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影法師の冠

 彼がこの土地の生き物なのだと気が付くのはいつも唐突なことだった。あるいはまた、雲のひとつさえ追い払われた冷めた色の空のもと、はてなく続くが如き平野、ここがこの男の生きるための場所だと感じるのは。
 グルッサが急に振り返って手招きをするのに、ポリュビオスは大人しく馬を進めて近くへ寄った。
「見えますか、あそこに獅子が二頭」
 彼の指差した先にはいくらか緑の茂った樹がぽつねんと立っている。しかし見えるものといえば、朝焼けを背景に樹があると判断できる程度のぼやけた形でしかなかった。
「……あなたは目がいいのですね」
「そうかな? これ以上近寄ると流石に牙を剥かれるかもしれないから、残念だ」
 そう言いながらもグルッサはいくらか進み、しかし、ポリュビオスと随行者にはここにいるようにとまた振り返って言い置いた。動いてから気が付く性分なのか、考えながら動いているのか分からないが、ポリュビオスは彼に先んじて動くことは止そうと決めている。やや遅くにかかる忠告や指示はやはりこの土地にあるものとしてはこれ以上なく正しかった。
 ポリュビオスがスキピオに同行してアフリカに渡ったのはこの無二の友に乞われたからだけでなく、数年前には見ることの叶わなかった場所を含めアフリカの地を目にしておきたいと考えたからだった。
 初めてアフリカの地を踏んだときには、ポリュビオスはヒスパニアでの軍役についたスキピオに随行していて、彼がヌミディアに使いに出された機会に便乗したのだ。それで、スキピオが援兵を求める任務を済ませている間にちょうどいまと同じようにグルッサにこの土地の案内を頼んだ。
 彼がグルッサを知ったのはローマで、彼がまだ王子であるときだった。いま、グルッサは王だった。
 ヌミディアの王が獅子とじっと視線を交らわせていると、そこに言葉があるかのようである。それが老いた獅子であることはグルッサが強い緊張を見せないのでそうと知れた。もはや獲物を狩ることさえ覚束ない、斜陽を浴びる生き物。
 殺すのだろうかと思ったのは、グルッサが槍を手にしていたからだ。しかし獅子狩りというものは大勢で行うものであろうし、老い衰えたとはいえ勇猛な獣を二頭、たったひとりで屠るのは容易とは思えなかった。
「あれらは時に人を襲うのです」
 張り上げられたわけでもなくまっすぐ届いた声に、ポリュビオスはひとつ瞬きをして、グルッサに焦点を合わせた。
「駆け逃れる獣に追いつけなくなり、鈍足の人間を狙う。人間の肉は旨いのかもしれない」
「先日、獅子が磔にされているのを見ましたが。あれは?」
「恐れさせるためです」
 視線を断ち切っても獅子はその場を動かなかったようだった。気を研ぎ澄ましたとは言えない風情でグルッサが戻ってきて、陽光に輝る髪を払う。
「惨い死に方をした仲間を見て人間を襲うのはよからぬことと分からせるため。わたしも昔、手伝ったことがある。残酷だと思われますか」
 ポリュビオスは緩くかぶりを振り、グルッサが見遣っていた場所を眺める。獅子がグルッサやその同行者を恐れて動かないというならそれは聡いことと言えたが、ならばあれらの牙は抜け落ちたも同然なのだ。
 相手にさほどの興味がないと見て取ったのか、グルッサは太陽の位置を確かめてから、ネフェリスに戻ろうと馬首を巡らせる。ローマ人が囲む都市に彼は騎兵の指揮官としてかかりきりになっていたが、隙を見てポリュビオスを連れ出していた。将軍の側近が何を好んで、何を見たがっているか、以前にも同じ用向きでポリュビオスの相手をした彼はよく知っている。
「獅子は好きだ」
 急がぬ調子で進みながら、グルッサはどこをと言うでもなく、視線を彷徨わせた。
「昔、子供の頃だったが、獅子の仔を貰ったことがあった。父が雌の獅子を狩り殺したあとになってそばに仔がいるのに気が付いたということだった。大きな犬にするように可愛がったし、いくらか懐いたものだ」
 獣がほんの幼い間には周囲も王子に玩具を与えたように思っていたが、成獣となる前に取り上げられて、それきりだという。悲しかったとも恨めしかったとも言わず、グルッサはそれで話を終わらせてしまった。
 冬だというのに真夏と変わりなく見える衣裳の彼は何事も気取りなく、一方でポリュビオスは彼が王族であることを忘れるときはなかった。ヌミディア人というのはそういう人々なのだ、と彼は考えている。グルッサの父がそうであったようにである。
 陣営に戻ると、ネフェリスとカルタゴとを忙しなく行き来しているスキピオもちょうど到着したところだった。ネフェリスの常任指揮を任せられているラエリウスとともにスキピオは彼の師と彼の庇護を受ける王とを迎えた。
「早かったですね。もう少し遅くに戻ってくるのかと」
「あなたが来る頃かと思って戻ってきたのだが。遅くともよかった?」
「いえ、ちょうどよかった。もういい加減、なんとかしようと思っているところなので」
 何を表すでもない調子で言ったのは、ディオゲネスの陣営のことであった。カルタゴ側でネフェリスの指揮を執る男の名はいつのまにか、ローマの陣営に相対する位置にあるその陣営のほうを忌々しく指すために使われている。その陣営の壁が二箇所、破壊されたのが昨夜のことだ。グルッサはスキピオが来るまでは軍を動かさないからと朝早くにポリュビオスを連れ出したのだった。
 ネフェリスこそが攻囲を受けるカルタゴを最も大きく支える都市であり、この都市を攻略しさえすれば、カルタゴは容赦なく飢餓へと追い込まれるのである。スキピオは時間のかかる方法を採る方針を曲げず、しかし着実に戦争を遂行していた。ネフェリスは冬の間に、というのが彼の立てた期限だった。
 作戦を伝えるから集まるようにと言われグルッサが見せた顔にラエリウスは些かの苦笑をこぼす。無理もなかっただろう、グルッサは目を輝かせて、退屈から抜け出せると言葉にこそせずともその瞳がいかに能弁か、ポリュビオスも知っていた。
 ポリュビオスはスキピオの参謀役として陣営にいたから、直接戦闘に関わることはなかった。作戦について気が付いたこと求められたことを述べる、それが仕事で、彼の関心は自らの著述である。
 ディオゲネスの陣営にかけられた攻勢、その結果とて、驚くべきことはない。ただ、著述するつもりの起こらないこと、著述する必要のないこと、あるいは、すべきでないことが彼の前にも絶え間なく転がってくるのだ。血に濡れて垂れ落ちた髪などは、著述する必要のないことだった。
「戦士ではないものが混ざっていたような気がする」
 成功裏に終わった攻撃ののち、グルッサと彼の配下の帰還は他よりも遅れた。遮二無二に攻め立てられた陣営から逃れた者たちの追撃を彼の騎兵が担ったからで、士気がはじめから低かったネフェリスの兵士たちは多くが逃亡したのだ。
「気がする、とは?」
「熱中すると目についたものを殺すので、どうだったか……」
 編まれた長い髪を血が固まらないうちにほどき、ややぞんざいに手櫛を通しながら、グルッサは思い返しかけていたが、すぐに諦めた。その軽装も剥き出しの腕も血に汚れていたが、彼に傷はなく、それはいつものことだった。正嫡の兄弟の中で彼が軍指揮を担ったのにはそれなりの理由があってのことだ。
 ふと、薄い色の瞳がポリュビオスを見る。相手の手に濡らされた布があり、控えめに差し出されているのにやっと気がついた顔だった。手を少し高く掲げれば笑顔で受け取る。眩しいまでに笑う男だと言ったのは、スキピオの配下に入ったカルタゴ人だった。
「楽しそうですね」
 そう言ったのは悪意があってではなかった。ただ、そう思ったのだ。
「得意とすることをするのは楽しいものでしょう」
「ええ……」
「馬を駆るのも、槍を振るうのも得意だ。わたしの部下たちもそうだ、まあ、性向というものも否定はしません」
 目を細め、また笑う。生気に満ちて瞳が色を濃くするのをいっそ野蛮だとも感じられた。ポリュビオスからすれば彼は蛮族で、それは違いないのだが、だからといって獣じみていて当然という話ではない。
 自分の従者がラエリウスを伴ってやって来るのを見て、グルッサは頬を拭った。ラエリウスは相手の有様にやや遠慮するような様子だったが労いと礼とを述べ、引き続きネフェリスの町の攻囲にあたるよう言った。
「大変そうですね、その髪では……」
 思わずとか、口をついてとか、そういう言葉だっただろうが、ラエリウスが長髪のことを指すとグルッサは不思議なくらいに深く頷く。
「自分では世話しきれないので、従者に任せているくらいだ。短くしたいとは思わないので仕方がない」
「そうですね、あなた方はそれがお似合いですから」
「父君と同じことを仰るのだな」
「え?」
「マシニッサはあなたの父君に似たようなことを言われたと。老人の思い出なので真偽は怪しいが」
 従者にせっつかれるように自分の天幕に戻っていったグルッサを見送ってから、ラエリウスはポリュビオスを少し顧みて、淡く笑みを浮かべた。
「不思議ですね、私は父にマシニッサ王があのような姿をしていて驚いたのだという話を聞いたことがあります」
「風体ですか、あの返り血?」
「どちらもです」
 ラエリウスはスキピオが呼んでいるからとポリュビオスと並んでゆっくりと陣営のなかを歩いた。どのような色合いの空気の中でも静けさを醸し出す人物の隣に立つと気分の在り処までがらりと変わるようだった。
 彼の父親のこととてポリュビオスは見知っていて、話を聞いたこともあった。不思議だと言う気持ちを間接的にであれ理解することもできる。
「長い髪を編みこんで異国を思わせる風貌の戦士たちが、おそろしく無防備なままで戦場を駆けるのに、敵として目の当たりにした時は肝をつぶしたと。父の話はいつもどこかしら大袈裟ですが、そればかりは誇張ではないでしょうね。マシニッサ王とともにアフリカで戦ったときには、ちょうどグルッサ殿のように、被ってきたように血で濡れて……」
 自分とて戦闘のあとには身奇麗なわけではないし、それが当然だけれど、とラエリウスは頬の新しい薄い傷に触れる。
「父はそれよりも、マシニッサ王がなんだか、どうだと言わんばかりの顔をしていたのが印象的だったと言うんです。もちろんそんなつもりはないのでしょうが、褒めてみろという顔を。グルッサ殿もそういう顔をしていた」
「褒めて差し上げたらどうです、素直な御仁だ、喜ぶでしょう」
「それは……スキピオに任せたいところですが」
 果たしてスキピオが王を褒めたのか否かは彼らの知るところではなかったが、いずれにせよグルッサは誠実な働きを見せ続けた。彼と同じく王位を継いだ兄弟ふたりが積極的な助力を示さないのを補おうというのではないだろうが、それに値するだけのものだった。
 攻囲の開始から三週間ほどが経過したころネフェリスの町が陥落し、グルッサがカルタゴ軍司令官に呼び出されたのはそれから少ししたときだった。会談から戻ってきた彼はスキピオや将校たちに迎えられて、どことなしに釈然としない顔つきを見せた。
「講和を望んでいます。あの男はネフェリスのことを知らないのかもしれない、城市を見逃して欲しいと」
「いまさら……?」
 誰がそう呟いたのか、みなはっきりとは分からなかった。誰しも同時に、同じことを思ったのだ。同席する全員が将軍に目を向けたとき、大机を囲むもののなかでひとり座したスキピオは灼けるような冷たさでいずこかを見ていた。それが軽蔑へと色合いを変えるのと彼が笑みを浮かべたのとは同時で、ポリュビオスはこの場にありもしない筆を執ろうとしていた。
「ーーおまえは私の兵を辱めておきながら、神々に望みをかけようと言うのか」
 火に油か、もっと悪い。彼に近しい者はみな確信めいてそう考えた。スキピオの返答を携えてもう一度会談を行う約束になっているグルッサだけが気まずい顔もしないで一歩前に出る。
「しかし、スキピオ。じきに選挙が始まってしまうのではないか、戦争を早くに終わらせるに越したことはないのでは」
「そんなことは私には関係がない」
 グルッサは目を丸くしたが訝しむのはほんの短い間だけだった。ではどう返答するのかと促されて、スキピオは相手の邪念のない目をまじまじと見つめ、思案を巡らせる。彼はカルタゴとの戦争を自らの戦争と疑いなく考えていたが、グルッサの言葉には何か気の引かれるところがあるようだった。
「ハスドゥルバルと妻子、それに友人十名、その助命を約束すると」
「……受けないでしょう」
「それでいいんですよ、グルッサ。彼はこのような申し出は受け入れない、そうでなくては困る」
「あなたは、なんというか……」
 揶揄する色のある笑みに、スキピオはただ微笑んだだけだった。飲み込まれた言葉を彼は聞き慣れていて、それをどうと思うことももはやないのだ。そのように伝えようとグルッサはいやに流麗な礼を取って、顔を上げた彼の目はまるで血に濡れた日と同じものを映している。
 ネフェリスを掌中に収め、春を待つばかりとなった将軍と王とは同じことを思っていたに違いない。あの都市に手が届くのだーー指先ばかり引っ掛けて、縄をかけることで満足せねばならなかったあの都市に!
 軍議は夜が更けかける時間まで続き、終わる頃には同じ思いを持たぬものはいなかった。各々が自らの天幕に戻るなか、グルッサがその場を動かないのを目にとめて、ポリュビオスも立ち止まる。彼はまたありもしない筆を手にしかけ、思い直した。けれども半ばそのつもりであったポリュビオスはいるもいないも同じ、あるもなきも同じ目であって、スキピオもグルッサも彼を振り返らないのだ。
 スキピオは椅子に腰掛けたままで、グルッサがいるのは分かっているのに長いこと顔を上げなかった。広い机には地図や図面、多くの報告書、諸々が広げられており、そのすべてを頭に入れてしまっているスキピオがなおも食い入るようにそれらを睨みつけているのだった。
「あなたは」とグルッサが言っても、もしかすると、先ほどの言葉を思い返した彼自身の空耳かと思ったのかもしれない。「あなたは、はじめの印象とあまり変わらぬ人だな」
 一瞬だけ眉を寄せかけたスキピオはグルッサに直ぐそばの椅子を勧めた。椅子が足りないから将校の誰も立ったままであったのでグルッサもそれに倣っていたが、本来ならスキピオが王や、彼の師を、立たせたままにするのを好むはずはなかった。
「ローマで初めてお目にかかったとき?」
「ローマでも、ヌミディアでも、どの時点でも同じです。気になりますか」
「そうでなくては座っていただかない」
 頬杖をついてやっと、スキピオは気安そうな顔をした。生真面目な彼が仕事にかかるときには見せることのない顔だったから、グルッサにはむしろ見慣れないものだっただろう。グルッサはと言えば軍議の最中と寸分変わらぬやり方で笑い、声ばかりが柔らかくやや低くなっていた。
「相応しいと、そう思った」
「世辞ですか」
「あなたは下手な世辞を罵倒より嫌うのに? 世辞ではない、言葉が足りないのは確かです、わたしは兄弟ほど学がないものだから。スキピオ、わたしの息子の名はマッシワというのです」
 思いがけない言葉に、意味を取り損ねてスキピオは数秒の間を空けた。グルッサはその数秒にじっと聞き入り、スキピオが合点がいって口元を綻ばせるのに満足気に頷く。
「我が子があなたの捕虜となることはまさかあるまいが、助けを求めることがあれば手を差し伸べてやっていただきたい」
「ええ、喜んで……。あなたもまさか、そういったつもりで名付けられたわけではないでしょうけれど」
 ひとしきり潜めた笑いを洩らして、彼らはまた息を合わせるように沈黙を数えた。
 グルッサはゆったりと椅子に身を預けたまま、威容を持つとは言えぬ相手をそれでも深い尊敬の籠められた目で見据えている。その敬意の源をスキピオが察しないわけはなかった。彼らはときに自らで結んだのではない縁のなかでそうして演じているのだ。ポリュビオスは彼らに背を向け天幕を出たが、彼の耳にぽつりと、取り零された言葉が届いた。
「僕はこの上もなく美しい獅子を磔にしようとしている……」
 あの獅子をポリュビオスはスキピオとともに見たのだと思い出した、しかし彼はグルッサの言葉を知らぬのだ。その後のやりとりはその場を離れたポリュビオスには聞こえなかったが、知るべきことでさえなかろう。彼が記すものの裏側、あるいは記述の頭上で、彼らは言葉を交わしている。
 同じ夢を見てきた者たちの上に、夜は冷え切らない風に吹かれていた。

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