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影なき指先

 閉じきった覚えのない目を開く。腕を撫でたさらりとした風の感触に起こされたらしい。身を起こさないまま追った風の行く手に見知らぬ絵があった。風が姿を消すにじゅうぶんな時間をたっぷり使って、ティベリウスはそこが自分の家でないのを思い出した。
 母が床を離れることができなくなったのは、ティベリウスがななつになった頃のことだった。生まれたはずの弟の姿を見ないままティベリウスは自分がまた、兄になりそこねたのを知った。
 そのことは自分には記憶にない、あるいは顔を合わせたことのない兄姉がいるのを知らされたときに似た気持ちを運んでくる。浮かぶのは二年近くを生きたのに去ってしまった妹の手の小ささばかり。
 ティベリウスには姉がひとりいる。彼の他に運命に攫われることなく父母に残されたもうひとりの子供である。既に生家を出てひとの妻になっている姉が、ただの自分の姉でただの父母の娘であった頃のこと、ティベリウスはよく覚えている。センプロニアは口数の少ないひとで、それはいつまでも変わらなかった。
 ほんの短い間、母が耐え難く重なり続けた悲哀の冷たい手から逃れるまでの間だけ、ティベリウスは彼女のもとで過ごした。ひと月にもならぬ、たった十数日のことだ。
 彼は姉のところにいるという気持ちだったが、父母が息子を預けたのはスキピオ家に、であった。センプロニアの嫁した家はティベリウス自身からして縁浅からぬ存在であり、そのせいだろう。彼がこの馴染みのない寝室に不思議な気持ちになりこそすれ、恐ろしさを抱かなかったのは。
 ティベリウスについてきている乳母が子供の目を覚ましたのに気がついて近寄ってくる。すぐに身を起こして、おはよう、とティベリウスが声をかけると、彼女は空気のかすれるような笑い声をたてた。
「おはよう、はもう済ませてございますよ、坊ちゃま」
 まだ冴えきらないティベリウスの目元を指の腹で優しくなぞった手に促され、寝台を下りる。自分の部屋で使っているものよりも少し高さがあって、寝ぼけたままで下りて転んだことがあった。
 肌を焦がすような陽射しは鋭い傾きで降り注いでいた。昼寝は毎日のきまりごとなのだけれど、とティベリウスは乳母に手を引かれるまま歩きながら首を傾げる。家が違うと眠りも違うのかしら。
 食堂で渡された冷たい飲み物を少しずつ飲んでいるティベリウスの様子を、スキピオ家の女中たちは時折互いに目配せし、こぼれる笑みを隠さないまま見守っていた。子供はそれを知らんぷりできなかったけれども、彼女らは優しく、目が合えば笑みを深めてくれたので、嫌とも思わなかった。預けられた最初の日にどうして頬を赤くしているのと女中のひとりに尋ねたティベリウスは割合にはっきりとした答えを貰っている。
 姉に子供ができたら、もしかするとティベリウスによく似た男の子かもしれない。それを想像するのが楽しく、それに、ただ単に年頃に似つかわしくない行儀の良さできちんと居住まいを正している彼の姿が微笑ましかったのだと。そう言われても、行儀を悪くしてみせるなんてできない子供だった。
 彼につけられたばかりの家庭教師はこの家についてきていなくて、ティベリウスには仕事がない。お勉強はお休みしてもいいと父が言ってくれたのを嬉しいと思ったのはその時だけのことで、すぐに、あんまりにも退屈だとティベリウスでさえ感じるようになった。友達がいるでもなく、しなくてはいけないこともなくて、手に馴染んだ玩具は置いてきてしまったのだ。
「あの……」
 廊下をすれ違って声をかけた少年は裸足だった。ティベリウスよりは年長だけれど、子供と言うべき齢に見える。腕に枕をいくつも抱えていた少年は何も言わないでティベリウスを見下ろし、顎をしゃくるみたいにした。
「スキピオさまはどこ?」
「…………」
 枕に埋もれた手が姿を覗かせて、ティベリウスの頭を通り越した先を指差す。伸びた浅黒い指の長さにだか頑なな無言にだか面食らったティベリウスが頷くのに、彼は会釈のようなものを寄越して枕を抱え直しどこかに運んでいった。
 指差されたのはきっと書斎だろうとあたりをつける。この暑い真昼間、目当ての人だって昼寝をしていてもおかしくはない、しかしティベリウスは昨日の昼もそこでその人と顔を合わせたのだ。
 書斎はよく風が通る向きに窓が開かれていて、半ば開いたままの扉の前に立つと、つい先程腕を撫でたのと同じような触りの風が蟀谷あたりの髪を揺らした。そろりと覗き見た部屋には、目当ての人の他には誰もいないらしい。秘書や奴隷がいて難しい用向きの話なんてしていると、ティベリウスはようよう声もかけられないのだ。
「スキピオさま」
 入ってもいいですか、とティベリウスは扉を押しもしないままだった。答えはなく、風は流れを変えない。もしかしてと思って忍び足で踏み入ると紙やインクの匂いがする。
 執務机と一揃えの椅子に腰掛けて、机に向かわないで座っている人の横顔、それを確かめて、ティベリウスは珍しいものを見たという気になる。スキピオは頬杖をついて眠っていた。この人がセンプロニアの夫だった。ティベリウスは人間らしくさえなかった赤子のときから、彼の眼差しをも受けて育っている。
 スキピオは預かることになった子供を邪険には扱わない。彼は礼儀正しく、律儀なやり方で子供にも接し、それはまるきり彼の妻への態度と似通っていた。姉と並んで彼と話すとティベリウスは、昔にいるようだと思う。まるで、彼は目の前の姉弟とただ話しているだけ、というような、それはティベリウスにとってすれば悪い心地ではなかった。
 机の上には文鎮の乗せられた紙の束があった。転がされているペンは乾いてしまっているに違いなかった。
「義兄上」
 呼んでしまうと容易い響き、それが背を押したのか、ティベリウスは臆するでもなしにスキピオの膝元に寄った。彼はトガを着たままだった、きっと午前の間に用事を済ませて、早く切り上げて帰って来たのだ。
 膝を二度だけ軽く叩いた手に、心なしか顰められていた眉が開く。ティベリウスが身を乗り出して覗き込んだ目は薄く姿を見せていたが、瞼はどうにも重たそうだった。
「義兄上、あの」
「……ルキウス?」
 きゅっと口を噤んだのはティベリウスが察しのいい子供だったからだ。スキピオはその呟きが自分のものと気がつくとはっきりと目を開いた。ああ、と軽く上げられた声は近寄ってくる子供に気がついたとき彼がいつもするのと同じように響いた。ティベリウス。彼は些かゆっくりと言い直した。
「ごめん、寝ぼけていたみたいだ」
 ティベリウスの左手をしっかりと捉えていた力が緩まって、離れていく。父母ならばその手で頭など撫でてくれるけれどこの人はそうじゃないのだと思い出した。彼の膝に乗せたままの手は追い払われず、しかし、そのすぐそばに落ちたスキピオの手に寄り添うこともできなかった。スキピオは卓上の紙面をいくらか確認して、それらを文箱に仕舞うと、動かない子供に向き直る。穏やかな風貌のどこを見ればいいのだか分からなくなってしまったティベリウスの哀れっぽい困り顔は彼には珍しいものではないのだった。
「退屈?」
 その問いがますますティベリウスを困らせる。頷くのは悪い気がして、かといって首を横に振ると嘘つきだった。ごめんなさいと何を謝るのだか分からないのに言って、手を引っ込める。
 ティベリウスは人見知りだったわけではない。知らない人間には慣れていて、どのように振る舞えばいいのか知っていた。けれどだめだ、と思われてならなかった。スキピオに対してである。
 母の聡明さと父の賢明さを受け継いだ少年だと彼を褒めそやしたがっている大人たちには、期待に応えようとするだけでよい。けれどスキピオはティベリウスのことを殊更に褒めようとか、喜ばせようとか、そんな気はひとつもないのだ。彼はティベリウスの態度を問いへの肯定と受けとって、けれど不愉快そうにはしなかった。
「明日はファビウスやトゥベロのところの子供たちが遊びに来るよ」
「はい……」
「カトーのところの兄弟も来るんじゃないかな。ガイウスとは仲が良かったでしょう」
 要するに母方の血筋の親戚たちが集まるということらしい。スキピオは子供のつむじをじっと見ている。彼は、きっと、ティベリウスが何か用事があってこの部屋に入ったと思っているのだ。彼は生真面目で、ティベリウスも生真面目だった。だからそう思われるのは当然だった。当然の想定が当然のように破られることはままあるのだけれど。
 子供たちがたくさん来たら、スキピオがこんな風にティベリウスを待つことはないのだろうと思う。ティベリウスはそれこそ生まれた時からこの人を知っていて、父母や姉や、家人たち、そういった彼にとって最初からいて常に居続けるはずの人々、その範疇に彼はいる。
 はじめて彼と二人きりで長いこと話せたのはほんの数日前のことだった。この家に預けられた日にスキピオは義弟のために時間を作ってくれたのだ。少しでもいいから話したかっただけなんて、どうしてこの人に言えるだろう。
「お母様のことが心配なんだね」
 とつぜんそう言われて、ティベリウスが思いがけず脳裏に描いたのは、目元に隈を作ってそれでも自分に笑いかけた母の顔だった。
 こういうとき胸のあたりにこぶしを押し付けるのはティベリウスの癖だ。ぎゅうと抱いた手はここを出て行きたがっていた。姉のところに行ったほうがよかったんじゃないかと、あけすけに申し立てている。
「今朝、グラックス様に会ったよ。コルネリア様が君に会いたがっているのだって。そう長いことかからない、すぐにまた、同じようにおふたりと一緒にいられる」
 握りしめられた手を取り開かせたスキピオが、そこにティベリウスのブッラを乗せた。金のメダルを指で撫でるようにしてから彼は子供を膝に上げる。ぎょっとしてされるがままのティベリウスには、それが父の膝とは違う場所だということばかりはっきりしていた。
「さっき、兄と呼んでくれたんだろう」
「姉さまが……」
「センプロニアが?」
「僕にはお兄さまがいないから、スキピオさまを本当のお兄さまみたいにすればいいんだって、それで」
「あの子がそんなことを言うんだね」
 あの子、って。
 センプロニアが弟にそう語ったのはほんとうのことだ。ティベリウスには嘘がつけない。隠し事をやっと覚えた頃だった。たったひとりの姉の夫ならば、義理だろうとなんだろうと、兄には違いないのだ。
「嫌だった……?」
「そんなことないよ。嬉しい。……僕にも弟はきみだけなんだもの」
 甥はたくさんいるけれど、とスキピオが少し笑う。彼自身にはまだ子供がなかった。結婚が昨年のことで、センプロニアはまだ少女に過ぎないのだから、誰も焦ったりはしていなかった。
 ブッラを握る手が暖かくなる。ティベリウスは身が軽くなったように感じて、義兄を振り仰いだ。彼はティベリウスの兄なのだ。色々な人が話の種にして、色々な人が視線を貼り付けている、ティベリウスにとっての世界のなかで、他の人々とは異なった色彩を持つこの人が!
 その色彩は少し母に似ているかもしれなかった。そういう話を、ティベリウスは誰にもしていない。胸に秘めてしまうと大切な物語のように楽しくなる。スキピオは彼の師が扉を叩くまでティベリウスを膝に乗せていた。彼は言葉少なだったけれど、その静けさは重たい石を包んではいなかった。


 木登りをしていた子供たちが揃って木から落ちたというので、大人たちがみんな庭に出て来ていた。落ちたのはトゥベロと、彼の腕を掴んで重さに引きずられたマクシムスだった。血相を変えた母親に怪我はないか、どこか痛むかと矢継ぎ早に問いかけられたふたりは大丈夫だと問いの倍くらい答えていた。
 ティベリウスは木に登っていなかった。彼は、幼いとはいえ少年ふたりを支えるには細すぎたのだろう枝を見上げる。半ばほど折れているけれど、千切れてはいなくて、枝の表面を包む濃い色とは違った明るい色が晒されている。
 この屋敷にやってきてからずっとティベリウスのそばを離れないガイウス・カトーが真似をして枝を見上げて、痛そうだと呟いた。優しい感想だ。自分よりもみっつ年下のガイウスの手は小さい。落ちたのが彼でなくてよかった、と思う。
「枝は選んで登らないとね」
 奴隷の運んできた水差しで擦り傷を流していたトゥベロとマクシムスが、スキピオの言葉に顔を上げる。彼らはどうしてか顔を見合わせ、次に自分の父親の顔色を窺ってから、声を揃えてスキピオを呼んだ。
「叔父上、ごめんなさい。枝折っちゃった」
「ごめんなさい……」
 あっけらかんとしたマクシムスの声と、しおらしいトゥベロの声。スキピオは甥たちに構わないと言って笑った。アエミリア、彼の妹が話しかけるのに応える様子に怒っているふうに見えるものは何もない。
 母親たちが駆け寄ってきたのと違って、父親たちは庭先には出て来たけれどおかしそうに笑うばかりだった。いかにもおおらかなトゥベロの父がこんなのは子供にはありがちだからと言えば、ファビウスは困り顔ではあったが頷く。そんなものらしい。らしい、でしかない。人々の様子を眺めるティベリウスは、木に登らなかった。危ないと思ったからだった。
「うちのはティベリウスくらい思慮深くなるべきなんです」
 ファビウスがそう言うのに、ティベリウスは反射的に顔を向ける。彼の息子とティベリウスとは同い年だった。気性はまるで違っていて、ほんとうのところ、仲良く遊ぶ間柄でもない。
「ティベリウスはよく本を読むそうだね」
「あの……好きだから」
「ああ、それが一番いいんだよね。子供なんて好きじゃないと何にも読まない」
「それだって才能のうちですよ。カトー殿はお父上が書いてくださった本を読んでいたんでしょう?」
 自分の父親の名前が呼ばれると、ガイウスはそちらに行きたがった。手を離さないままだったので、ティベリウスもついていく。カトーは屋根のあるところで長男のマルクスと気ままにおはじき遊びをしていて、きょとりとした顔をファビウスに向けた。
「本の話。ほら、あなたのお父上が書いてくださった歴史書」
「ああ、あれは……色々な拘りの強い方なので、結局自分で書くのがけちをつけずに済んだんだろうと思います。最近マルクスも読んでるんだよな?」
「字が大きいの」
 だから読みやすくて、それに面白いとマルクスがはにかむ。ぼくはまだ読んでいないのにとガイウスが小さな声で言うのでティベリウスはそちらに頷いた。ガイウスが小さなおはじきを拾って、ティベリウスに手渡す。古いものなのか凸凹があって、けれど傷はみんな丸く削られていた。
 カトーの子供たちは、祖父よりも父のほうによく似ているように見えた。強烈な性格や言葉の痛烈さで知られる彼らの祖父を、ティベリウスは遠目に見たことがある。その兄弟に混じって自分のそばに座ったティベリウスに、カトーは柔和な笑みを向けた。
「ティベリウス、君も怪我はないんだね」
「僕? ありません、のぼってなかったから」
「あのふたりが落ちてきたのにぶつかったりしてない?」
「うん……」
「よかった。すまないね、いつもガイウスの相手をしてくれて」
 不満気に唸るガイウスはティベリウスの手を離さないままだ。この子と初めて会ったのがいつのことだか、ティベリウスにもはっきりと思い出せないけれど、顔を合わせればずっと一緒にいたいと言ってくれるので世話するのも嫌でなかった。「ガイウスは賢いから」と、ティベリウスは本心と、親は子をそう言われるのを喜ぶらしいという憶測とで言った。
 無鉄砲というか、元気を有り余らせているマクシムスや、そのマクシムスと気の合うらしいトゥベロよりも、ティベリウスはカトー家の子供たちといるほうが気安い。遊び方についていけないとか、どうすればいいのか分からなくて足並みを乱すとか、要するに迷惑をかけている気がして楽しめないということがなくて楽なのだ。他の誰かに聞かれやしないかと思いながらもティベリウスはそういうことを語った。カトーはいちいち相槌を打って、そうだろうね、と答えた。
「友達選びなんてそんなものだよ」
「選ぶんですか」
「君たちは親戚だから選ぶ選ばないじゃなくこうやって引き合わされるけれどね。友達になるかどうかは君の好きにすればいい。大きくなったらまた変わるよ。いまは遊ぶのが本分だから」
「勉強がいちばん大切なのではないの?」
「大切だよ。それで友達ができることもある」
 いつの間にか兄とおはじき遊びに興じ始めていたガイウスに、ついさっき貰ったおはじきを渡す。ぱちぱちと硬く、軽い音が響いていた。
 高いところから落ちて痛いと叫んだはずの子供がもう元気になっているのを、背中で聞いている。ガイウス・カトーがティベリウスに懐くように、マクシムスはスキピオに懐いていた。叔父上、とよく通る声で呼びかけては、ときに遠慮のない勢いでしがみついている。
 叱られるのを恐れないで投げられる子供らしい言葉たちに、スキピオがおかしげに応酬していた。いつもそんなふうだった。
「カトーさま、お聞きしたいことがあるんです」
「なんだい」
「ルキウスって、誰のことでしょう」
 首を傾げたカトーに、それだけじゃ分かるはずないのは当たり前なのに、ティベリウスは気後れを感じる。
「スキピオさま……義兄上が、僕を間違えてそう呼んだんです、誰かと間違えたんだと思うんです。あの、義兄上は転寝をしていて、それでだと思うんですけど、僕、誰に間違えられたのかしらって」
「ルキウスって言ったんだね」
 カトーの視線が、ちらとティベリウスを通り越した。ティベリウスが誰かに聞かれると困ると思ったみたいに、彼もそれを確かめたのかもしれなかった。
 知らないのか。そう呟く。少し黒目がちでただただ優しげな目元に過ぎ去ったのは、きっとティベリウスの知らない頃の出来事だ。ティベリウスは知らずブッラを握りしめた。金のメダル、それをなぞった指先。
「スキピオとファビウスには弟がいた」
 メダルはとても硬くて、握り締めると指が痛んだ。カトーは自分の息子たちの健やかな手先がおはじきに触れているのを、まるで得難いものにするみたいに、泣きそうなほど優しい顔で見下ろしていた。
「君が産まれるよりも前のことだ。彼らには弟がふたりいて、けれど亡くなった。その頃、流行病があって、まだ子供だったから持ち堪えられなかった」
「ふたりとも?」
「そう、ほとんど同時だった。パウルス・マケドニクスを憶えてはいないだろうね、あの方の凱旋式の前後に」
 母の叔父のことは、確かに憶えていない。ティベリウスが思い描けるのは服装も言葉も違う人々が挙って参加したその葬儀だけで、その名前は自分の祖父、アフリカヌスと同じに遠かった。
 弟がふたり。それは思い描こうにも影さえ掴めない、言葉だ。母の手から失われた赤子のようにティベリウスには実在さえ確信を持てない、けれどティベリウス以外の者たちにとっては生きて手元にあった誰か。
「彼を兄と呼んであげるといい。いま、彼をそう呼べるのは君だけだ」
 答えないまま唇を噛んだのは、それが震えそうだったからだった。
 思い出されたのは母の目元の隈、いつも朗らかに笑い、歌うような美しい声で話す彼女の引き裂かれた悲鳴なのだ。ティベリウスは、眠っている間に、あるいは気を逸らされている間に、もはや何もかもが頭上を過ぎ去ってくれはしないと知らなくてはいけなかった。
 夜中、家の中が騒がしくなって、乳母が眠るふりをしているティベリウスの様子を何度も見に来た。何かを打ち据えるような音、箒を掃く音、女中が忙しく行き交う、話し声、大きな声で誰かが呼ぶ、何を呼んでいるのだろうとは思わなかった。悲鳴が上がる。赤子は泣かなかった。
「どうしたの?」
 気遣わしげなガイウスの眼差しがティベリウスを見上げている。マルクスが見上げた父は眉を下げていたけれど、困り切ったような顔はしていない。
 何かを言いつけられたマルクスが建物の中に駆け込んでいった。目頭がつんとなって、抱えた膝に額をつける。腿に落ちた水は冷たくも熱くもなくて、頬は火照ったように熱いのにおかしいじゃないかと誤魔化すように考えた。
「ーーティベリウス」
 竦んだ肩に触れた手を間違いようがなかった。華奢でか弱い指先の感触にティベリウスは顔を上げ、自分を覗き込む姉の瞳を見つける。
 センプロニアはカトーからいきさつを聞いて頷き、かすかに微笑んで礼を言った。マルクスが弟の手を引いて自分のそばに寄せる。姉の小さな手のひらがティベリウスの濡れた頬を拭って、耳元を撫でた。
「いい子ね、ティベリウス」
 泣き止みなさいと彼女は言わない。華やかすぎないけれど端然と結われた髪に赤い石の飾りがあって、彼女の指には指輪が嵌っている。
 彼女は涙を拭い続けた。ティベリウスが自分のもとに預けられてから、常通りの態度、昔と同じ静けさで接してくれていた姉である。しゃくりあげるばかりで声を上げない泣き方は、ティベリウスだけがするものではなかった。私が一緒にいるわ、そう彼女が言ったのだ。センプロニアは父母が最初に得た娘、多くの弟たちと妹たちの姉だった。


 身を乗り出して指先を浸した湖は冷たかった。燦々と注ぐ、うるさいほどの太陽を弾いて、銀のように光っている。指の近くを何か泳いだのに気を取られてティベリウスが頭を近づけようとすると、腰帯を引く手があった。振り返るとスキピオが片眉を上げて笑ってみせる。
 手を離された櫂がゆらゆらと頼りなく揺れる。義兄はティベリウスが顔を少し出して覗くよう改めるとまた櫂を取った。湖はさほど大きなものではなくて、彼らの乗った小舟のほかには何も浮かんでいない。舟が離れた水辺に従者たちがいるのが見えた。気まぐれに子供が手を振ると、彼らもまた気まぐれに振り返す。
 ちょうど真ん中あたりまできて、スキピオは櫂を漕ぐ手を止めた。風のない昼間、舟は同じリズムで左右交互に傾くばかりである。湖を囲む林で囀る鳥は姿が見えない、澄んだ水の浅いところに、魚は音もなく影を覗かせている。
 差し出された釣り竿をティベリウスは慣れた手で受け取った。新しく作られたものらしく、持ち手がつるりとしている。
「グラックス様は釣りはお上手かな」
「いいえ、あんまり……」
「ならよかった。僕も友人たちほどたくさん釣れないんだ」
 櫂を操るのも、釣りの用意をするのも、スキピオは自分でみんなできてしまう。本当のところ、ティベリウスは彼にはそういう作業は縁がないような気がしていて、釣り針に餌をつける指先だけが別人とまで思えた。
 スキピオ邸に親類の子供らが集まった翌々日、義兄は妻とティベリウスとを連れて別荘に来ていた。ティベリウスを預かることになったときに決めた予定だったそうだが、ティベリウスは出発の朝になっていつもよりも早い時間に起こされ、訳もわからず馬車に乗せられたのだった。
「ポリュビオスが狩りが好きでね。僕も好きなものだから、たいてい釣りでなくて狩りに出るのだけれど。君はまだ弓矢には早いし、教える仕事をお父上から奪ってはいけないと思って」
 ティベリウスが餌のつけられた釣り糸を水面に沈めるのを眺める彼の手には何も握られていない。膝に頬杖をついて、なんだか眠たげな、穏やかな顔をしていた。これまでの数日の間でいちばん口数の多いスキピオに遭遇してティベリウスのほうが無口になっている。
「ここにも、ポリュビオスといっしょに来るんですか」
「来るよ。ラエリウスとも来るし……あの別荘は僕がスキピオ家の父から継いだものだから、小さい頃にはあそこでコルネリア様とお会いしたこともある」
「あのう」
 ちらりと遣った視線が案外しっかりと捕まって、ティベリウスは少し深く座り直した。きいと板が小さく鳴る音。
「義兄上って、お母さまと仲良しでいらっしゃるんですよね」
「さあ……」
 曖昧に笑う。それを見ても、ティベリウスは自分が勘違いをした気はしないのだ。義兄と母とはもともと従姉弟同士なのだと教わっていたし、いまは義理の親子であるし、彼らの会話は穏やかなものだった。
「コルネリア様は末っ子だからね、自分より小さいのがいると楽しかったんだろう」
「きょうだいみたいだった?」
「どうかなあ。おままごとはしたよ」
「おままごと……」
「センプロニアが君より小さい頃にもした」
 それは自分が産まれるより前ということだろうか。想像が難しくて、ティベリウスは小さく頷くだけだった。
 いま、彼がティベリウスにしているみたいに、姉を構ってやっていた日があるらしい。別荘に着くなり夕飯の調達も兼ねて釣りをしようとスキピオに手を引かれて、ティベリウスは目を白黒させっぱなしだった。マクシムスがトゥベロの手を掴んであっちへ行こうこっちへ行こう、やっぱりそっちにしよう、と言い立てている、あの光景を自分たちがしているような錯覚。
 義兄が語る幼い母は淑やかとは程遠くてすこし我儘で、父はそんな母を知っているのだろうかと思う。母はほんの幼い頃に父と結婚することを決められたそうだから、どちらでも不思議はない。
「グラックス様がね」
「はい」
「十三、四のコルネリア様に首飾りを贈ったんだ。自慢されたからよく憶えてる。それを着けると途端におとなしくなって、まるで何歳も一気に年をとったみたいだったな」
「お母さまはあんまり、宝石なんかつけてないです」
「よく見てると分かるよ。着ける日があるから」
 スキピオがティベリウスの手に手を添えて、くんと糸を張る力に子供の手が負けないようにした。自分でできる? 小さな声で尋ねられてティベリウスはいささか大きくできると答える。
 ティベリウスは立ち上がって、釣り竿を両手でしっかりと握り直した。重たくなった竿を持ち上げようとするのだけれど魚が暴れているのか、あっちへこっちへ連れて行かれそうになる。また腰帯を後ろから掴む手が、舟を揺らしているのか揺れる舟にふらついているのか分からない身体を支えた。
 わあ、とたぶんどちらもが声を上げた。魚が水面を抜けた途端力がかからなくなって背中から義兄の腕に転がり込む。それに一拍遅れて、足元に魚が落ちた。
「大丈夫?」
「ご、ごめんなさい」
「いいよ」
 何という名前の魚だろう、濃い灰色の鱗がてかてか光って、あんまり暴れるから舟板にぶつかって傷が付きそうだった。針を取ってやらないと可哀想だ、そう思って四苦八苦しながら口から針を外してやった魚を籠に入れる。ティベリウスの両手に余ったそれだけれど、水の入った籠のなかをくるりと泳いでいた。
 スキピオはそれらの作業を手も口も出さないで眺めてから、君の夕飯ができたと言った。
「義兄上と、姉さまの晩ごはんは?」
「君がこれから釣ってくれるんじゃないか」
「そうなの……」
 たった二匹されど二匹、どうしようかしらと思ってしまう。
 また餌の付いた針が水面に放られる。スキピオが使うための釣り竿があるのに、それは彼の傍らで寝かされていた。
「義兄上」
 長閑な声音の返事。水面よりもずっと先を見ているような瞳がティベリウスに向く。彼は気がついたように笑みを浮かべ、先を促すために無言だった。
 彼はティベリウスが兄と呼ぶと振り返ってくれる。誰かと迷うこともなくティベリウスの方を見る。ふたりきりだから? 小さな子供の声をちゃんと聞き分けているから? 似ていないから?
 沈黙した釣り糸、軽いままの釣り竿、力を抜け切ることはできない手。ティベリウスが順繰りに見つめ、また自分の方を見るのを、スキピオはずっと同じ顔をして待っていた。
「楽しいです」
「そう」
「あなたは?」
「楽しいよ。君はいい子で、なんだか懐かしい気がする」
 懐かしんでいると言うのに、彼はちゃんとティベリウスを見ていた。名も知らぬ風を追うでもなく、埃の積もった面影を払うでもない。ティベリウスはそっとブッラに触れ、魔除けがそこにあるのを確かめた。
「ティベリウスは優しいね。思慮深いのも、慎重なのもあるのだろうけど……」
「お母さまは、僕が優しいのが好きって」
「うん」
「いつもよく分からないときに言われるから、僕、意味があんまり分からないんです」
「そうだね……」
 籠のなかで魚が跳ねる。これから先、何も釣れなかったらこれを姉にやろうとティベリウスは決めている。頬を預けた手のひらで隠れた口元でスキピオは笑みを浮かべたまま、角度を変えた陽射しに眩しそうに目を細めていた。
 この人とふたりきりでこんなふうに過ごすのは、いつが最後だろう。初めてはついこの間、それから何度も当たり前のように彼らは兄弟みたいな時間の過ごし方をした。兄弟みたいなんて、ティベリウスがちゃんと知るはずもないのだけれど。
 スキピオは、知らないだろう。彼が父に用事があったり招かれたりして屋敷にやって来るとき、いつもティベリウスは自分には手に余るような本を抱えていたことを。
「僕はね、ティベリウス。僕も……それだから君を好きだよ」
 彼は優しさの姿を解き明かしてくれないままだった。いつも数秒留まっては過ぎ去る眼差しがティベリウスにじっと注がれ続けていた。彼の藍色の瞳には釈然としない顔の子供がいる。ティベリウスのオリーブ色の瞳には、泣きそうなほど優しい顔をしたひとはいないのに。
 それから小さな魚ばかりを釣り上げたティベリウスのために、義兄は自分の釣り竿で一人分の腹を満たせる大きさのものを釣り上げた。重たくなった籠の魚をみんなティベリウスが釣ったのだと言って別荘で待っていた姉に渡し、彼がその晩に食べたのはどちらの釣った魚だったか。スキピオは考えもしなかったかもしれないけれど、ティベリウスはずっとそれを忘れられないでいる。

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