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夢待つ埠頭

 かたく握られた手に落ちた涙の熱さを、きっと忘れ得ない。彼の姿を認めた老王がその未だ精悍な面差しに表した驚き、あるいは喜びを、スキピオはぼうぜんと受け止めたように見えただろう。ほんとうはそうではなかった。動いてはならないという直感がスキピオをその場に縛ったのに過ぎない。矍鑠たる老人の手綱を握るために作られたような手がスキピオの手をとり、若い膚の頬に触れた。
 みるみるうちに涙がその目のふちを埋め、流れ落ちた。豪奢と形容してもよいキルタの王宮、この王の築いたものの象徴のなかで、その涙はときを間違えていると感じた。いま、流されるべき涙ではないと。軍装ではなく旅装に身を包んだスキピオの外套に覆われた肩、腕に触れ、王はわななくのに混じって笑ったようだった。
「あなたにお会いしたいとずっと、思っておりました。マシニッサ殿」
 社交辞令などではなく本心を、ようやっとのことで口にする。スキピオにとってこの王は物語のなかの勇者と同じ存在だった、幼い頃に語り聞かされた先の戦争の話のなかでマシニッサの名はたびたび持ち出される。皺とともに深まる彼の笑みには親愛があった。
「若きスキピオよ、この老耄にそなたをここに迎えることを許した星々に感謝せねばなるまいな」
 彼の声までもが齢八十を数える人間のものとは思えないほどに生気に満ちているのをスキピオは聞いた。
「あなたはアフリカヌスを御存知でおられる」
「ああ、そうとも。そうとも、よく知っている……」
 スキピオを見つめるマシニッサの目が追憶に沈むそれではなく、いままさにここにいる男を見るそれであることが、スキピオには不思議に思われた。彼は彼自身を通してその名を持つ男を探す人々の思い、眼差し、あるいは声に慣れきっていて、マシニッサがかの英雄を心のうちに呼び出しておきながら目の前のスキピオとの峻別を叶えていることはむしろ珍しかったのだ。
 それ以上の言葉を交わすでもなく立ち尽くしていたマシニッサは、おそらくは彼の王子だろう、少年の域からやっと足を抜いたという風情の青年に促されてスキピオの手を離した。偉容と言ってもよい王の姿を追い、王宮の中へと案内されるスキピオを、この国の誰しもが目で追う。知っているのだ。スキピオがこの地のことを、この王を、目にしたことはなくとも知っていたように。
 マシニッサ、彼こそが、この時代において最も幸福な王と師が呼んだ男だった。


 王を戴く国の姿をスキピオはこれまでにも見てきたが、マシニッサの王国がかつて見た東方のそれと似たものを持つことには驚かされた。それはつまり、この国が隣国カルタゴの持つものを貪欲に取り込んでいることの証左でもある。
 スキピオがマシニッサを訪れたのは、マシニッサがカルタゴと干戈を交えていたまさにその時であった。昼間、数人の同行者とともに戦場となった平野を見下ろす丘からスキピオはマシニッサが馬を駆り指揮を執るのを目の当たりにしたし、決着のつかなかった彼らの調停を依頼されそれを受けた。結局のところ調停はうまくまとまらなかったのだし、スキピオは、いや彼ならずともその戦いを見聞きした者はみな、始まったかという思いに囚われることになった。
 英雄たちが雌雄を決し、カルタゴがその力を削ぎ落とされ、誇りを試され続け、五十余年が経過していた。様々な物事の幕を落とした戦争からそれだけの時が過ぎたのである。マシニッサが老いたように、イタリア本土での戦争を知らぬスキピオが元老院の末席を占めるまでになったように、誰しもがその年月を目にしている。
 そうか、いまなのか、と。スキピオは決して許されぬ行為に踏み出したカルタゴの将軍の顔を見てもう立ち止まりようはあるまいと感じたのだ。彼らはきっと、誇りある民であり続けるだろう。スキピオの祖国がいかに思おうと、振る舞おうとである。
「この王宮のかつての主のことを知っておられるか」
 果実をつける庭の植木などに視線を漂わせていたスキピオが振り返ると、マシニッサは穏やかな顔で客人を見ていた。彼の歩調はゆったりとしたもので、戦場での姿とは重ならない。
「シュファクス王でしょう。……私はまるで見てきたかのように、この地であったことを語れるのです、マシニッサ殿。話してくれた人がいるものだから。ガイウス・ラエリウスを憶えていらっしゃいますか?」
「ラエリウスか。忘れるはずもない」
 気持ちのいい男だったと笑う。その笑みの緩やかさでマシニッサは身体だけでなく知性も曇りないままなのだとよく分かった。
 日は傾きつつあったが、晩餐には早過ぎる時刻である。既に同行者は別の部屋に案内され、柱廊を歩くのは王とスキピオだけだった。時折見かける下女か、奴隷か、ともかく王族ではないもののなかには肌の黒いものもあった。ここはアフリカだ、と思う。匂いが違うとも。マシニッサの首や腕にはめられた金の装飾、彼の編まれた長い髪こそが相応しい場所なのだ。
「いくらか時間がある、老人の相手をしてくださるか」
 庭先を指し示され、そこに小さな卓と椅子とが用意されているのを見てスキピオは「喜んで」と頷いた。そしてふと、自分は客分のものにしては王宮の奥深くまで入り込みすぎているようだと気づく。卓のそばに控え、王に杯を手渡した少女の身形ははしためのそれではなかったし、耳を澄ませば、軽やかな子供の声が聞いてとれた。
 この老王が持つにはあまりに幼い声の子供であったが、話には聞いていたことであるし、他にも同じようにして遅くに子を得た男をスキピオは知っていた。杯を差し出され、礼を言えば少女は華奢な冠に留めたベールの向こうではにかんだようだった。カルタゴ風の装束がよく似合っている。いくらかスキピオのことを見つめ、不躾と思われるよりもほんの少し先んじて訓練された所作で礼をして去っていく背中はぴんと伸びていた。
「聡明そうなお嬢様ですね、ラテン語がお分かりになる?」
「ああ、親に似て幸いだった。はやくに父母を亡くしたので私が親のようなものだが、そなたを見てみたいと言うのでな」
「……申し訳ない、私はてっきり」
 マシニッサの娘だろうと思ったのだ、と頬を掻けば無理もないと鷹揚に笑う。
「私も忘れることがある、どれがどの息子なのか娘なのか。こうなっては娘も孫娘も同じようなものだ。……子よりも長く生きるというのはあまりいいことではない」
 同じ言葉を聞いたことがあった。子を持たぬスキピオには、子を持ち、子に先立たれる親の心など覗きようもない。けれども彼らは決して、子を不幸なものとは言わなかった。
 口をつけた葡萄酒はすこし慣れない味がした。産地が違うのではなく、水で割るほかになにか混ぜているのか、香りが濃い。平皿に載せられた無花果の瑞々しさはローマにあっても市場で目にすることができる。
 マシニッサはローマの様子を尋ね、スキピオが現在戦地としているヒスパニアのことを尋ねた。かつてイベリアでローマと戦った王はイベリア人の頑迷なまでの反抗についてさもありなんという顔をし頷き、ローマの若者たちに広がっていた兵役忌避の風潮にはすこしばかり、驚いたようだった。
「ローマ人というものは軍役を誇りとするとばかり考えていた」
「それは間違いではありません。ですが、どれほどの人材を投じても治まらぬのを見て、他の場所ならばともかくという気持ちなのです」
「他の場所か。……そう、そなたならばヒスパニアではなくマケドニアなどに縁があろうに。なぜ志願を?」
「分かっておられる顔をしてお尋ねになるのですね」杯の縁を撫で、すこし言葉を吟味する。「私は手本にならなくてはいけません」
 元老院で言ったようなことをこの人に言っても大した意味はなかろうと思われ、スキピオは薄く微笑む。青年貴族たちの望みとは、いまの時風にあっては凱旋式に代表される顕彰なのだ。絶え間ない戦役はその機会を与え、名望の獲得は、その維持に比すればおよそ難しいこととは言えない。
 生まれながらにして輝かしきを得るものは少ない。王がその血により王宮に住まうようにして、貴族の一員として機会を得ることはできたとしても。スキピオは、生まれながらにしてではなくとも、自分ははじめから持っていたのだと思っている。
「私の手本はアフリカヌスなのです。マケドニアは確かに父の縁が私を繋ぐ地、ですがヒスパニアにも、養祖父の足跡がある……」
 合間合間の相槌に乗せられて、スキピオは友人に対して口にするようなことを話そうとしている。古い知人と相手にしているのではと錯覚するような空気を感じた、決して不愉快などではなく、吸うに易い。
「不思議なものだ」
 言葉の通り感慨にふける声で、マシニッサが杯を置く。彼の眼差しの向かう先を追い、またそれを辿り戻ると、怜悧な瞳がそれなのに優しげにスキピオに据えられていた。
「そなたには、あの男の血は流れていないというのに。どこか似ていると思うのはこちらの勝手、しかしそれにしても、同じような顔をして語るのだな」
「懐かしく思ってくださいますか」
 人はスキピオの名に英雄を思い出す。当時を知る者ではなくとも類稀な栄光を持ったその男のことを、ローマは忘れる方法を持たない。スキピオはアフリカヌスとは違うのだと言う。その理由を明確にしたものはいなかったが、違うからと落胆され、違うからと歓迎された。
 王の見せたあの涙は一体、何なのだろう。それが分からなかった。
 答えはなく、マシニッサはそれきり言葉少なになった。彼との間に置かれた沈黙が苦とならなかったことをスキピオは話の種ともしなかった。その後招かれた晩餐は贅を尽くし、また、ローマ人からすれば親しみのないこの地の料理が多く並べられた。マシニッサはスキピオ以外の客人の期待に応えてのことかアフリカヌスについて言葉を惜しまず、それはやはり、スキピオがラエリウスや父たちから聞かされたのと似た話なのだった。


 目が覚めたとき、手を伸ばしていた。自分の手を見つけてもう夢の中ではないと悟り、スキピオは寝台の上に身を起こす。動く拍子に寝台から漂った芳香は彼の邸のそれでも幕営でのそれでもなく、ここは異国だと何よりも強烈にスキピオの寝惚けた頭に思い出させた。
 遅くまで宴は続き、少し、深酒をしたかもしれない。酔うたとて正体をなくすこともなく、ただ無口になるというだけだから失態ではないが。慣れないものに囲まれて慣れないことをしていた。だから夢を見たのだろう。風が葉を揺らす音ばかりが沈黙からスキピオを遠ざける夜更けに、もう一度寝入るのは難しそうだと感じて寝台を下りる。水差しから杯に移した飲水はぬるかったし、花びらか何かを浮かべているのか、やはりよく知らない香りがした。
 闇に目が慣れ、月の光の明るさを感じ始めた頃になって、スキピオは短衣の上に外套をひっかけただけで部屋を出た。案内の者もなく勝手に歩き回るのは流石に無礼かとも思われたが、好きに過ごすがよいという王の言葉を額面通りに受け取る振りがしたかった。
 サンダルが石の敷かれた柱廊を擦る。その音がひどく大きく聞こえる。夜となれば気温が下がるからと厚い掛布を用意してくれていたことを風の冷たさに思い出した。肩にかけただけだった外套を胸元に引き寄せ、庭に下りる。噴水などはないただの池が設けられていて、そこには、食べるためのものだろうか、大小の魚がいくらか泳いでいた。少年の頃に見たマケドニアの王宮やギリシアの町並みと比べれば、何もかもが見窄らしいのだが、ここは好きだとスキピオは思う。夜空をそのまま映し込む池の周りをゆるゆると歩くと先ほどの夢がはっきりと脳裏に蘇ってくるのだ。きっと朝日が昇り、ローマに戻れば、このようには思い返せまいという夢だった。
 柱廊の向こうへと抜け、夕刻にマシニッサと過ごした庭にまでやってきたスキピオはそこで足を止めた。まさに彼らが腰掛けていた椅子は変わらぬ場所に置かれたままで、そこに座す小さな姿を見つけたためだった。
 外套など身に着けないで細い肩を露わにしたまま、膝に載せた書に目を落としている。月明かりを頼りにするには暗すぎるだろうに、まばたきさえ惜しんでいる様子だった。マシニッサの孫娘は小さな冠もベールも、きらめく宝石のひとつさえも取り払って時折落ちる髪を掻き上げる。
 早々に立ち去るべきだった。ほんの子供とはいえ王の血族とこのような場面で出会うことは避けるべきだ。そう思って視線はすぐに逸らしたし、踵さえ返したのに、あっと声を上げたのは少女のほうだった。
「ーースキピオさま」
 呼ばれ振り返ってしまってから目を丸くしている顔を見れば、やはり幼い子供なのだ。スキピオは彼女の齢が推測できなかったが、ローマであれば婚姻の叶う齢だろうとも、もしかするとそれよりも幼いかもしれないとも見える。すこし目を逸らしたままでスキピオは浅く礼を取る。
「申し訳ありません、ご無礼を。私はすぐに」
「いいえ、あの……いいえ。いいのです。どうか、わたくしのことは気になさらないで」
 立ち上がった拍子に膝から落ちた書を慌てて拾い上げ、それを胸に抱きしめるようにして、少女は頑なな目でスキピオを見た。それが夜分に出会ってしまった客人への、どういった気持ちからくるものなのかは分からない。けれどもスキピオは大きな目を振り払って部屋に戻ることができなかった。友人の娘のことを思い出したからかもしれない、あるいは妻のことを。
 歩み寄る間の沈黙に、少女はどこか所在なさげな風で立ち尽くしていた。波打つ赤毛をしきりに触って、祖父と同じ澄んだ青い瞳をうろうろと泳がせる。やはり立ち去るべきだった、けれども歩いてきてしまった。
「お眠りになれなかったのですか」
 スキピオが座るのに合わせて少女のほうも先程までそうしていたように椅子に浅く座る。どこかたどたどしくはあったが、じゅうぶん聞き取れるラテン語だった。
「目が覚めてしまったのです。寝直すには目が冴えていて、散歩を」
「そうでしたのね。わたくしはただの夜更かしです」
「何をお読みに?」
 ゆっくりと、はっきりと話してやっているのが分かるのか、少女はひとつの音も聞き漏らすまいとしているようだった。胸に抱いていた書が皺になっているのに気がついてあわあわとそれを卓に伸ばして、何故か気恥ずかしそうにそれをスキピオに差し出す。
 書と言っても、誰かが書き写してやったものなのだろう。ギリシア語で書かれた文章をその誰かがラテン語に直してやった、哲学書の一部と見て取れた。
「伯父様にいただいたのです。こんなものばかり読むとお嫁にいっても可愛がっていただけないと言って、侍女には叱られますの……」
「可愛がっていただけないなんてことはありませんよ」
「そうでしょうか」
「私の義母など、誰よりも教養がおありだが、夫君とはとても睦まじくていらっしゃった」
 些細な書き損じ、綴りの間違いなどを指摘したくなったけれどもスキピオはただそれを返してやった。ローマに住むものは、この国の人間はみな野蛮だと信じている。それはあるいは真実だが、そう呼ばれるものたちほど、そう呼ばれぬものが敵わぬ貪欲さを持っているものだ。
 少女がじっと文字を追うのを、スキピオは夢の続きにいるような気持ちで見守った。同じところばかり見ているのに気付いていたし、それがどうしてなのかも、やはり友人の娘たちを見てきた経験から分かっていたけれども、黙っている。数多くの子を持つ王が手元に置くのは数少ない幼い実子と、こうした孫たちなのだろう。カルタゴ貴族などに多く嫁し、また、貴族の娘を多く貰い受けているのがこの王家だ。この少女の行く末を決めるのがマシニッサその人であるという保証はなかった。
「あの……」おずおずと、顔を上げる。それになるたけ優しく頷いてやれば少女が一箇所を指さして、どうしてもこの意味がわからないのだと言った。
 ものを教えること、何よりも、無知な相手に教えることほど難しいことはないと師が零していた。スキピオは難しくはない言葉を選びながらそれは本当だと思う。少女の顔は素直で、分からないと思えば曖昧に頷いて不安げに眉を下げるのだから。
「これは勇気について語っているのです。勇気、徳、そうしたものを備えた人になりなさいと伯父様はあなたに思われているのかもしれませんね。……あなたたちの言葉で勇気とは何と言うのか、恥ずかしながら私は知らないが……それが尊ばれるのは何処であれ同じことだから」
 言葉の意味についていくらか質問をしてから、少女は勇気を意味する文字列を何度も眼差しでなぞった。まるく磨かれた爪にも、柔らかな線を失わない指先にも、彼女が大切にされていることが表れている。
 夜風がひときわ強く、彼らに吹きつけた。剥き出しの肩を目に留めて自身の肩から外套を脱ごうとしたスキピオはしかし、静かに呼びかけられてその手を止める。
「勇気とは、戦いに必要なものを言いますか?」
「それもまたひとつの勇気の姿でしょう」
「自ら死を選ぶことは勇気でしょうか」
「……生きているうちになすべきことを全てなせば、あるいはそうかもしれません」
「与えられる死を受け入れるとき、本当にすべきことをすべて、行えてはいなかったら?」
 言葉を選びかねてスキピオは文字を見る。少女の声があまりに滑らかでありすぎ、言葉が、何やら聞き知らぬものに思えた。視界の端にある白い指先は揃えられ、動かない。
「あなたは私を見たがったのだとマシニッサ殿にお聞きした」
 質問に答えないことを彼女は咎めなかった。そうです、と静かな声で答え、ゆるゆるとその微笑みを目の当たりにしたスキピオが何故かと問えば、幼い頬にさす影が深まる。
「わたくしの名はソフォニスバと申します」
 それはこの国の女の名前ではない。
「それだから、あなたをひと目、見てみたかった。スキピオさま、あなたはきっといつか、アフリカヌスと呼ばれるお方ですもの」
 冴え渡る瞳の色を、見間違えていた。
 それは冬の空に似てなどいなかったし、むしろ、彼に似ていた。馬を育てる若草の色を闇夜のなかで潤ませて少女は笑っていたのだった。
「ーーそのような格好では体を冷やすだろうに」
 肩に手を置かれ、それを熱いと感じた。マシニッサは目を幾度か瞬いただけのスキピオに苦笑らしきものを浮かべて、池のほとりに立つ客人の隣に並ぶ。外套は、と思い、それをあの少女にくれてやってしまったのだと思い直した。どうにも寒々しい肩にかけてやり、上等の品ではあるが使い込んでいるから捨ててしまってもいいとまで言ってやったのだった。
 肘のすこし上までの袖ではこの夜風が寒い。それに気が付いたのもマシニッサが何故か手にしていた上着を渡してきたときだ。ゆったりとした長袖のそれは、おそらくカルタゴの装束だろう。ローマで着るのは憚られる類のものだった。
「こんな夜中に、どうなさった」
「……夢を見ました」
「いまも夢現という顔をしているが。そんなところをあの男に似ることはない」
 いまにも池に落ちかねない背中に見えたと言ってマシニッサは低く笑った。あなたこそどうしてとは尋ねられず、あの男というのが養祖父のことだと理解するのに時間がかかった。池の魚が、まるで主のことを分かっているかのように水面に跳ねる。
「どのような夢を?」
 知っているくせに、そう尋ねるのだ。スキピオはいやに重く感じられる口を暫く閉ざしたままで跳ねる魚の色を考えていたが、観念するようにしてゆっくりと瞼を下ろし、それを開いた。
「アフリカヌスの夢を。それに、パウルス家の父もいらっしゃいました。さまざまなことをお話しくださいました、いま思い出すことができるよりもずっとたくさんのことをきっと、お話しくださった。私はアフリカヌスの顔を像でしか知らぬのに、あの方は、お変りない様子だった……」
 晴れ晴れとした笑顔も、きらめくがごとき若草色の瞳も、スキピオは知らぬはずだ。アフリカヌスの死の年にやっと物心がつこうかという幼子だったのだから。スキピオよりもいくらかはっきりと彼を覚えている友人とてあのような姿は知らないーーまるで凱旋式のその日のように若々しく、神々の恩寵に守られたものにしかありえない眼差しを持っていた。
 マシニッサはそういうアフリカヌスを知っているのだということに思い至ってスキピオが横顔を見れば、静かなばかりの面差しがそこにあった。空が白み始めるのにそう時間はかからないだろう、もう奴隷たちは仕事に駆り立てられているかもしれない。けれどもしんとしていた。
「大切なことは憶えています、僕の欲する言葉を下さったから、あれは夢なのでしょう」
「さあ、どうだかな。あの男は魔術めいたやり方で言葉を選んだし、その言葉の持つ力をよくよく知っていた」
「だから、ご友人になれたのですか」
「友人になどなってはいない」
 驚いた。感じたままにそういう顔をしたのだろう、マシニッサは笑わず、足を引く。老いた身にしては軽やかに翻った背をスキピオは動けずに見送りかけたが、名を呼ばれて足は素直に彼を追った。スキピオがついさっきまでいた庭とは逆の方向、つまりはあてがわれた客室のほうに王は進んでいたが、いくら走ったとしても辿り着かないのではという気がした。
「私はあの男のことがほんとうに嫌いだった」
「ほんとうは、では、ないのですね」
「ほんとうに、だ。そなたにならば何を言ってもいいという気になるな、そういうところが似ている。それだのにそなたを嫌う気にはひとつもならない」
 同じことを言う男がいるのだとスキピオは言わなかった。言うべきとか、言うべきでないとか、そういうことではないのだ。ゆるく縛られただけの色の薄い髪が馬の尾のように揺らめく。
「先も短かろうというときにそなたがここを訪れたのを嬉しく思う。私にとってもあれはもう遠い日のことに過ぎない、ヒスパニアにあり、この王宮に足を踏み入れ、王となったのは、恐ろしく遠い日のことになってしまった。そなたと私とは同じ場所に立っているのだ、同じように昔は遠い」
「マシニッサ殿」
「遠くなればこそ輝かしい。朧げな影になり果てるほどに懐かしい。だからこそそれは夢と同じだ、ほんものではないのだ。しかしそなたは夢などではなく、私も同じことだ。私には、そなたにスキピオを見るなどという芸当はとても、できそうにない。……この先に立つものがあると思えばこそ」
 時を越えることはいともたやすいのだと夢で言ったひとがいた。誰だっただろうかと思い出そうとすれば、この王の顔ばかりが浮かんだ。星々の座を指し示し、この地上を示し、運命を語った男の顔は彼のものではないというのに。スキピオが立ち止まると、マシニッサは振り返り若者に笑みを寄越した。
 彼は泣いたのだ、それが何故だったか、誰にも語らぬまま。昼にそうしたのと同じように頬に触れた指は硬く、無骨で、けれども生きていた。
「誰しも待っている、望む波の打ちつける時を。そなたにもいずれその時が来よう」
 かたく頷いたスキピオの頬から落ちた、その手はもう熱くはなかった。


 馬を降りたスキピオを出迎えたものたちがみな黒い服を着ていた。それで、間に合わなかったのだと分かった。
 たったの三日前のことだと言う。若者よりもよほど確かな力で足で地を踏みしめ、馬とともに駆けた王はこの二年ほどで老いにその背を捕らえられたのだと彼の長子たるミキプサは語った。マシニッサの嫡子、王位を継ぐに相応しい血を引く男子は三人おり、いずれもスキピオよりも年嵩か、同じくらいの見目だった。
 この三人の王子の間に流れる剣呑な空気と、交わされる眼差しに籠められた牽制、しかしそれをスキピオには悟らせまいとする取り繕いで、スキピオには自分の役目が分かってしまった。スキピオの半歩先を歩くミキプサは弟たちに彼らの庇護者たるローマ人の案内を譲らなかった。
「父はよくあなたの話をしてくださいました。二年前には、私はあなたにお会いすることが叶わなかったゆえ」
 この地では死者をどのように葬るものか、スキピオは通された部屋の中央に据えられた寝台と、その上に横たえられた体とを見て、そう大きな差異はなかろうと感じた。肌の色こそ変わっていたし、死者の顔ではあったけれども、マシニッサは偉容を損なうことなく死んでいたのだ。
 花の濃い香りが死臭を紛らわせ、王の周囲でさめざめと泣く女たちの声が、死者の眠りを守っている。胸の上に組まれた手には皺が走っていたが二年前と変わらず力強くそこにあった。たったの二年である。一方で、たったの、と言っては価値の失われる二年だった。
「スキピオ殿に後事を託して、逝かれたのです」
 ミキプサは父によく似た強い意志のある目でスキピオの言葉を待った。たとい長すぎる父王の治世に生き、いままさにその跡目を巡って弟たちと憎しみを交わさんとする男であっても、口を閉ざして死者の前にある者にはそれ以上を求められなかったのだろう。ヌミディアとスキピオ家との間には、この王とアフリカヌスとが結んだ縁がある。だからスキピオに全てを委ねて王は死んだ。
 スキピオが伏せていた顔を上げると、二番目の王子であるグルッサがどうしてか目を瞠る。彼とはローマで顔を合わせ言葉を交わしたこともある。しかしこのローマ人と父とが会ったことは一度きりだというのに、どのような感慨があるものか、分かるはずもなく王子たちは虚しい言葉を探すこともなかった。
「王の遺言に従いましょう」
 二年前とよく似た用向きでスキピオはキルタを訪れた。いまや彼が囲むのはヒスパニアの町ではなくカルタゴであり、副官として従う指揮官が一度は無碍に扱ったヌミディア人の援助を再び求めるため遣わされたのだ。つまらない骨肉の争いなど、とスキピオは思う。そのようなものは早くに終わらせてもらわなくてはならない。彼らが醜く争うのではなく、またスキピオに媚を押し付けるのでもなく端然といようと努めていることが幸いだった。
 父の立場を、そしてそれを引き継ぐ自身の立場を、王子たちはよくよく知っているのだろう。王権をそれぞれに分割し、異なった権限を手にするようにとスキピオが言っても異議はなく、彼らの相続した大部分の残りを他の王子たちにという考えもすんなりと受け入れられた。マシニッサという偉大な王により保たれていた統一を自身の手で保ち、より強めようとは、思わないようだった。
「わたしに軍を預けてくださったのはよい考えだと思います」
 強い個性を持ったものの子というのは、その血をいっそう濃く表すものなのだろうかと、笑みを見せるグルッサの顔立ちに思う。
「兄も弟も、あれで気が優しいというわけではないが。この戦争に乗り気ではないのでね」
「あまりそのようなことを言うべきではありませんよ」
「そうでしょうか? わたしは何も、奴らが不相応だと言うのじゃない。向き不向きがあるだろうということです」
 分かたれた王権のうち軍指揮の権限を得たグルッサはスキピオを王宮の外へと連れ出し、いまや彼の兵となった騎兵を丘の上から指し示した。平野で行われている模擬戦を指揮するのももしかするとマシニッサの子であるかもしれない。轡もつけない馬をまるで同じ神経を通わせるもののように操る様子は、見慣れることがない。
 グルッサは父に似た色合いの髪をやはり編みこみ、兄や弟よりもいささか身軽な格好でいる。闊達な振舞い、朗らかな表情を惜しまず、弟のマスタナバルよりも印象の点では若くさえあった。
「援兵をという申し出ならば否はない。わたしを連れて行ってください」
 乾いた土の匂いと、草の青い匂いとがしていた。何も言わないで馬の駆けるのを見ているスキピオにグルッサがすこし首を傾げ、同じように視線を落とす。
「実を言うと」と彼はさしたる秘密を話すのではない声音で、それでも少し声を低める。「このような時を待っていた。戦争を待っていたのではない。あなたという人物がおり、カルタゴと戦う。そこに自分がいる。そういうことを待っていたのです」
「……憧れですね、それは私も同じです」
「あの都市を嫌う気持ちはあまりない、それどころか親しいもののようにも思うがーーそういう男だ、わたしは。あなたはどうです」
「私は……」
 気が落ち込んでいると思われているのかもしれない。本当のところ、そうではない。マシニッサが死んだと聞かされてそういう時期なのだと簡単に胸のうちに片付けることができたし、スキピオにとっては老王と同じように位置する男の死を見送ったばかりだった。カトーは、カルタゴを滅ぼせと言った。マシニッサはあの宝石を砕けとは言うまい。
 途方に暮れるほどに、裡は凪いでいた。燃えるような意気は自分に見つけられなかったし、スキピオはおそらく、待ち受ける気持ちでしかないのだ。この地で夢を見た、波は打つと彼は言った、だからこそだ。
「これは、内緒にしていただきたいのだけれど。アフリカヌスの名がようやっと私のものになると……それが大きい」
 一介の軍団副官でしかなく、あらゆる点で軍を率いるには資格の足りない男の言葉をグルッサは笑わなかった。細められたその目は抜けるように晴れる空と同じに静かだった。これは王なのだとスキピオは思い、紛れも無くこれこそがマシニッサの後嗣だと、その目が示していた。ならば同じように、憧れと重なり合うことができるかといえばーーそれは、不可能事に違いなかった。戦争から神々が姿を消したのと同じようにここには誰も彼もがいない、もういない。ここにあるのは自分であるべきだが、自分でも足りないのだ。
 その後グルッサに尋ねたところによれば、マシニッサにソフォニスバという名の孫娘などいないということだった。

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