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夢見るような瞳で

 まず目についたのはその明るい瞳。光を放つようなこの澄んだ色を、プブリウスはその時まで晴空の他には知らなかった。
 遠目に見つめる少年の存在にどのようにしてか気が付いたその青年は、傍らの人々に悟られないほどさりげなく、けれどプブリウスが知らぬふりはできないやり方で微笑んだ。それは人好きのする、とても柔らかい笑みだった。
 彼は背が高く、けれどその若さのためか物腰のためか、威圧的には見えない。長い髪が結われて揺れるのが如何にも異国の人の姿で、鮮やかな刺繍に縁取られた外套の下にも見慣れない衣服があるのだろうと思う。華やかな顔立ちをしていた、濃く深くその印象を忘れさせないような。
 プブリウスがスキピオの屋敷に呼ばれたのは、あの青年のためなのだ。プブリウスは笑いかえせないまでも軽く頭を下げてから踵を返した。応接間で待っていなさいと養父に言いつけられていたので、客人より遅れるわけにはいかなかった。
「彼を見たか?」
 応接間に先に入っていたラエリウスーー親友の父は、プブリウスを招き寄せてそう尋ねた。
「ちらっとだけ」
「そうか。あれはマシニッサの次男……正妻の子では二番目で、グルッサという王子だ。いまはそれだけ知っていればいいだろう」
「ラエリウスさまはマシニッサ王をご存知なんですよね」
「そうとも。まあ、長いこと会っていないが」
 ハンニバルとの戦争で、この人はアフリカヌスとともに戦い抜いたのだ。そして戦いのさなかに彼らが得た戦友のひとりがマシニッサ、いまのヌミディアの王であった。ラエリウスがこの場にいるのはその縁のためだろう。養父はアフリカに渡ったことはないし、マシニッサ王も知らない。
 ラエリウスがその息子を伴っていないことに少々落胆を覚えながら、プブリウスは肩にのしかかるトガを少し引き上げた。父に伴われて元老院を見学するだとか、そういうときに着せられる市民服だったが、その重いのにはどうにも慣れない。
「そう緊張しなくていいさ、友達なんだから」
「……この家の?」
「すぐにお前の友達にもなる」
 気さくな物言いでプブリウスの肩を叩き、ラエリウスは自分に用意された椅子に落ち着いた。自分はどうすればいいのだろうと思ったところでやってきた養父が、彼の養子を手招いた。
 養父の座るそばに立っていればいいのだと思って、プブリウスが気を楽にしたのを、大人たちはみんな見抜いたようだった。それは、養父に従って部屋に入ったグルッサにも同じだったらしい。
 こちらを見るなりにっこりと笑ってみせた青年に、プブリウスはまた笑い返せなかった。グルッサは彼を囲むローマ人ひとりひとりの姿を確かめるようにして、
「このような場をご用意頂けるとは、深謝に堪えません。不肖ながらマシニッサの名代として、先の元老院での御配慮にも重ねてお礼を」
 そうしてグルッサのとった礼は見事なもので、プブリウスには養父がするように鷹揚にそれを受け止めるのが容易でなかった。
 彼が父王によりローマに派遣されたのはカルタゴとの係争に関わってのことだった。ヌミディア王家はスキピオ家との深い繋がりを保ち、それを互いに頼るのを常としている。そのような関係を持つ人々が互いに来訪を受ければそれを賓客として世話するのは広く行われることだった。
 王子は従者たちが腕に抱えているものを示し、何故だか困ったような目をした。
「マシニッサより預かって参りました。スキピオ様のお好みではないのではと申し上げたのですが、徒手でわたしを遣るのでは気が済まぬようでしたので、どうかお納めください」
「ええ、あなたにお叱りを受けさせるわけには参りませんから。……お預かりして」
 スキピオ家の奴隷たちが受け取ったそれらはきらきらしい宝飾であったり、プブリウスの目には珍しい果実や花であったりした。鮮やかな色の眩しい織物にしろ大ぶりな宝石の美しい腕輪にしろ、グルッサの言う通り養父が持つのを好むには程遠い。けれど一族の女たちはどうかと、そういう選ばれ方をした品々だった。
 養父とグルッサとが言葉を交わす間、プブリウスはその品々がヌミディアではなくカルタゴで作られたのでは、あるいは東方からカルタゴへ運ばれたのではと思った。
 それほどに見事であると見えたからでもあり、あまりにも豪奢でかえって毒々しく感じられたからでもあった。それを主義とするまでではなくとも奢侈を退ける父のもとで育った彼には、縁遠ければ遠いほど素直に魅力的と認められるようなものだったのである。
 はた、と彼は顔を上げて固まった。プブリウスがそうして贈り物を眺めるのを、気がつくと周囲がみんな見ていたのだった。
 グルッサが小首を傾げてやはり微笑むのに、誤解の気配を感じて頰が熱くなる。
「お気に召した物がありましたか」
「いえっ、あ、いえ、そうでなくて……ただ珍しくて。すみません……」
「グルッサ殿」
 と、養父が彼の養子の背を柔く押しながら呼びかける。
「ご紹介いたします。パウルス家から我が一族に加わることとなります、プブリウス。私の跡を継ぎます」
「ああ! お会いできて嬉しい」
「よろしくお願いいたします、……グルッサ殿」
「はい、どうぞ末永く」
 膝をついたグルッサに見上げられ、火照りの取れない頬がどうにも恥ずかしかった。
 よろしく、と重ねて言ったグルッサの耳や、腕、あちらこちらに光る金は佳いものと思えた。


 客人を迎えての晩餐は酒宴とひとまとまりになるもので、未だ成人しないプブリウスは同席しないのがふつうだった。それを今晩に限って許されたのは客人が客人であるので、特別のことだ。
 養父はその虚弱さ故に食が細く、少しの酒も飲まない。彼の代わりのようにグルッサとともに杯を重ねるラエリウスは、この場に不在のナシカの分まで担っているようだった。彼がいるとこんな風にも助かるのだ、と発見をした気になる。
「マシニッサは壮健ですよ、弟と妹がまだ増え続けているくらい」
 少し酒の入ったグルッサのラテン語は些か発音が甘く、けれど不思議と野卑な風ではなかった。時折彼が言葉を思いつかず首を傾げたり、おかしな言い回しをして誤魔化すように笑ったりするのを、プブリウスは末席から見守っている。
 むしろ彼の言葉は見事過ぎるくらいなのだ。物心ついてから習い続けているギリシア語をあんな風に話せるかと言うとプブリウスには少し怪しかった。
「ラエリウス殿にもご子息がおありなのでしょう。お会いしたいな」
「ああ、そりゃ勿論。そこのプブリウスと友達でな、引き剥がせないくらい仲が良いんだ。明日にでも連れてくるよ。まだ暫くいるんだろう?」
「はい、ローマの様子を見聞して来いということなので」
 寝椅子に体を横たえる姿は、ほかの人々ーーローマにおける貴顕と比して、何かが違った。彼の隣にいると養父は華奢なのもあって影が薄く、頼りない。
 王族というものを、全く知らないわけではない。人質としてローマで過ごす他国の王族の少年たちはやはりプブリウスらローマ人の少年とは違う毛色をしていた。彼らはどうしてか、鮮やかな色をしている。
 それに、このグルッサは王になるかもしれないのだ。ヌミディアの王位がどんな風に継承され、相続がどのように為されるか詳しいところは知らないけれど、数多くのマシニッサの王子のなかではたった三人の嫡子のひとりであるから。その一方でグルッサには、王と聞いて少年が思い浮かべがちな怖さはなかった。
「ーープブリウス」
 呼ばれ、顔を上げると、養父が苦笑していた。つい今しがたの会話の脈絡が思い出せず、プブリウスは船を漕いでいたらしい。
「眠いだろう、もう遅いから」
「すみません……」
「いや、いつもならもう眠っている時間だものね」
 確かにそうだと思うと、眠気が重たくなった。寝椅子から身を起こしたプブリウスはグルッサも同じようにしているのが目に入ってきょとりとする。
「申し訳ないのですが、わたしも」
「ああ、旅の疲れがあるよな」
「船は慣れないものですから……」
 口を開きあぐねて大人たちのやりとりを見守りながら、挨拶をし損ねた、と思った。グルッサと目が合う。彼は、今度は笑みを作らず、けれど何か言いたげな顔だった。何か……プブリウスにはすぐに分かった。彼は自分とほとんど同じことを思っている。
「それじゃあーーグルッサ殿は、僕がお部屋にご案内します」
 グルッサが挨拶を済ませるのを待ち、プブリウスは一足早く部屋を出た。
 多くの灯りの灯されていた食堂に比べると、廊下は薄暗い。奴隷から灯りを受け取ったプブリウスに追いついたグルッサが、ありがとうと笑った。大きな目だ、それが笑うと無視できない。
「あの、こちらです」
 頷きながら、長い睫毛が重たげに瞬く。あれ、と思って、プブリウスは彼の顔を覗き込んだ。
「……うん?」
「本当にお疲れなんですね」
「どうして嘘だと?」
「どうしてでしょう、すみません」
 期待を見透かされる気がして、廊下を進んだ。この客人のために用意された部屋はプブリウスがこの屋敷で使う部屋とさほど離れていない。
 少し後ろをついてくるグルッサからは、金属の触れあう音が聞こえる。耳飾りだろうか、それとも髪飾りか。丈の長い割に脇が大きく開いて無防備な衣服は鮮やかな色に染められて、帯には緻密に刺繍が施されていた。ーーこれはいちばん良い服を着てきたんですよとグルッサが不意に言うので、プブリウスはまた自分の目があからさまだったのを知った。
「こちらです、何かご入用でしたら、控えている者がいますから」
 彼の目にこの部屋は狭く感じるのではなかろうか。グルッサは部屋を一通り見回し、自分の荷物があるのを確かめてプブリウスを振り返った。
「ありがとう。……明日はお早いのかな」
「いいえ、いつも通り……」
「すこし、お話しできませんか。もう眠たい?」
 油断すると欠伸が出そうだったけれど、目蓋が重くて仕方がないということはなかった。部屋で待っているだろう女中の顔がちらついたのに、少しだけ、と頷く。
 寝台に腰掛けたグルッサがすぐ傍を叩くので、プブリウスはそこに座った。手にした灯りはしばらく保ちそうで、屋敷は静かだった。
 上から注がれる眼差しを感じ、ちらと見れば、グルッサは不思議そうな顔をしていた。
「あなたの名前は……」
「プブリウス」
「ええ、でも、ローマ人は三つの名前を持つのでしょう」
 ならあなたは養父とも、養祖父とも同じ名なのかと言うのでその通りとプブリウスは少し笑った。
「でも、僕はまだ子供ですから。成人したら正式に、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスと」
「あえ……」
「アエミリアヌス」
 手のひらに指先で綴りを書いてやると、合点がいったらしかった。
「どういう意味?」
「これで、アエミリウス氏からコルネリウス氏に入った、と表すんです。……アフリカヌスは伯母の夫です、僕は、養父とは血の繋がりがありますがアフリカヌスとはありません」
 言っておいた方がいい気がした、変に期待を持たせないために。
 グルッサはただ、そうなのかと言っただけだった。これは子供のお守りなのだとプブリウスが首に下げたブッラを示すと、何なのだろうと思っていたとそれに指先を触れた。子供の証は、その素材で子供の生まれまでも教える。プブリウスは薄い金の板に多く守られてきた。
「成人はもうしばらく先ですね?」
「いえ、もうすぐ……」
「……もうすぐ?」
 グルッサの少し寄せられた眉に、あ、と思った。
「いま僕は十三で、成人は人によるけれど十四歳くらい。……何歳だとお思いでした?」
「いや、はは」
 彼の格好がつかない顔は初めてだった。誤魔化していてさえ整っていて、ちっとも崩れたところがなかったのに、いまのグルッサは失敗を隠し切れずに困っている。
 幼く見られていたけれどーー恐らく十歳とか、そのあたりにーー嫌な気分ではない。歳の割に、と言われることは多かったし、ほとんどの場合そういった目はプブリウスは消沈させるけれど、グルッサにはほんとうに他意がなかったから。
 プブリウスの目にこの王子は大人に見えたが、若々しさとともに具体的な齢の推測は難しくなっている。けれど、こうして公務を担う彼は戦場を知っているだろう。
「従軍するのは、十七歳。あと少しなんですよ、こう見えて」
 冗談っぽく言えば、彼はまた笑うかと。けれどプブリウスが見たのは、虚を突かれた、何か驚くべきものに行き当たったという顔だった。
「そうか。あなたも戦うのですね」
「もちろん……」
「いや、違うんです。そんな顔なさらないで」
 そう言われても自分がどんな顔をしているか分からず、プブリウスは彼の言葉を待った。頭がほとんど空っぽなのは、何も考えまいとして、グルッサを誤解したくないと思って、それだけだった。
 グルッサは、自分の耳にぶら下げていた飾りをひとつ、外して、それをプブリウスの片耳にあてた。穴を開けていない耳につけられない、そうでなくともプブリウスには縁のない緑の石を、どんな風に見ているものか。
 父が、とグルッサは呟く。マシニッサは彼の知るスキピオを語るとき、美しかったといつも言うのだと。
「この石を見た時にあの男の瞳に似ているとか、そういうことをとつぜん言うのです」
「確かに、見目のよい方であったと聞いています」
「ええ、でもそれだけはない。あなたはまだ分からないかもしれないが。……それだけのことで、忘れ得ぬひとになりはしない。この先あなたと同じ名を持つひとをどれほど知ったとて、わたしはあなたを忘れないでしょう」
「…………」
 よく、分からない。
 グルッサの耳飾りを持ったままの手が、その甲でプブリウスの目元に触れた。温かい手だった。少し困った風に、彼はまた微笑う。
「そんな顔をしないで」
「僕はいまどんな顔をしているんですか……」
「不安そうだ」
 彼にそう言われると、そうなのだろうと、反発なく胸にすとんと落ちた。
 プブリウスは、こんな風に養家に連なる人たちに引き合わされるたび、どこか不安なのだ。彼らは期待を抱き、理想を描き、輝かしい記憶の再来を待っている。僕に彼らを満足させられるだろうかと、そう、思わないではいられない目をしている。
 そんなことは口に出さないまま、プブリウスはそっと、グルッサの手を下ろさせた。
「楽しみだと思った、プブリウス」
 彼はよく笑うけれどその笑みにはいくつもの種類があるらしかったーーほんの小さな火を照り返し、あかるく煌めいた瞳が、獰猛な獣の気配をさせる。
 怯んではいけない。
「あなたと戦うのは絶対に楽しい。だからわたしはあなたを忘れないでしょう、たとえ四年後に共に駆けることができずとも」
 言葉を失い瞬きさえ忘れた少年がきっと、と囁くのに、グルッサは頷く。
「きっと、一緒に」
 それがどの戦場であるかなど知らない。けれどこのひとに戦場を与えるのは、プブリウスの手に許された仕事のひとつに違いなかった。
 ふっと、視界が暗くなる。手元の火が油を失ってかき消え、彼らに夜を思い出させた。もう眠らなければ。すぐに闇に目が慣れたらしいグルッサが立ち上がり、扉を開くのを追う。
「それじゃあ、僕はこれで……おやすみなさい、また、明日」
 灯りを取り上げたグルッサが腰を屈める。さらりと、灯りのもとでは光沢を持つ髪が頬を掠め、そっと回された腕が背に触れた。ただ突っ立っているプブリウスに彼は囁く。
「おやすみなさい」
 それからどうやって自分の部屋に戻ったのか。気がつくと顔馴染みの女中にトガを脱がされていて、思い返せるのは瑞々しい瞳ばかりだった。
 日に焼けた肌と裏腹に、その髪も瞳も色褪せずに、きらきらしていた。
「王子様ってああいうものなんだね……」
 プブリウスが呟くのを、トガを抱えた中年の女は不思議そうにするばかりだった。

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