのでしょう」
 握り合わせた手を緩め、いつの間にか丸まりかけていた背からも力を抜き、椅子に身を預けてしまうと楽になった。
「これが天命であったのなら……あんまりじゃありませんか」
 赤みがかった目が穏やかさも笑みの気配も消し去って、トゥベロに向けられる。ラエリウスは、伯父もそうだったが、整った顔立ちをしているがために笑っていないと険があるように見えることがあった。彼は怒りを見せない。それは怒らないということではなくて、怒りがすぐに違う感情に姿を変えてしまうからだと、トゥベロはパナイティオスに言われるまで気が付かなかった。
「彼は許してくれていた」
 何を、と問う暇を与えずラエリウスがまた柔く笑みを浮かべる。
「君が怖がる必要のあることなんて、ひとつもないのだよ、トゥベロ」
 夕食にしようと言って立ち上がったラエリウスが渡してくれたパピルスには、トゥベロがなぞるべき言葉が並んでいた。美しい言葉の列、整った賛辞の列。惜しみない愛情の証左。まだそれは途中であったけれども、これ以上ないものだと分かった。
「続きは夕食のあとに書いてしまおう。葬儀については粗方決まっているんだろう、急がなくてはね」
「ラエリウス」
「それは君が好きなように書き変えても構わないから」
「ラエリウス、あなたは……」
 知っているのだろうとトゥベロは言いたかった。見上げた賢人は自分に背を向けていなかったのに、トゥベロにはそのとき彼がどんな顔をして自分を見つめていたか、言い表しがたい。
「ありがとう、私を訪ねてきてくれて」
 彼は自分が失ったものが何であるかを知っていた。それだからトゥベロを迎え入れたのだった、まだトゥベロには、分からない。立ち上がることができずに目を瞠る若者の手の中で、言葉ばかりが正しくそこにあった。


 先を歩く奴隷の持つ角灯が足元を照らす夜道、未だ眠りに就かない人々の起こす音の波は小さくはなかった。喧しく騒ぎ立てる酒宴はどの邸でも行われていないようで、それだからいろいろな音がひどく大きい。
 口さがない者たちだけでなく、多くの人が交わす言葉をすり抜けるようにして、トゥベロは歩いた。ーー毒を盛るのならば簡単なことだ。弟の仇討ちか、ならば母親はどうなんだ? ーー首に痣が残っているというのは本当なのかい、それどころか、殴られたようになっていたっていうのは? ーー当然のことだよ、あんなことを言ったのだもの。 ーー何にしたって、分かるものかよ。 ーー本当は誰も死に顔を見ちゃいないんだから。 ーーどうして? どうしてそんなことをしなくちゃならないんだ?
 そんな言葉が本当に投げ合われているのかどうか、ということは、どうでもよかった。それはひょっとするとトゥベロのまとまりきらない思考の声だったかもしれないし、偉大な死者の血縁を見送る者の視線の意味するところだったかもしれない。
 息苦しかった。いくら呼吸を繰り返しても何も足りないという気がした。足を速めるのにも限界があって、自分が無様であることはあらゆる人を無様にするのだとトゥベロは幼いときから教えこまれていたから、顔を真っ直ぐに上げたままで歩いた。目的の門が見える。昼間には大勢いた人がまばらになっていた、おそらくマクシムスが巡る噂に嫌気が差して追い払ってしまったのだろう。
「おい、トゥベロ、ひどい顔をしてるぞ」
 マクシムスはトゥベロがアトリウムに入るなりそう言って、玄関の端に置いた椅子から腰を上げた。彼のほうはそうひどい顔ではなかったが、疲れているようだった。
「センプロニア様はお休みになられたよ。さっきガイウス・メテルスが来てな、棺を運ぶのをあそこの四兄弟が手伝ってくれるんだそうだ。マケドニクスの仰せなのだろう。ガイウスに負われるとなると叔父上は嫌がりそうだが……トゥベロ?」
 トゥベロの髪はきつい癖毛で、その色合いも、父親によく似ていた。顔立ちにしたってトゥベロ家で暮らす親戚たちと似通っているものだし、たとえ母親似だとしても、それはまた祖母に似ているということにしかならない。
 年近い従兄弟の青い目をトゥベロは覗き込んだ。砂色の髪がいくつか灯された明かりを頼る室内でやや暗く見えた。マクシムスは彼の父に、よく似ている。パウルス家の顔をしていた。
「トゥベロ、ラエリウスのところに行ったんだろう。断られたのか」
「いいや。書いてくださった」
「何だ? ……悲しくなっちまったのか」
 そうして眉を下げると優しげに見えて、伯父たちのことを思い出させる。マクシムスの父はパウルスの長男だから、彼にとってすれば、彼らの目前にいるのは叔父だった。たった一年ほど前に自分の父を亡くしたときには親類が励まそうとするほどに打ち沈んだ従兄弟がトゥベロを気遣わしげに見るものだから、トゥベロは笑うくらいのことはしなくてはならない。だが、できなかった。
 あのとき、自らの兄を亡くして、伯父もまたほんとうに打ちのめされていた。同じ母から生まれたたったひとりの兄弟であるということの大切さなど、トゥベロには分からない。トゥベロ家は狭い邸に大勢の親類で住み、貧しさを楽しんで暮らす、まるで寓話のような家なのだ。伯父は誰かに分かれとも言わなかった。祖父の死んだときのことはトゥベロが思い出すには幼い頃のことでありすぎて、あの悲嘆が何に比すべきものか、他の誰が知っていてもトゥベロは知らない。
「ーーおい!」
 マクシムスが上げた声は、どこか怯えてさえいた。
 驚くべきことに、トゥベロは手に震えさえ来していない。伯父の顔を覆い隠すベールを、彼の両手はするりと持ち上げた。明かりが揺れる、風が吹いたようにして。
「…………」
 閉ざされた目が開くことはない。少しだけ開いた唇が、美しい言葉、刃のような言葉を象ることもない。その手はもう剣をとることがない。
 触れた膚は死人の冷たさをまとっていた。青白い頬に触れて、そこに触れたのは初めてのことだと思いだした。自分は一体、伯父のどこにならば触れたことがあっただろう。マクシムスはじっと黙りこんで従兄弟のほうを見つめていた。
 あのひとは知っているに違いなかった。トゥベロは首筋に触れる。ラエリウスは知らないでいることは許されないのだ。トゥベロはあの日の伯父の言葉を思い返している。それでもこんなふうであってほしくはなかったと思う。
「泣いて悲しんで差し上げられればよかったのにね」
「泣けばいいだろう」
「だめだよ。君は知らないから、いいけど、だめなんだ。僕や、あの場にいたみんなは、分かっていなくちゃいけないから」
「何を」
 懐に入れてあった草稿をトゥベロはマクシムスに差し出した。新しいパピルスに書き直されたものだった。ざっと目を通したマクシムスが「美しいな」と言う、彼の言葉にはいつも真実味がある。
「その言葉に嘘はひとつもない。飾り立てた美辞麗句ではないし、誇張なんてひとつもない、そうだろ。ラエリウスの知っているすべてだ、僕が口にできるすべてだ……」
 あの海辺。波打ち際に続く足跡はいつもふたり分あった。終わったわけではない。ラエリウスは誰を責める言葉も書かなかったのだから、あの波はいまも打ちては帰り足跡をみな消してしまうだろうが、あそこに彼らはいるのだ。それが彼の望みであるならばラエリウスはベールを誰にも触れさせないし、ラエリウスがそう決めるならば、誰も彼らを断じることはできない。
 マクシムスはトゥベロからベールを取り上げて、ほんの少し、瞬きを三度繰り返す間だけ伯父を見ていたが、すぐにまた死顔を覆い隠した。こうして誰もいなくなってゆくのだと彼は呟き、トゥベロの手を引いた。話し合うべきことがまだ多く残っていると相手を急かした声はしっかりとしたものだ。彼らと入れ違いに奴隷たちがアトリウムに入っていった。朝日が昇れば、なるようになってしまうのだろう。炎がその膚を舐めてすべて焼いてしまうのだーー火を用いなくてはならないと彼らは示し合わせてもいないのに了解していた。それは伯父に似合いの最期ではないかと不遜にもマクシムスは笑った。
 彼らは知らないのに、まるでそれが伯父の手で放たれた火であるかのように思った。静かでありすぎる夜、行き場の見えぬ揺蕩うような心地、悲哀の声になりきれぬ吐息も、みな、すぐに消えてゆくだろう。それは伯父の望んだことだった。彼らが望んだことだったのだから。

bottom of page