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岸を離れる日

 ラエリウスの屋敷に子供がいる、という話が、なぜだか市中を漂っていた。
 子供がいておかしなことは何もない。彼にはふたりの娘がおり、奴隷に子が産まれることとてあるだろう。クリエンスの子が行儀見習に屋敷に住み込んでいることも、あるいはラエリウスに懐いて屋敷への出入りを許されているということも、ありえるのだ。しかしその噂はぐるぐるぐるぐる市中を巡り、元老院に集まった議員たちまでも、執政官格議員の席から離れた場所で、それを取り沙汰している始末であった。
 奴隷の子ではない、というのが目撃者の意見である。面白半分にラエリウスの屋敷を訪ねた者がいるというのだから市民の品位も危ぶまれるというものだが。
 その子供は首にブッラを下げていて、いや、それだけならばローマ市民の子供みなそうなのだが、それは黄金のメダルであったし、着ているものからして、令嬢たちと同じ扱いであると明白であったと。貴族の子弟としか見えなかった。しかしそれも、ラエリウスと親しい誰ぞの息子ではないかと、反論のしようがある。
 スキピオ・ナシカ・セラピオは、こそこそと聞こえてくる話し声に、この分では避けているつもりらしいラエリウスの耳にもばっちり入っているぞと、大声を出してやりたくなった。今年度の執政官である彼はこの日の議会の主宰者でもある。シキリアでの奴隷反乱とそれに付随して起こっている食糧不安が議題であった。
 まだ議員たちはまばらにしか出揃っていないのだから好き好きにご歓談は結構だ。しかしいくら噂話に花を咲かせるのが先だっての監査で元老院に迎え入れられた若者だとしても、その内容がセラピオには気に食わなかった。
 スキピオに似ている! それが噂が広がっている理由だった。スキピオと言えばセラピオもスキピオではあるが、ただスキピオと言って指されるのは彼ではない。ナシカが家名のようになって三代目であるし、スキピオといえばアフリカヌスの家門である。スキピオ・アフリカヌスによく似た子供がーー噂の盛り上がりようからして男の子だろうーーラエリウスの屋敷にいる。
 低俗な噂である。なぜならスキピオには子がいないのだ。家門の存続のために養子としてスキピオ家に入ったくせに、おまえの代で家を取り潰しては意味がないじゃないかと揶揄したのは、セラピオ自身に子供が生まれた頃のことだった。まだ危機感は薄く、期待の持ちようがあった頃だ。もうだめだろうというのがスキピオ家の暗黙の了解である。もう生まれない。男どころか女もだめだ。スキピオにはセンプロニアを離縁するつもりがさらさらないので、誰もコルネリアの娘に荷物をまとめて出て行けと命じることはできなかった。
「ラエリウス」
 セラピオの声は大きく通り、噂話をしていた者たちだけが、ぴたりと口を閉ざした。
 友人と何か話していたラエリウスは顔を上げ、首を傾げる。ああ品のいい男だなあと、彼の出自に高貴さは乏しいにもかかわらず誰しも思うだろう。セラピオは彼の前に歩いて行って、空いていた隣席を占めた。
「きみ、三人目のお子さんが生まれたという話は聞かないね」
「ええ、娘がふたり、それきりです」
「男の子がいないというのは残念なことだが」
「そう言うべきでしょうが不満はありません。良い婿を捕まえましたし」
 そう振り返った先で、名家の青年ふたりがこちらを見ていた。まだ高位官職につけない年齢であるので議員ではなく、議員の子弟とともに議会を見学している身分だ。しかしまあ俊英であるに間違いはない。
「スキピオはどうしてる」
 心配なのだという顔でセラピオは問うたが、その気持ちが皆無とは思われたくなかった。議場にスキピオの姿がない。それはこの数週間続いていることで、はじめは不例によるという報せがあった。珍しいことだ、と幼年から彼と関わるセラピオは思い、見舞いを差し向けもしたのだが。
「風邪のひとつもひいたことがない男だというのにひどく長引くじゃないか」
「心配ありません」
「会ったのかね」
「彼は私の家にいますよ」
「……初めて聞いたな」
 誰も気が付かなかったのか、部屋に篭っているのか。眉を寄せた相手にラエリウスは微笑みを見せ、彼に嘘らしいものは何もなかった。
「君のとこに少年がいて、それが彼の隠し子だとかどうとか聞くが、まさかそれがスキピオかい」
 嘘らしいものはなくとも、何だか高く分厚い壁を築かれている気分になった。だからそういう詮ないことを言ってセラピオは腕を組んだのだが、無言が続いたのに隣の男の顔を見る。きょとりとして目を見開いていた。投げかけられる冗談に対して鈍臭い反応をする男であるはずもなかった。無言は敗北に近いのだ、どうした、何か言ったらどうだ?
 ラエリウスは目を伏せて、睫で影を作ったので内心が隠れてしまった。組んだ指を見つめ、ささやかな喧騒に耳を澄ませる。
「あなたも父君と同じに明敏なお方だな……」
「何?」
「我が家にはいまスキピオがいますが、彼の子供なんていませんよ」
 会いに来てくださっても構わないとさらりと言って、また微笑みを浮かべた。いつの間にか議場は彼らのほか誰も喋っておらず、その声は小さなものだったのに、誰もの耳に届いただろう。


 年頃と言うにはまだ幼い娘たちの笑い声が玄関先にいても聞こえた。それに混じっていっそう幼く、ふわふわとして軽い声がしている。ラエリウスが家の奥へ進んでいくのでセラピオは大人しくそれについていった。結局、彼はあのあとすぐ、訪問の約束を取り付けて、論議が終わると早々にラエリウスとともに議場を出たのだ。
 この家のクリエンスなどと挨拶を交わしながら家中の者以外は入ることのできない場所にまで来ると、笑い声が三人分あることがはっきりする。位置からして子供部屋だろう、セラピオの立った場所からは中が見えなかったが、開かれたままの戸口のそばに顔馴染みのギリシア人の姿があった。
「パナイティオス、君もラエリウスの家にいたのか」
「センプロニア様が気詰まりに思われるでしょうから」
「うん……?」
 なんだか話に飛躍があった気がしたが、ラエリウスが部屋に入っていったので、気が逸れた。お父様、と跳ね上がった声が行儀よく挨拶を述べて、覗いてみれば妹娘のほうが早々と父親に抱きしめられている。
 仲睦まじいのは今に始まったことではないから驚かなかったし、セラピオに気が付いた令嬢たちもさほど動揺を見せなかった。スキピオほど親しいとは言わずとも交流のある家だ、にこりと笑ってみせれば警戒もない。
 そしてセラピオはついと、彼女らの足元を見た。ラエリウスのトガの裾にしがみついた小さな手と、他の誰よりもおっかなびっくりの様子でこちらをちらちら見ては顔を引っ込めている幼子がいる。金髪と言うには茶味の強い髪にしろ藍色の瞳にしろ、強烈に見覚えがあった。
「スキピオに物凄く似ている子供……じゃないんだな?」
 議場でのラエリウスの言葉を思い出し、セラピオは口を引き攣らせた。パナイティオスが近づくとそちらに飛びついてセラピオから姿を隠した子供を追いかけるとどうなるか、興味がないではなかった。
「スキピオ、と言ってもわからないので、プブリウスと。あなたもプブリウスですけれど」
「分からない? それじゃあ、これは何なんだ」
「スキピオですよ。話を聞いてみるとパピリア様が家を出られて間もない頃、私もまだ彼ときちんとは会っていない時分ですから、三歳」
「私が生まれていないぞ、それだと」
「そうなんです。怖がっているでしょう?」
 何をおかしそうに、嬉しそうに笑うのだ。パナイティオスが背後に隠れた子供……プブリウスを抱き上げて、セラピオのほうに近づける。哲学者の胸に額をすり寄せてなおも隠れようと背を丸めている様子は、引っ込み思案で人見知りの激しい、おとなしい幼児のそれだった。こんな頃があったのか? いくぶんか彼よりも年少のセラピオにとっては、人当たりのよいスキピオが彼への印象の基本を成している。
 無言のまま、パナイティオスが交代を促してくるので、セラピオは軽い身体を持ち上げようとした。ぐっと抵抗がかかる。
「プブリウス、この人は君の……」
「お前の父上の姉の上の娘の息子だぞ、プブリウス」
「遠いのか近いのか分かりませんね」
 いやいやをしてパナイティオスから離れようとしない子供のあがきは易易と無駄になった。腕のなかに収まりはしたが硬直しているプブリウスの顔を覗き込むと、ひくっと喉を震わせた。泣かれては始末に困るが、ラエリウスもパナイティオスも助け舟を出さないので、泣き叫ばないのだろうと思う。
 心配そうにプブリウスを見ていた妹の方のラエリアが人形を持って来て、プブリウスの手に握らせた。この家の人々とパナイティオスとはすでにこの子の信頼を得ていて、先ほどのように笑い声だって上げさせているらしい。
「不例だという報せがあったときからこうなのだね」
「ええ、センプロニア様が朝方目を覚ますとこの子しかいなかったということで……そのまま説明して回るわけにはいかないでしょう。あまり長く姿を見せないままでいると、影響もあるとは思うのですけれど」
「そうだな。スキピオがいたなら烈火の如く怒って差し止めるような法案が通ってしまうとか、ありえなくもない……」
 烈火の如く。言ってみてから、この幼子には似つかわしくない言葉だと感じた。人形を抱きしめたままかちこちに固まっているプブリウスの頬をつつくと、ぐうと唸って身を捩る。
「ファビウスはこれともう会ったのかい」
「真っ先にお知らせしましたよ、何しろ、この子が憶えているのがあの方しかいませんから。……それにしても納得させるのには時間がかかって、ひどく泣かせてしまったんです。ねえ、プブリウス?」
「ないてないもん……」
 何故かぎょっとしてセラピオは子供を見た。喋るのか、と思ってから、三歳児なのだから言葉もしっかりし始めているにきまっていると思い直す。
 ラエリウスが腕を伸ばすのに、逃げ出そうとする必死さでプブリウスは縋り付いた。腕から消えた重みに物足りなさを覚えてみても、それは息子の幼い頃を惜しんでいるような気持ちだった。
「あの、ナシカさま」
 姉のラエリアにそろりと声をかけられて、彼女に合わせて屈みこむと、思慮深い瞳の少女が小さく礼を言う。
「先日、この部屋にまで入ってこられた方がいたんです。プブリウスを見て声を上げたから、ひどく、あの子が驚いて、怯えてしまって」
「ああ、うん。そういう風な噂を聞くな」
「でも、ナシカさまを見ても泣き出しませんでしたわ」
「……ああ、そうだな。大丈夫だよ」
 おかしな噂を広げたり、噂を助長するようなつもりは、セラピオにはまったくなかった。ラエリアだって疑っているのではないし、彼女ははっきりとそう言わなかったのだ。ただ、そう、この家の人々にとって、スキピオであると信じられているこの幼子はまるでスキピオ当人のように尊ばれているという、それだけのことだった。
 首にしっかりと両腕でしがみつかれたラエリウスが、柔らかそうに揺れる髪を撫でる。スキピオに注がれる嫉視もやっかみも、悪意ある流言も、いつもその手が払ってきたのだ。セラピオは不意にぴたりと目のあったパナイティオスに肩を竦め、当惑から抜け出せていないふりをした。彼を捕らえているのは当惑ではなく、底冷えする気味の悪さである。なんだかこれはおかしい、そう思うばかり、言葉にするといけないことがある。思ったことをすぐ口にする性向を亡父に何度も諌められたことを思い出し、口の端を指でなぞった。
 君はときに、そういう目をしてスキピオを見つめていたけれども。ずっと、まるで捕まえて離さないというように、強く強く注ぐ眼差しではなかったはずだ。
 セラピオはラエリウスの屋敷を辞してすぐに知り合いに声をかけられて噂の真相についてあれこれ尋ねられたが、ただひとつきりのことのほかは答えなかった。あの家にはスキピオがいたよ、と。


 腕の中で寝息を立てている子供の背を、飽きる様子も疲れる様子もなく彼は撫でていた。時折身動ぎすればそれに合わせて腕を揺すってやるし、目を覚ましてぐずり始めると何か言葉をかけて、もう一度寝かしつける。夕餉の支度がされている時間で、煮込まれる具材の匂いがこの部屋にまで届いていた。ふたりのラエリアは母を手伝い、部屋を出る間際にはうとうととし始めていたプブリウスの頬と額にそれぞれキスを落としていった。
 ラエリウスの娘たちは、弟が欲しかったのだとは言わなかった。彼女らの母にほんの少しでも負い目を感じさせまいという賢さであろう。あるいは、男として生まれてこなかった自分たちのための。
 父親が誰にするよりも優しく思いやる子供に幼い姉妹が嫉妬しないのもやはり、その聡明さによるものだった。何しろ姉も妹も、自分たちははじめからスキピオとは違う場所に置かれていて、慈しまれある意味では神聖なものとして父に愛されても、父の親友ほどには彼と近しくなれないのを知っている。それに、優しい姉妹であるから。知らない人々に囲まれて怯え、顔を赤くして泣いていた幼子を見れば、やきもちよりも先に膨らむものがあったらしい。
「彼の幼い頃を想像したことがあります」
 ぽつりと言うと、ラエリウスは目だけを上げる。パナイティオスが卓に載せた蝋板には、スキピオに請われて書き始めていた著作の草案が刻まれていた。
「おとなしい子供だったという話を聞いたことがあって、ならば静かな子供だったのかと思っていた。すこし見当違いな想像だったようだ」
「もう少し大きくなると、あなたの想像通りの彼ですよ、きっと……」
「あなたがご存知のスキピオは、そういう子供だった?」
「……どうでしょうね。私も幼かったものだから」
 潜められていた話し声をうるさく思ってか小さく唸って、プブリウスが顔を上げる。目をこすって部屋を見回し、パナイティオスと、ラエリウスとを認めて、唐突に眉をぎゅうと顰めた。呼気が震え、大きな目を水が満たして、それが頬を滑り落ちていくのはすぐだった。
 ラエリウスが驚くでもなく小さな身体を抱え直し、どうしたの、と話しかける。娘たちがしていたように頬にくちづけてやるのを見て、スキピオの父親が幼い我が子にそうしてやっていたというのを、その母親の思い出話としてトゥベロから聞いたのを思い出した。
 プブリウスが声を押し殺すようにしてしゃくりあげるうちに息の仕方に惑い苦しみはじめると、強く抱き寄せる。そうしてこの子供が泣くのは珍しくなかった。眠りから覚めてすぐには、自らの置かれている状況が思い出せずに泣くのだ。
 幼いプブリウスをラエリウスが預かってからの数日、ファビウスがこの屋敷に滞在することになった。面影があるのと、自分への触れ方に覚えがあったのとで、プブリウスは他の誰にするよりも早く彼の兄に懐いて、離れなくなったのだ。お父様みたいだと言うからファビウスはすこし苦笑していた。いまの彼は、プブリウスが憶えている彼らの父親と同じくらいの年代だった。
 ラエリウスに懐き始めるのにそう時間はかからず、パナイティオスには、パナイティオスが彼ら兄弟を囲んでいた家庭教師のひとりのような振舞いをするうちにすっかり慣れてしまった。人懐っこいと言えないことはない。ファビウスが彼の屋敷に帰った日には泣き喚いて手のつけようがなかったのも、もうプブリウスは忘れているかもしれない。
 ひゅうひゅうと苦しく息をする音がくぐもって聞こえていた。ラエリウスの胸元にしがみついた小さな手が震えていて、きっと体温も上がっているのだろう。服を涙で濡らされても嫌な顔ひとつしないで、ラエリウスは膝に乗せた彼のプブリウスをそっと覗きこむ。
「どうしたんだい、プブリウス」
 プブリウスはかぶりを振って、涙を拭う手から逃げるようにラエリウスのトガに顔を埋めた。
「…………」
「うん?」
「おかあさま……」
 この子がラエリウスの細君に抱かれるのだけは嫌がった理由を、最初誰も分からなかった。触れられるのも話すのも嫌がらないし、笑顔だって見せるものを、なぜ腕に抱かれると暴れさえするのか。
 母親を思い出すのだろうと言ったのは細君で、彼女はそれだからプブリウスを無理に抱き上げることはしないでいた。母親を思い出すからこそ抱かれたがるのではない。パピリアが亡くなって二十年あまりが経っていた。彼女が存命であったとして、この子を引き合わせようと思う者はいない、そう言ったのはファビウスである。
「おかあさまに会いたい」
「そうだね」
「おうちにいないの、かえってこないの」
「寂しいならそれでいいんだよ、プブリウス」
「ごめんなさいがしたい」
「……うん」
 暗闇にひとりきりで眠ることができなかった。ラエリアの部屋で眠らせてやるか、パナイティオスが共に眠るか、そうしないとプブリウスは夜中に泣き始めて、大人には見つけづらい場所に隠れてしまう。ラエリア・ミノルは早々に探し出して一緒に寝台に入ってやることができたけれども、いつかこの屋敷を抜けだしてしまうのではないかと危ぶまれた。
「ごめんなさいしたら、そしたら、おかあさまはかえってくる?」
 ラエリウスが笑みを湛えて、そればかりで何も言わないのを、プブリウスが誤解することはなかった。


 寝台と壁の間に身を潜りこませ頭を抱えた子供を、その上に影を落としながら眺めている。趣味が悪いのではとパナイティオスは思い、そのままそう言った。振り返ったメテルスがすこし笑ってから、隙間に腕を伸ばす。
「うちの末の息子と同じことをするのだと思ってな」
「隙間に入り込むのが?」
「頭隠して尻隠さずというのが」
 引きずり出されたプブリウスがひん曲がった悲鳴を上げて、パナイティオスに体ごと手を伸ばしているのを受け止めてやりたかったが、メテルスが手慣れた様子で子供を肩に抱えたので機を逃した。家主の不在を突いての訪問は故意か偶然か、パナイティオスは彼がスキピオの友人であるのを知っていたので追い返すことも特にしなかったが、失敗だったかもしれない。
 いや、友人だった、というのが正解だろうか。彼らに軋轢が生じていて、スキピオの性格からしてそれが解消されることは決してないことは明らかだった。盟友とも言うべき関係に戻ることはないだろうが、どういう心積もりでいるのか、スキピオから聞かされていないのだ。
 プブリウスはぎいぎいと言葉になっていない抗議をしながら暴れまわっていたが、落っことされる心配はない様子である。メテルスの姿を見てすぐに警戒を露わにパナイティオスにしがみつき、次いで逃げ出して隙間に身を隠したほど、幼子には彼は恐ろしく見えるらしい。
「ラエリウスは当分戻らないのかな」
「夕刻までは……。何が御用事が? 言伝ならば承りますが」
「そのように追い出そうとせずともいいだろうに」
 彼はどこでどういうふうに、この子がいるのを知ってここにやって来たのだろう。パナイティオスの視線は躱されて、メテルスが庭に出て行く。ラエリア姉妹が詩を朗読するのが聞こえた。無事にパナイティオスの腕に返されたプブリウスが、自分だって知っているというように、それに合わせて詩句を諳んじてみせる。
 メテルスの方には頑として目を向けないで、パナイティオスだけを見上げて褒められるのを待っていた。期待に応えとても上手だと言えばはにかみ、腕から下りて庭先で微睡んでいる猫のほうへ駆け寄って行く。
「スキピオを見た」
 メテルスの横顔をパナイティオスは見上げ、そうですかと返す。
「市中ではなく、マルスの野の庭園で。言葉を交わしたわけではないが」
「幻ではない?」
「それを言うならば、あれのほうがよほど幻影のように思えるのではないか、パナイティオス」
 猫と一緒になって草の上を転がっている子供の姿を見つめる目は、彼が多くの子供の父親であることを思い出させるほどに穏やかだった。パナイティオスはスキピオと同様に哲学に関心を持つこの貴族にも講義をしたことがあり、彼は苛烈であり独断を振るいがちではあっても人に馴れない獣のような人物ではないのを知っている。
 ラエリウスの不在を惜しく思うべきかどうか、はっきりしなかった。パナイティオスが黙り込むのを、強い眼差しが捉える。
「じきに帰ってくる。何が起こるか、貴公は容易く察するだろう」
「あの子は……」
 眩暈を感じるほどの愛しさを覚えるのは、あの子供に対してではない。少なくともパナイティオスはあの子供を知らない。ラエリウスが宝を遇する以上に傷を恐れて触れるプブリウス。スキピオにその手で傷がつく日などないと、ラエリウスはよくよく分かって彼に触れていたのではなかったか。
 メテルスが近づくとプブリウスは目を瞠って身体を竦めたが、猫が逃げ出さないので自分も逃げ出さないことに決めたらしい。膝をついたメテルスの手が猫に触れると、そうじゃないと教えるように、猫の首のうしろにその手を持って行った。
 パナイティオスには猫が喉を鳴らすのは聞こえなかった。あの猫を、プブリウスをこの屋敷に連れてくる前には見たことがない。すこし肥えていて顔の造作はあまりよくなかったが、ラエリウスとプブリウスによく懐き、幼子が強く抱きしめても嫌がらなかった。
「パナイティオス」
 呼んだのはプブリウスで、手招きをされて、そのそばに近づく。
「このねこ、おなまえはなんていうの」
「さあ……ラエリウスならご存知のはずですが、私は存じません」
 そうなの、と残念そうに言って、プブリウスがパナイティオスの足に凭れ掛かる。その重さ、温もり、心を許した柔らかさを、惜しく思ったことはなかった。たったいままでは、確かにそうだった。
 猫と一緒に日向の温もりに抱えられて瞼をふらつかせる幼子は、幸せそうだった。この子供は驚くほどよく眠った。眠っているときにはそこに濁りも陰りもないのを知っているかのようにーーそして目覚めて泣くのだ。メテルスが猫を撫でるのをやめて、手の甲でプブリウスの目元を触れる。
「誰が望んで、こうも幸福そうに眠るものだか」
 呟いた彼は、ラエリウスが帰ってくるよりも先に屋敷を出て行った。ああも嫌がった相手であるのに去り際にはプブリウスは肩を落として手を振っていた。


 果たして彼は、それを知っていただろうか。ラエリウスはその日も、プブリウスを腕に抱いて庭先に椅子を出していた。昨夜から朝方にかけて小雨が降っていたがそれも止み、暗い色の雲の切れ目から太陽がその輝きをこぼしている。プブリウスはラエリウスの膝の上で、父親の話をしていた。聞いているとそれが幼子がずっと耳を傾けてきた父を知る人々からの称賛の焼き直しであることはすぐに分かった。
 ラエリウスは幼子がそばにいるときにはほとんど彼から視線を外さない。プブリウスが話しかけるのをやり過ごしたり、聞き漏らしたりして不平を抱かせることもなかった。しかしそれは、程度の点で違えどスキピオとともにあるときのラエリウスとそう変わらないのだし、ラエリウスがいかに深く彼の幼い頃からの親友を思い、ある意味では忠実に仕えているのかを、彼らの友情を知る者が理解しないはずはない。
 奴隷が甘い果実を絞った飲み物を持ってくるとプブリウスは明るく礼を言い、零さないようにそろそろと口をつけた。ラエリウスは器を支えてやりながら、口の端から垂れ落ちたのを拭う。あまり一度に飲み過ぎてはいけないと器を遠ざけられてプブリウスはそれを追い、結局また両手でしっかりと抱え込んだ。
「プブリウス、もうじき昼寝の時間だよ」
「でもねえ、ねむたくないの」
「そう言っていつもご飯の前に眠ってしまうじゃないか」
「ラエリウスがいるんだもの」
 器の中を覗き込み、陽の光が水面を照らすのを面白がってすこし傾けながら、プブリウスはその言葉をもう一度口にした。
「ラエリウスがいるから、もったいなくて、ねむれないの」
 つい昨日、自分の留守のうちにメテルスが訪ねてきてプブリウスがひどく立腹した話を聞いていたラエリウスはただそれに目を細めた。彼が笑んでいるかぎりプブリウスもたくさん笑うものだから、ラエリウスはいつも笑っている。
 パナイティオスはしばらくそれを眺めていたが、玄関先からラエリアが声を揃えて自分を呼ぶのに気が付いて踵を返した。パナイティオス、と何度も呼び、彼の姿を認めて、ラエリア・マイヨルが駆け寄ってくる。
「スキピオ様が」
「……」
「いらっしゃったんです、でも、どうして……」
「心配いりません、ラエリア」
「でも」
「ミノルと一緒に部屋にお戻りなさい、心配いりませんから」
 彼女は聡明で、従順だった。こくりと頷いて、アトリウムに戻っていく。パナイティオスはなぜか他には誰もいない玄関広間にラエリア・ミノルと、彼女と言葉をかわすスキピオとを認め、ほんの少しの間だけそこに立ち尽くした。
 姉に手を引かれ姉妹の部屋に戻っていったラエリアを見送ってから、スキピオがパナイティオスを見る。最後に彼を見た夜と何も変わらない様子で、彼は常通りにうつくしく微笑んでみせた。きっちりと着こなされたトガにも伸びた背筋にも、まっすぐに……あまりに真っ直ぐに注がれる眼差しにも、スキピオである証しかないという風貌で。
「ラエリウスは?」
 ああそうだとパナイティオスは思い出していた。そうだ、彼にはこの言い知れぬ力があったのだ。藍色の双眸がパナイティオスを、彼の背の向こうの庭を見て、しかし答えを待っていた。それが信頼と呼ばれる心地良い放任であるのか、それを試す慈悲のない空白であるのか、定めることに意味はない。
「庭に……」
 パナイティオスが知らぬ間に彼の母語でそう答えるとスキピオは友人の直ぐ側を通って、庭へ通じる廊下を歩いて行く。衣擦れの音、足音、それを追った先で、幼子が腕に抱かれてやさしい風と遊んでいた。
 ラエリウスが足音に気が付いて振り返り、きょとりとして、言葉を失うのを、パナイティオスはスキピオの肩越しに目にした。スキピオ、と彼は意識の外で呟く。プブリウスを抱く腕に力をこめて、不思議そうに自分を見ている幼子を、スキピオから遠ざけた。
「それ、どうしたの。ラエリウス」
「…………」
「こちらに寄越して」
「駄目だよ、……」
 だんだんと、ラエリウスの顔から血の気が引いていった。その腕の中でプブリウスが身動いで、けれどその眼差しはじっとラエリウスばかりを追っているのだ。
 スキピオが椅子のかたわらに立つとラエリウスは立ち上がりかけたが、それも叶わずに、彼の親友を見上げた。まるで刑吏を恐れて足に力の入らない罪人のように座り込んでいたが、彼のどこにも、スキピオへの恐れはない。ただ悲しげな目が祈るように見上げているばかりで、彼が泣き始めてしまったらどうすることもできないとパナイティオスは半ば途方に暮れていた。
 どんな顔をしてスキピオがラエリウスを、あるいは幼子を見ているか、パナイティオスには窺い知れない。その手が幼く柔らかい腕を掴んで引き上げると、果汁の残っていた器が強かに地面に叩きつけられ、砕けた。
「スキピオ、待って」
「これはもういらないでしょう」
「違う、違うんだ」
「ラエリウス、君は」
 分かってくれていると思っていた。
「スキピオ!」
 ほとんど叫ぶように呼んだのが誰のことだか、ラエリウスには分かっていただろうか。ラエリウスのもとから引き離された子供が悲鳴を上げて、腕を吊るされるようにしてたたらを踏む。泣き始めた子供をスキピオは一瞥しただけで、彼はまたラエリウスをじっと見下ろした。プブリウスを取り戻そうとしかけたラエリウスの手がそれで動けなくなり、凍りつく。
「そうじゃない……」
 スキピオの頬に触れた手で、彼は彼の親友を引き寄せた。涙が落ちたが、誰の手もそれを拭うためには動けなかった。
「そうじゃない、スキピオ、僕は……、……君を愛しているんだ……」
 大粒の涙が滑っていく頬に、スキピオがくちづけて、ラエリウスに小さく何かを囁いた。目を瞠ったラエリウスが言葉さえ失って手を落とす。プブリウスの泣き声ばかりが大きくなっていた。まるで、自分のそばに愛してくれる人が誰もいないのだと気付いたあの朝のように。
 子供を引き摺って歩くスキピオをラエリウスは追わなかった。背を向けて項垂れた彼がまだ涙を落としているならば、パナイティオスはここにいるべきかもしれないし、そうではないかもしれない。パナイティオスは屋敷を出ていこうとしていたスキピオを、何度も躊躇ったのち呼び止めた。
 歩調を緩めた彼の手から子供を取り上げると、スキピオは薄く笑って、好きにするといいと言った。泣きじゃくるプブリウスがパナイティオスに縋って、恐れに満ちて目を瞑っている。
「この子をどこに」
「さあ、どこがいいかな。タルペイアでもいいし、……ああ、そうだ」
「スキピオ」
「パウルスの墓所はどうだい、僕は入れないからね」
「スキピオ、捨ててしまうのか、この子を」
「だってみんながいらないって言うんだもの」
 屋敷を出たそのときに、パナイティオスは腕に抱いた子供がラエリウスを呼ぶのを聞いた。救いを求める声には聞こえず、けれどこの子供にそれ以上のことなど何もできようはずもない。
 スキピオが彼によく似た子供を連れて歩いていたという噂がしばらく市中を漂っていたが、それもすぐに息絶えて、もう誰もその幼子のことを口にする者はいなかった。

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