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彼方へと波は去る

 その日、王宮に入ることを許されていたわけではなかった。
 ユグルタは自分の暮らす屋敷に出入りする商人に、母親に悟られぬようこっそり頼んだのだ。その商人が王宮にも荷を運ぶのを知っていて、丁稚のふりでついていかせてくれないかと。気のいい男は快諾した。子供の出自がどうこうでなく、悪戯心を出したと思ったのだろう。
 招かれたのでなければ、ユグルタはそこに入れない。王である祖父が婚姻によらず生まれた孫に与えた身分は、いま彼の周囲を歩き、働く、自由身分の者たちと変わらなかった。
 商談が始まった頃合いを見て商人のそばを離れ、たった数度訪れただけの王宮を子供は迷わず歩いて行く。腕に抱えた外套に何か包んだふりで歩く彼を振り返るものはあまりなかった。慎重に召使いたちの使う通路を選んでも、奥まった場所に行くごとに子供の声が耳につき、華やかな身なりの若者を遠目にした。
 あれらは、王族だ。同じ血を引くけれどユグルタと同じではない。どれが誰で、自分から見てどういった間柄にあたるのかはひとつも知らない。祖父には庶子が多かった。
 目指すのはあれら王族の居住区でなく、それよりも外向きの場所だ。忙しない雰囲気を感じ取って期待が外れてないと分かった。いまここには客人がある、それも特別な、大切な客人が。
 小さな池で魚が跳ねる音がする。磨かれた石造りの柱が庭をぐるりを囲んでいた。祖父がこの王宮を得てから作らせたという柱廊は、ユグルタの知らない国の気配を漂わせる。裏側であれほど感じた召使いたちの気配が遠ざかって、静寂に近いものがあることに子供は気がつかなかった。
 まだ太陽は頭上まっすぐの位置にあり、艶やかな緑を輝かせている。整った中庭の土の上に立ったその時になって、心細さを覚えてユグルタは周囲を見回した。
 中庭に面していくつも並ぶ部屋は殆ど戸を閉ざしていた。位置からしていちばん上等と思われる一室とそのそばのふた部屋だけが開かれて、しかし、誰の姿もなかった。ここに来てしまえば、と思って、けれど来てどうするのかなんて考えていなかった。
 サンダルを履いた小さな足をまごつかせ、行くも去るも選べない。商人が帰ってしまう前に戻らなければいけないけれど、でも、ユグルタは見てみたかった。
「ーー君、大丈夫かい」
 はっと顔を上げた子供が振り返ると、柱廊に男がひとり立っている。
 アフリカ人ではなかった、ヌミディア風でもカルタゴ風でもない服を着ている。ローマの衣服だった。彼の髪は明るい色で、乾いた砂に似ている。
「ああ、言葉が分からないのかな……」
 言いながら庭に下りた男は思案げにユグルタを見つめていたが、すぐ近くに来ると膝をついて、子供の顔を覗き込んだ。
 彼はラテン語でなくギリシア語を話していたので、カルタゴの言葉に次いでそちらを先に学んでいたユグルタにはおおよそ何を言っているか知れた。子供が首を振ったのをどう受け取ってか、まだ若い風貌のローマ人は目をぱちりとさせる。
「迷子?」
「いいえ、あの……」
「おや」
 ギリシア語だね、と驚いたように言って、笑った。
 優しげでまったく害意のない笑みは消えずに、ユグルタの言葉を待つ。
「……会いたくて……」
 それだけしか言えずに口を閉ざしてしまう。このローマ人は客人のひとりに違いないが、彼は誰も連れていなかった。見てみたかったのは彼なのか、問うてみなくては分からない。分からないが、簡単な言葉ひとつさえ口にできないのは何故だろう。
「会いたいって……」
 言いさして、彼の目がユグルタの背後に向かう。ユグルタはとても振り返ることができずにいたが、男の方は立ち上がって親しげに呼びかけた。
「マシニッサ殿」
 複数の足音がこちらに近づいてきて、途中でひとりだけのものになる。自分の上に落ちた影を、ユグルタはその姿を見るのと同じくらい恐る恐る見つめた。
 うるさいくらいに鳴る胸の音に反して指先が冷たく、自分へと下りているだろう眼差しを思い描くのさえ怖かった。これが父なら、まだ考えの巡らせようもある。
 王は穏やかな声でずいぶん探したと彼の客人に言った。
「採寸の途中で突然姿を眩ませたと女中が慌てふためいている」
「お気持ちは嬉しいのですけれど、僕はああいう衣裳はあまり……すみません、まさかあなたがいらっしゃるとは思わなくて」
「いい、無理強いはせぬ。……そこの」
 呼ばれ、振り返るとき、目の前の異邦人と目が合う。彼は怯えきった子供の顔色を見た。伸ばされたその両手がユグルタの肩に置かれ、少し引き寄せたので間違いなかった。
 見上げた先でマシニッサは少し眉を寄せて子供を眺めていた。怒りはなく、不快もない。しかしだからこそユグルタは息の詰まる気がした。
「きっと迷ってしまったんでしょう、話を聞いていたところなんです」
「いや」
 そんなはずはないと答えたものの、その声は不確かな調子だった。
「確かマスタナバルの……」
 そこまでは言ったが、マシニッサはユグルタという名を思い出さなかった。彼についていた侍女が進み出てーーおそらく彼女は子供に見覚えがあったのだろうーー手を差し出すのに、ユグルタはおとなしく従った。肩にあった手の感触も温もりもすぐに遠ざかり、思い描けなくなっていく。
「あなたに会いたくてここに来てしまったようですよ」
 庇うように言うのが聞こえ、お孫さんですかと問いが続く。王は頷いただろうか、瑣末な内情を口にせず済ませようと。
「まあ、いい。スキピオ、昼餉の用意があるが」
「ご一緒に? ええ、もちろん……」
 そのときもう一度だけ、肩越しにその姿を見た。
 彼はユグルタが見慣れた戦士たちに比すればほっそりとして、背も高くはない。柔和な容貌で穏やかに笑う、その彼が、スキピオだった。寝物語に聞かされるローマの英雄の後継者でーーあるいはユグルタの小さな世界を支配するマシニッサよりも強い力を持つ者。
 その姿を見たくて、こんなことをしたのだった。
 ほんの小さな、閉じた世界に、風穴が開くのではないかと期待して。


 聳える壁が市を守るのでなく封じ込め殺すとは皮肉だ。ユグルタが見上げた壁は彼の背丈をはるかに越し、乗り越える者を阻む胸墻を備えていた。狭い間隔で配された伝令はどこで何が起ころうともすぐさま指揮官に状況を伝えられるようになっている。
 等間隔に建てられた塔に詰める弓兵のひとりがこちらを見たが、すぐに丘陵の上の都市へと目を転じた。
 冬が過ぎた頃、最初に哀れなるヌマンティアを囲んだのは塹壕と矢来、それとて塔を備えたものであったが、指揮官は次いでさらにそれを囲む壁を築くよう命じた。
 罰かと思われるほど重い労役に、兵士たちは文句を言うためには口を開かない。彼らは少なくとも指揮官や将校の目の光るうちは諾々と命令を受け取り、手足を動かした。それは冬営の以前に彼らを厳しく律し直した行軍と苦役、岩よりも嶮しい指揮官の叱責と軽蔑の、まさに賜物と言える。しかしながらユグルタは、それを目にしたわけではないが。
 ヌミディアからの援兵はローマ軍が冬営に入ったのちにヒスパニアに到着した。ユグルタが騎兵や弓兵、戦象などを伴ってやって来たときには、奢侈に耽溺していたという兵士らにも見えるべきものが見えるようになっていたのだ。
 ーー雨が、とユグルタは彼の騎乗する馬の様子に思った。風が些か強く、蹄の残す足跡にしても、雨雲が近い。同じことを思ったものか、ユグルタのそばに控えていた従者が空を見上げる。
「嵐になるでしょうか」
「小雨では済まぬだろうな」
 ヌマンティアにほど近く流れる川については、心配は不要か。馬首を転じた主人に従者は何も言わず後を追った。
 ドゥリウス川は壁の中を流れ、その川幅と水勢のために橋を渡されていない。この川を頼りに包囲を抜けて物資を運ぶ者たちの存在は懸案となっている。指揮官には何やら策があるらしかったが、いまのところは無防備なままだ。
 壁は都市全体をぐるりと囲むが、騎馬ならば周回にさほど時間はかからなかった。ヌマンティアは小さな都市だった。
 水の流れる音が聞こえたとき、ユグルタは馬の足を緩めた。そこに赤い外套を見つけ、その彼の方がこちらを振り返ったためだった。リクトルを従えた軍団の指揮官はユグルタの姿を認め、笑う。
「同じ心配をしたようだね」
「そのようで」
 スキピオは、河岸から流れを見下ろし、溢れるだろうかと首を傾げた。下馬し彼のかたわらに立って、答えかけたユグルタはしかし、何かに視線を引かれて目を細めた。
「……あれは」
 間の悪いことだと憐憫さえ覚える。ヌマンティアの方向から流れてくるそれは、水流に身を委ねた人間に違いなかった。何も、このローマ人が見ている前を通らずともよかろうに、決死の思いで市壁を出たのだろう。
 従者から弓と矢筒を受け取ったユグルタが矢をつがえ、狙いをすますのを、果たしてあの男は気付いただろうか。小さな点のようだったそれが人間の姿と彼以外の目にも知れたとき、スキピオが手を上げてユグルタに腕を下ろさせた。
「殺さずともいい、放っておきなさい」
 訝しむ相手に彼はいいのだと繰り返し、冷たい水が穢れないのを見つめていた。
「生きるものの数が多いほど飢餓が早く訪れる。あの男が持ち帰る食料など高が知れているし、かえって、飢えを厳しくするだろう……」
 ひとりの命を拾うのが、まったくの慈悲によらないとないというのに、スキピオは穏やかにそう言うのだ。
 見上げる位置にあるユグルタの目を、彼はふと覗き込んだ。
「ところで、君には今日一日の休養を与えたように思うのだけど」
「動いている方が気が休まるのです。あなたにも会えた」
 相手の言葉にスキピオは軽く笑って、それならばいいのだと。今度こそ温かな思いやりのある声音に、ユグルタは少しばかりのうすら寒さを覚えた。水の上を走った風がそうさせたのかもしれなかった。
「陣営に戻ろうか、日が傾いてきた」
 言われるでもなく彼に従い歩いた。愛馬は首にかけた縄をすこし引けばユグルタについて進み、乗っていなくてさえ従者よりよほど息を合わせる。
 現在、ローマ軍は陣営をふたつに分けていた。ひとつはこのスキピオが、もうひとつは彼の兄ファビウスが指揮し、包囲に穴ひとつ許さぬ構えとなっている。ユグルタはどちらかに必ずいるということはなく、麾下の兵士を指揮するために命じられるまま動いた。
 それでも、スキピオのそばにいる時間の方がよほど長い。ユグルタの望むところがそうであり、スキピオが望むところもまた、そうであった。
 リクトルに先導させる指揮官の姿を認めるごと、壁の守備兵らの空気が張り詰める。ユグルタと言葉を交わしているようでいて彼の関心が兵に向かうのを、これまでの経験で分かっているようだった。
「夕食を一緒にどうだい、今日はまだ誰も誘っていないんだ」
「ええ、是非に」
「あとはそうだな、マリウスも呼ぼう。それに……」
 将軍と相伴するのは、そうして指折る彼の声がかりを受けたものと決まっていて、彼に呼ばれるということは彼に認められたということだった。その能力ばかりでなく心根を、忠誠を。
 兵士に勤勉さを求めるとき、かつての自分を倣いとせよとスキピオは言う。それは驕り故ではなく自負故に発せられる言葉であり、真実そのようにすべきであった。今でさえスキピオは誰よりも休まないのだ。将校や兵士に規則的に休息を命じていながら、自らにはそれを怠っていた。
 それでいていつも清しい面持ちを崩さない。にこやかに語る調子が、少なくとも彼の不調で乱れたことはなかった。ユグルタは自分が同じように思われるのを知らず、そっと言う。
「また祖父の話を聞かせてくださいますか」
「そうだな、君がいるとつい昔話をしたくなってしまうが、近頃それが楽しい気がしているから」
「良きことと思われます、特にあなたの周囲の者にとっては」
「ふふ、人はこうやって話の長い老人になるんだろうね……」
 陣営の門を潜り、スキピオとはそこで別れた。迎えをやるからと軽く手を振った人の背を見送ることなく補助軍の集められた区画に向かう。
「あの方は本当にあなたを気に入っておいでですね」
 馬を繋いだ従者は賢しらにリビュアの言葉で言った。その顔が嬉しげに緩んでいるのを咎める気にはならず、ユグルタは黙って幕舎に入る。他の従者たちが主人の居所を整え待ち構えており、甲斐甲斐しい手を伸ばした。
「スキピオ様がまたお招き下さったのですか、それはよいことです」
「あのお方も人を見る目というものをお持ちだ」
「ローマ人はみなユグルタ様の武勇に感嘆しきりでございましょうね」
 装身具をより華やかなものにと推す手を退けると、従者のなかでもひときわ若い、これが初めての戦場である少年がユグルタに椅子を勧めた。
 この少年は、貴族の出ではあるが父を早くに亡くして孤児となっていたのを、ユグルタが自分のそばに呼び寄せたのだった。ヌミディアでも西方の出でシュファクスに仕えた祖父を持つ。やたらに大きな目は黒々としていつもユグルタを追っていた。
 スキピオの使いの者が迎えに来たとき、椅子のかたわらに膝をついた、幼さを残す部下に同行を命じたのは、ほとんど気紛れのようなものだった。
 将軍の晩餐と言っても、その食卓が豪勢であったためしはない。藁の寝台で寝る男が飽食を習いとする筈もなく、横臥もせず並ぶのは兵士らしい食事だけである。
 ユグルタがスキピオの幕舎に着き、奥へ招き入れられたときには既に何人かが居揃っていた。会釈を寄越したマクシムスの他に軍団副官や百人隊長がいくらか、それに、ガイウス・マリウス。
 不機嫌そうな面構えの粗野な男だったが、スキピオが評するように戦場においては抜群にその能力を発揮する。彼の世話した驢馬が見事だというのでスキピオは喜び、彼の服従と勤勉を常々話の種としていた。
「叔父上は少し出ている、すぐ戻るそうだが」
 自分で呼んだくせになあ、マクシムスの他には同意しづらいぼやきが幕舎のなかにぽかんとした空気を作った。
 なぜ、と、マクシムスは思っているようだった。何だってこの面子を揃えたのだと。
「席について待っているようにとのことだから、ええと……俺はここ、あんたは俺の隣で……」
 作法に則って割り振りながら、顔を向けないままマクシムスがユグルタに言う。
「真ん中が好きなんだっけ」
「……?」
「ヌミディアでは真ん中に座るのがいいんじゃなかったか? だから叔父上と俺の間、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 同国人とならともかく、自分ひとり異邦人である状況で気にすることでもないが。スキピオの甥で、同時に副司令の子息であり、財務官として従軍するマクシムスはこの場で最も高位の人間だった。
 ぼそぼそと会話があっても長続きのしない、つまりは然程親しくない者共が集まっていた。ユグルタは軍内に多く知己を得たが、この場にある者たちを縁を結ぶ相手には選ばなかったのだ。
 長く感じられたけれどもおそらくそうかからずにスキピオは幕舎に戻った。彼が伴っている人物を見て、マクシムスが席を立つ。
「すまない、ポリュビオスを探していたら時間がかかって……」
 謝りながらも友を上座に促したスキピオは嬉しげだった。矍鑠とした、と言ってなお足りないようなところのある老人は、ヒスパニアの地理も見ておきたいからとあちこち見分に出かけてしまう。久々にその彼を捕まえられたらしい。
 おかしなものでスキピオが加わると話が途切れることがなかった。彼が哲学や政治の話を好むのでそうした話題が主となるのだが、教養の浅い同席者が長いこと口を閉ざしてしまわぬよう、軽妙に話が切り替わっていく。
 昔話はそれが高名な人々の思い出であるゆえに誰しもが楽しめる話題のひとつだった。スキピオが語るのは彼の父の世代、そして彼の父たちが語った祖父の時代のこと、このヒスパニアでも戦われたカルタゴとの戦争のことだった。
「ポリュビオスのお陰で、私が語りきれなくとも読むことができる」
 スキピオが示したポリュビオスは、この戦争のことも著そうとしているらしい。こういった席で輪の中心とならない老人の饒舌は、その著作に見て取れる。
「しかし、スキピオ様」
 軍団副官のひとりがそう言い出したのはおおよその食事が済んだ頃だった。
「我々はこの先、あなたほどの指揮官をどこに得られるでしょう」
 阿諛追従の類と誰しも思ったが、言った当人は素直な顔でいた。スキピオは世辞を嫌うもののその様子に何を思ったのか、一同を見回し、その手をそばにいた男の肩に置いた。
「得られるとすれば、たぶん彼だろう」
 マリウスは、話の流れにその顔を一層厳しくしていたというのに、目を大きく瞠って指揮官を振り返った。子供のような驚きと喜びとがその男の眉間に現れる。上官の微笑みにどう返したものか戸惑うその朴訥とした様子が、スキピオの気に入りの理由の一端である。
 言葉なくからかうようにスキピオはマリウスの返答を待ったが、追い詰めることなく「今すぐにというわけじゃない」と。
「驢馬を馴らすように兵を馴らせばあるいはね」
「……は、」
 話題が移り、場が切り上げられても、マリウスは落ち着かなさげにしていた。彼は、この先どのように生きるにせよ、何を為すにせよ、あの一言を忘れまい。ユグルタは揶揄する気にもなれずその軍人らしい堅い背を見送った。おのれの灯した火がどのような影を形作るかまでは、人は思い巡らさぬのだと知りながら。


 この戦場では、敵が頻りに求めるようには、交戦は行われない。ローマ軍の牧者は愚かな羊たちの身の程を知っていて、勇猛かつ追い詰められた者どもにより無為に血を流すことを望まなかった。故にユグルタの仕事というものも、開けた場所での戦いよりも略奪であり、壁を乗り越えんとする者の撃退である。
 ヌマンティア人は幾度となく攻撃に乗り出したが、この時ローマ軍は同盟者からの徴兵を含め六万の軍勢を擁し、あらゆる攻撃への備えを抜け目なく行っていた。ひとたび敵襲を報せる喇叭が吹き鳴らされれば、守備兵は自身の割り当てに従って武器を手に飛び出し、壁全体が気を漲らせる。
 スキピオを囲んでの夕食の後、降り始めた雨が闇を埋め尽くして夜空に月はなかった。そんな中でユグルタが塔のひとつに登ったのは彼の兵士たちの査察のためで、スキピオはヌミディア人についてはユグルタを信頼して彼の統率に任せていた。
 ユグルタがヌミディアから率いてきた軍勢は、都キルタの者だけでなくマシニッサの一族に従属する諸部族で構成されている。規模で言うならば小さなさる部族の首長が、ユグルタに気がついて一礼した。
「あの川は溢れないと思う」
 ドゥリウス川を示して言うのは、ユグルタの気懸りを知っていて同じように注意を払ってくれているからだ。
「将軍は、渡る者を遮るために丸太に刃物を刺して浮かせると仰っていた」
「それはまた……」
 この包囲網を作り上げる男の考えそうなことだと、カルタゴの言葉は知れどラテン語を知らぬ男はスキピオを思い浮かべてか言葉尻を濁した。
 ふと槍を持つ彼の武骨な手、雨に晒され続け冷え切った指先に触れて、ユグルタは周囲の者たちを見渡した。
「歩哨はこの雨で身体を冷やしてしまうな」
「ローマ人はどうだか知らぬが」手をそのままに首長が不遜に頬を上げる。「我らの中にこれしきのことで弱るものはいない」
「……貴殿が言うと真に迫って聞こえるよ」
 男盛りの齢の男の体に若い頃からのいくつもの戦傷があるのを知っていれば、交代までの時間を短く、などとは言えなかった。
 話の切れ目を待っていたように、ユグルタのそばで周囲に注意を向けていた少年が顔を上げる。
「あの町は静かなものですね」
「ああ、いっそ不気味だ」
 その場の者がみな高台のヌマンティアを見る。あの町では城壁以外で明かりが灯されることは殆どなく、人々はこの雨を飲むのにも飽いて飢えと恐れを唯一紛らわす眠りに縋っているに違いなかった。
「将軍は本当にこのままずっと待つつもりか。カルタゴを落とした男にあれが落とせぬはずはなかろうに」
「ただ座していれば血を流さず勝利できるものを、口惜しげに言うものではない」
「しかし、これでは……」
 なんだか後味が悪そうだと、あるいは、期待した武勲を得られぬではないかと。少年もその男と似たような気持ちでか外套の下で唇を引き結んでいる。彼らの歯がゆさは自らのためでありユグルタのためであった。
「見た目より手強い相手だからこそこのような手を選んでいるのでしょう。これだけの仕掛けがあってそれでも乗り越えてくるのだから……」
 歩哨の一人が訳知り顔で言いながら壁の下を覗き込んだ。
 ……きりりと、微かに弓引く音が湿った夜風に混ざる。周囲の誰も警戒を示す者はなく、ざんざんと地を跳ねる雨に耳を塞がれていた。
「ーー下がれ!」
 鋭く言うのは遅く、兵士が弾かれたように仰向けに倒れた。眼孔に突き刺さった矢がぐらぐらと揺れる。
 壁にしがみ付き蹴り上げる激しい音、鶴嘴か何かを突き立てる衝撃、獣じみた叫びが轟き、全ての塔に急襲の報が走った。遠く聞こえる喇叭、兵士たちが一斉に動き出す喧騒、間近で空気を裂く殺気に満ちた怒号。ぎらついた目が薄闇に現れたとき、ユグルタは光って見えたそれを的に矢を放った。
 男たちの目は、武勇に優れ支配を是とせず抗う、高潔なものの様相を捨て去っていた。そこにいるのは人間の姿を取った、怒りであり、狂乱でありーー
 ひ、と剣を構えた少年の喉が鳴る。
 敵はその怯えを見逃さず狙いを変えた。自らの同胞を射った男でなくその側の、目を見開いた、水平に構えられた短剣の意味するところを忘れてしまった子供へ。
 半歩、足を踏み出したのは、救おうと思ってのことではなかった。
「ユグルタ様!」
 弓を捨て抜き放った剣により、ヌマンティア人の首がぱかりと分かれる。吹き出した血潮を避けずその胴を強かに蹴って壁の下に押しやったユグルタの傾ぐ身体を、誰かが背後から受け止めた。その腕がやたらに強く彼を背後へ引きずっていく。
 乱闘は長くは続かなかった。町から打って出た者はそう多くなかったらしい。
 最後まで立っていた男が、複数の槍に貫かれて倒れる。他に壁を登る者がないかとヌミディア人も駆けつけたローマ人もしばらくその場を動かなかった。彼らの緊張が解けたのは壁の下からの号令が聞こえてやっとのことだった。
「ユグルタ様、ああ、傷が……!」
 言われ、差し伸べられた華奢な手が左肩を押さえてやっと、そこから血が流れるのに気づく。流れる血が返り血に混じり、雨に溶けて、外套の下の衣服をしとどにした。落ち着きを失った少年を押し退けた首長が、外套を裂いて傷口を縛り上げる。
「案ずるな、騒ぐほどのものではない」
 そう諭したものの、容易に立ち上がれないのでは示しも何もあったものではない。支えようと伸ばされた腕を押しやり、大したことはないと繰り返す。
 ユグルタは兵士らに持ち場に戻るよう命じ、ひどく重く感じられる身体を気概でもって支えて立ち上がらせた。負傷者が出たと無闇に広めるなと言いつけておいて、塔を降り幕舎へと向かう。
 外套を搔き合わせ、足取りの覚束なさを誰にも悟られぬよう気を張るのは、彼という青年にはそう難しいことではなかった。重く水を含んだ毛織の布を握る指先の震えは寒さゆえか、濡れて冷えた肌に反して熱を持つ肩に果たして痛みがあるのか、曖昧になっていてさえ。
 あの少年が背後を付いてきている。すれ違う兵士がユグルタでなくその少年の顔を振り返る。邪魔だと思うのに振り返るのも億劫だった。
 従者のなかには医術の心得のある者を含めている。肝心の主人が傷を負わないので無鉄砲な若武者たちの面倒ばかり見ていると不満げだった初老の男。喜ばせることになるだろうか。あれに任せておけば間違いはないだろうが、これは指揮官に対し隠しおおせる傷だろうかーー脈絡のない思考が、幕舎の灯りを目にして途切れる。
「どうして歩いて来たんですか!」
 血の臭いを嗅ぎ取ったように幕舎から出てきた医者が叫ぶのを聞いた。


 断続的な眠りは、その繰り返しで延々と夜を引き延ばすようだった。ユグルタがそれまでよりは明瞭に開けた視界を得た時、幕舎の中はまったく暗いままであった。
 治し難い傷ではないが血が流れすぎていると、手早く処置した医者が叱りつけるように言っていた。場所が悪かったということらしい。頭の中に霧が詰まっているような不快さは熱のせいで、飲まされた薬は彼の身体を精神から遠ざけているような気がする。
 衝立の向こうに控える従者の気配は眠っているようで、ならばそう心配すべき状況ではないだろう。
 そうしてまた瞼を下ろしたのは、ほんの一瞬のように思えたが、再び開いた目は幕舎に差し込む光の助けを得た。しかしそれも真昼の日差しでなく、早朝のか細いものだった。眩しい、と思ったユグルタの目元を、彼のものでない手が覆った。
 誰だと訝しむこともなく、冷たい指先に顰めかけた眉を緩める。鈍痛が絶えず肩にあったが痛みはただそれだけのことで、他の鈍りに比すれば耐えるに易いものだった。
「まだ眠っていなさい」
 囁いた声に、返事をしたかもしれない。そんな訳にはいかない、雨が止んだのならば壁などの状態が気にかかるし、食糧徴発の任務とて……。
「私が命じるのに、強情な子だな」
「……?」
「ああ、喉が渇いたろう。声がほとんど出ていないよ」
 何か物音がして、首と枕の間に手が差し込まれる。それに委ねたままほんの僅か首を傾け、口元に添えられた器の水を飲み下した。成る程喉が渇いていたらしいと少なからず流れていった不快さに思う。
 もういいと示すとすぐに手は引いていった。しかし寝台のそばに椅子を据えているらしい気配は去らなかった。
 じっと注がれる眼差しは、監視するそれであるのだが、断ち切りたいとは思わなかった。
「君の従者の少年が泣いていた」
「…………」
「おのれの未熟……怯懦があってはならぬことを起こしたと」
「そうではない……」
「うん?」
 あれが恐れたのはおのが身の危難ではなく、向かい来るヌマンティア人の形相ーーその悲愴と苦渋であった。カルタゴの偉容と最期とを記憶せぬ少年には無理からぬこと、戦いでなく人間を知らぬのだから責めようもないことなのだ。
 しかしおのれが憐れを催したのが何故か、ユグルタは未だ答えを出せない。憐れと思って踏み出した半歩が褒められたものではないのは分かっていた。
「君は冷たいひとではないね」
 穏やかな声が疎ましいほどに情を持っていた。包まって眠るには温かすぎるような、ユグルタが受け取るには柔らかすぎるような。
「私が君の才ばかりを愛すのだと、みな思うのだろうか……君も、冴え渡っていなければ私の隣には立ちたがらぬのだろう」
 髪を梳く手が籠もった熱を逃がす。
 とろとろとした眠気はずっと注がれているのに、それに身を委ねるのが、惜しい。
 初めて獅子を狩ったとき、怒る獣の爪に傷ついた息子の腕を、母はいつまでも眺めていた。触れては痛がらせようと思い、けれど目を注いでいなくては治らぬというように……子を慰めとして父の訪れを待つのを忘れた哀れな女は。
「他者を従えるばかりでなく、彼らに思い及ばすことをも君はできるのだと、知れば王はお喜びになる」
 子の武芸が達者になるのを見るにつけ、父の喜びとなるだろうと笑った女だったのに。
 声は語るうち相手が眠るのを待っていた。抑揚の乏しい語り口は確かにそれを促していた。ユグルタはその声にではなく、王、という言葉に、彼を送り出した伯父の姿を思い出す。
 おまえの優れた技量がローマを助け、私を助けるだろうと言い、その才を試す場を楽しむようにと言った。勇敢さを出し惜しむな、名声を追え、敵へ向かえ、危険を顧みず、恐れを忘れ。
「……私が王を喜ばせるには、死んでみるしかない……」
 撫で梳く手がぴたりと止まり、離れた。行ってしまうのだろうかと目を向けた先で、赤ではない地味な色の外套を纏ったスキピオが空を睨んでいた。
「ーースキピオ? ……っつ」
「起きてはいけないよ」
「わたしは、今……」
 今、何を言っただろう。甘やかな停滞が去った頭は覚えているのに思い出そうとしない。
 スキピオは答えず、青褪めた顔で微笑む。朝晩必ず包囲の見回りに出て壁を一周する彼が、日が出ているのにこんなところで時間を無駄にすることはできない筈だった。
「幼い君のことを僕は憶えていなかった」
 立ち上がったスキピオの影が幕舎に伸びる。その力の大なることを疑わせない澄んだ眼が常と変わることなくユグルタを見ていた。
「けれどいま僕のもとにいるのは君だ。……それを軽んじないでほしい」
 少なくとも熱が下がるまでは寝ているようにとユグルタに言い、衝立の向こうで従者に見張るように言い、スキピオは幕舎を出て行った。
 彼は夜の明けぬうちにここにやって来て、傷の具合を事細かに聞き出したらしい。目を腫らした少年が嬉しげに語った。この子供は自分のために死にたがるのだろうとその顔に思えば、いっときも離れたがらないのを追い払う気にならなかった。


 購われる人々がユグルタに王となれるだろうと言う。
 ローマ人の将校たちには、あまりに容易く歓心を買える者が多かった。ヌミディア人を端から侮って、ユグルタの生まれを内心で蔑む者ほど、言葉を尽くし手を貸すとすぐに期待を持つ。彼らはスキピオの信念を、ユグルタの才を食い潰していく。目の前に若者には野心があるものと見てさかんに煽るのだ。
 祖父や父、伯父たちが友とし、子らに友とせよと言ったローマ人はあれらのことではない。それが分からぬユグルタではなかった、ローマ元老院の眼差しの色を知らぬのでもなかった。
 人懐こい笑みを作って彼らの話を聞きたがる役を演じるのは、つまらない。虚しく、ばかばかしく、しかし、そうして得るものが今や小さくはなかった。だから購わずにはいられなかった。
 細く穏やかな小川に浸した足が、冷たい水に解けていった。スキピオの陣営からそう距離を置かないこの川辺はいつのまにかユグルタの決まりの場所になっている。
 腕を使えるようになるほど傷が癒えると、ユグルタは配下に割り振っていたおのれの仕事をまた担った。スキピオの気遣いは過大なものとならず、任務が軽くなることも少なくなることもなく、しかし、休息も変わらず与えられた。
 休みなさいと命じられて、本当に休む気になると、ここに来るのだ。供をつけないことを従者たちも不思議と容認している。
「ーー何か?」
 だから人の気配があると嫌だった。振り返ったユグルタの目線の先で、軍装の男が目を瞬いている。
「足音がしたか?」
「……」
「悪いな、特に用事はないんだ」
 マクシムスは悪びれもなく笑って、外套の裾を払いユグルタの隣に腰を下ろした。ここを隠しているわけでも黙っているわけでもないので、何か用向きがあれば訪れる者もある。
 手ぶらの男が軍靴を解かないまま川に足を突っ込み、ぶらぶらと揺らすのを、ユグルタは何も言わず眺めた。
「なあ、あんた、ルフスを落ち込ませるようなこと言ったか?」
「覚えがない」
「そうだろうなあ、じゃあ勝手に心配してるんだろう。気が回りすぎるっていうのも考えもんだよ……」
 ファビウス・クンクタトルの家系に属す彼が、生まれの高貴さに反して軽々しく弁えのない話の輪に混ざることが時折あった。お喋りな連中はマクシムスに少なからず自分たちと同じ性質があるものと安心している。ユグルタは、この男を相手に多弁となることは避けていた。
 金髪と呼んでもいいだろう髪、昼の空に近い瞳は、どちらも彼の父よりも明るかった。恵まれた見目をしていたが、才覚とてその血族に恥じぬものがある。父や叔父と同じ陣営で過ごすというのに、あまりに肩肘を張らぬ様子が、それそのもの才能と思えた。
「傷は?」
「任務に支障はない」
「よかった」
「……ああ」
「あんたを探してる奴がいたぜ」
 ここだろうと思ったが言わないで放っておいた。親切心の発露とでも言いたげな、軽薄を装う笑みから目を逸らす。
「疲れないか、自分の話しかしたがらない奴って」
「話を聞くことはそれだけで有益だ」
「でも疲れたんだろ? 好きなことなら疲れないって言うけど嘘だよな、叔父上なんか暇があればいつまでも書物と向かい合うけど体力があるだけだよ」
 適当な相槌にマクシムスは勝手に笑っている。
 彼は唐突に、ユグルタに食べ物の好みを尋ねた。好む葡萄酒の産地、哲学は嗜むか、どこに行ったことがあるか、行きたいか、女は好きか、矢継ぎ早の問いに誤魔化しも嘘もなく答える。世間話に選ばれて場をもたせる話題をみな出し尽くしたので、この先マクシムスとの間には無言が生じるだろうと思わされた。
「ちゃんと色々好きなんじゃないか」
 どういう意味だと問い返す間もなく、マクシムスは続けた。
「なあ、これは忠告というよりお節介だが。本当に好きなことをしろよ、自分がしたいことを。他の誰がどうであれ叔父上は、あんたの望みを信じているんだぜ……」
 だから自分も信じるとは決して言わぬ男は、嘘をついていなかった。ーー彼らの傲慢さは、厚情にこそ荒々しく息づいている。
 ローマ人たちは、他のあらゆるものと変わらない。ユグルタを見込む首長たち、ユグルタの指揮を望む戦士たち、幼い甥の成長と萌芽を、高値の宝石を掘り当てたように喜んだ、かつての王。
 彼らの期待と望みは真っ当だろうか、そのいずれがユグルタをより正しく導いただろう。もう遅い、既に遅い。頑是ない幼子のうちに、それを教えてくれていればよかったものを。
 ユグルタはマクシムスに笑いかけて、礼を言った。素直で従順な若者の姿がそこにあった。ただマクシムスはもう笑わず、せせらぎばかりが彼らの沈黙を宥めていた。
 何を選べば。そう尋ねられて、スキピオは答えを迷わないだろう。
「火を」
 そう彼は言った。彼の目の前には空となったヌマンティアがあった、痩せ細り何もかも失い、同胞の肉を口にして生き延びたヌマンティア人たちがいた。
 盛夏、ヌマンティアは陥落したが、元老院から命令を携えた使者たちは未だ到着していなかった。彼らはヌマンティア市の破壊を命ずるだろう、その予想は正しいだろうが、しかし、命令はまだないのだ。
 周囲の当惑にスキピオは構わなかった。つまりは彼の意図を本当に知る者は、その時にも彼のそばにあったギリシア人の他にはいなかったのであり、ローマ軍はスキピオに教え込まれた通り彼に従順だったのだ。
 彼の雅量は、降伏したヌマンティア人に自殺のための猶予を認めた時に示されてそれで終わりだった。掠奪ーー労苦に対しあまりに乏しい見返りへの直面ーーが済み、ヌマンティアが流す血さえ失ってそこにある。それを焼けと言う。
 彼の徳に頼って和解を求めたヌマンティアの男たちは同胞の狂気にかかって既に殺されていたので、スキピオの命令を目の前にしたのは彼を人間とさえ信じがたい哀れな者共でしかなかった。火がヌマンティアへ流れ込んで行くのを、彼らは涙も流さずただただ見ていた。
 ユグルタは、カルタゴの滅びを見ていない。子供であった彼は劫火に染められた空の底冷えのするような色しか知らない。彼の面前で滅ぶヌマンティアは、その炎であってさえカルタゴと比べようもなかった。
「君には助けてもらった」
 そばに来た若者に気がついたスキピオがそう笑ったので、ユグルタは煙の臭いの正体を忘れかけた。
「別れとなると、名残惜しい気がする。グルッサやマスタナバルとはこうして別れたきりになった」
「私がローマへ伺うこともあるでしょう……」
「そうなったら嬉しい。 まあ、今のローマに君を心から歓迎するのは難しいが……」
 ローマで政治的な混乱が生じているとの報せはスキピオに届いていた。そのとき彼はまだ決定的な報せを受け取っていなかったが、言葉は大袈裟なものではなかった。
 そればかりが理由ではなく、勝利への陶酔がスキピオにはない。キルタの王宮で見知らぬ子供を慮ったあの日の彼が当たり前に携えた光輝は、年ふるごと重く落ち彼の影を濃くしていったようだった。
「彼らは……」
 ローマ軍の前には、顔を背けずにいられぬ悪臭を放ち、衣服とも言えぬ襤褸を引っ掛けた、落ち窪んだ目をした敗者がいる。そのうち五十人が選び出され、凱旋式を飾るのだった。
「彼らは勇気を備えていました、蔑むべき民ではなかった」
「その通りだ」
「ならば、どうすれば」
 問いを全て口にせず、黙り込んだユグルタに、スキピオは若者らしい感傷を読み取った。彼はそれを許し、咎め立てせずに柔く目を細める。本当に、優しい人間なのだ。
 ユグルタは、肌を刺すようないやな心地に襲われて、取り繕うのも忘れて目の前の男を見た。ローマがおのれを脅かす敵へと送り出す、武器たるひとり、彼らの信義の檻で投げ餌を受け取るのを拒む者たちへ差し向けられる、死の運命を運ぶもの。
「自分が何者か忘れなければよかった、それだけだ」
 彼にそれを言わせるのは、彼ひとりの心ではない。ユグルタは何も返せずに、スキピオの炎が彼の道を焼き狭めるのを知った。もっと、早く、彼に望まれていればよかった。
 狼の子らの手は、あまりに大きなとばりで世界を閉ざしていく。

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