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夕映えに出づる

 黒い外套が気ままに、行き先を決めていないのだろう足取りで陣営の中を進んでいく。すれ違う者たちはそれが将軍だと気が付くと気まずそうに居住まいを正した。彼らに吹き付ける冬空からの鋭い風を彼が連れてきたというふうに。
 恐れられているのだ。ルフスは将兵の面持ちの硬いのと将軍の姿とを見比べた。この将軍がヌマンティアに到着してからというもの、女に触れることを奪われ連日連夜の訓練と労働、抜け目ない監督と叱責に追われ、彼らが将軍の振る舞いに過敏になるのは仕方のないことと思えた。
 スキピオ・アエミリアヌスは、ルフスというひとりの若者からすると親しみある庇護者であるが、彼の峻厳に律される将兵からすれば厄介な支配者なのだ。ヒスパニアの一都市でしかないこのヌマンティアにローマが梃子摺り、決着を着けることが叶わず数年、民衆の後押しにより法を退けて選ばれた執政官として、スキピオはまったく兵士に容赦なかった。ーーそれも最も苦しく思えるときを過ぎ、将軍の評価が得られる辛苦を誇らしく思い始めている者もある。
 とはいえ、赴任からしばらくは軍規の粛正に努め、冬営に入る頃にはいくらか兵士たちが見れる姿になったと言っていたスキピオである。機ではないと言ってヌマンティアへの攻撃を控えるのは、兵を信頼のおける姿とは思えないという彼の内心の表れだった。
 随行と言うには離れた距離でルフスは彼の背を追い続けた。ルフスの幕舎を含む副官たちの居所を覗き、スキピオは特に不満もなかったようで行き当たった角を必ず曲がりつつ歩く。ふらりと執政官の幕舎を出た彼は先導させるべきリクトルさえ置いていってしまったので、ルフスだけが彼に従っていた。命じられていないけれど。
 ヌマンティアとは逆方向の門に出たスキピオが歩哨たちを眺め、いくらかしてこれまたふらりと陣営の外へ出ていった。一瞬ではあるがその姿が視界から消え、そんな無防備にとルフスが慌てたのは言うまでもない。
 陣営の背後には野原が広がっている。そちらに出るのかとばかり思って彼はしばらく前方を見渡した。
「ルフス、あれ見えるかい」
「えっ? あれって……象と騎兵ですか」
 素直に答えてから目をまん丸くして振り返った若者に、スキピオは門を背にして気安く頷く。追いかけたつもりで追い抜かしていたのだ。
 少々憮然として歩み寄っても相手の態度が変わるはずもなく、そこには久しくされていなかった子供扱いが含まれている気がした。
「スキピオさま、こんなところでお一人になってはいけません」
「君がいるからいいじゃないか。それにほら、あちらは私たちに気が付いている」
「……あんなに遠いのにですか?」
 彼が示した象とそれに騎乗した者、それに二部隊に分かれて演習を行っていた騎兵たちは、細かな造作の知れない程度の距離の場所にいる。彼らがこちらに気付いているかどうかがまずもってルフスには分からない。
「ヌミディアの人々はとても目がいいんだ。それに、見つけておくべきものを見逃さない」
 スキピオが野原へと進むのにルフスは今度はすぐそばで従う。近づくにつれ、ローマ騎兵とヌミディア騎兵とが混在となっているのが明らかになった。
 ヌミディア人の駆る馬たちは、自由を楽しんでいるかのようだった。その上に乗る人間が彼らの邪魔をしていないのか、あるいは、その人間たちこそが彼らを楽しませているのかもしれなかった。
 鞍どころか馬具のほとんどを着けず、馬首に駆けた縄だけで自在に馬を操る。並走させる馬へ、疾走するさなかに乗り移り、馬上での戦いに地上でのそれと何ら遜色ないものを見せる。ルフスは彼らを見ているのが好きだった。
 ひときわ動きの見事と思えた指揮官が合図をし各部隊の動きを止めると、はっきりとこちらに視線を投じた。
 それがユグルタだと、ルフスにも見分けられる距離になっていた。冬営に入った頃に戦象と騎兵とを伴い派遣されてきた、ヌミディアの王族。
「ーー将軍御自らこのような場所まで、何か火急の件が?」
 音もなく、とどうしてかルフスは思った。ユグルタが愛馬を駆り、下りる、その十秒にもならない場面を流れるようだと。
 生真面目なふうで、しかしどこか不意の来訪を無邪気に喜んでいるかのような笑みを湛え自分の言葉を待つユグルタを、スキピオはおそらく微笑ましく思った。その気配が、同じように見守られることの多いルフスには感じられた。
「ただ散歩をしていたんだ。ちょうど君たちが見えた。邪魔をしたね」
「いいえ。休憩をとらせる頃合いでしたので」
 よく笑う男だのに不思議と柔らかな印象を持たせず、折り目正しい態度はやや鋭く整ったユグルタの風貌を際立たせる。ルフスも、他の副官たちも、将軍がこの人物を殊の外好んでいるのを知っていた。彼の能力ゆえだとルフスが納得するようには納得しない者もいた。縁故ゆえだと言うのだ。
 ヌミディア、特に先王マシニッサがスキピオ家と縁浅からぬ間柄であったので。それにしても彼が目をかけられることがそれほどの問題とはルフスには感じられないのだが。
 じっと見つめられている気配にルフスは象たちから目を離した。ローマ騎兵は銘々武具の点検など行いつつ休息を取っていたが、ヌミディア騎兵の関心はどうやらこちらに向いている。こちら、彼らの指揮官であるユグルタと、その庇護者たるスキピオ、そのついでに直ぐ側に立つルフスに。
 警戒ではあるまい。危なげな目つきではない。ただただ気になってつい目が向くというような……「ルフス殿、私の兵がどうかなさったのか」
「へっ」
 彼からすると突然声をかけられてルフスは声を跳ね上げた。ただ手を振り済ませたいところ、ひたりと切れ長の目で見据えられれば何でもないとだけ言うのはよろしからぬ気がする。
「あの、いえ……気になったのは、彼らではなくて……あの彼の盾が、ですね」
「盾?」
「装飾が……」
 ユグルタとスキピオとがルフスの指差した男を見る。ローマ騎兵のひとりで、彼の持つ盾はおそらく自身で購ったものだろう。磨かれて光を散りばめ、何よりも目を引く装飾が全面に施されていた。ーー特に何を思うでもなしに目に入れていたものだが、思わず言ってしまってからよく見てみれば見事なものだ。
 スキピオがすたすたと近づいていって、一言断ってから盾を覗きこんだ。メドゥーサは盾に施されるものとしてはそう珍しい意匠ではないけれども、いかにも恐ろしげな目をして、それなりの職人によるものと分かる。
「良い盾だ」
 そう呟いて盾の中央をひと撫でしたスキピオが、立ち竦んだ兵士に目を眇めてみせた。
「しかしローマの男には、左手によりも右手に希望を持つほうがふさわしい」
 また、とルフスは思ったけれども、兵士のほうは当惑しきりの様子だった。ルフスは彼に腰にある剣の柄を握って見せてやった。盾は左手が持っている。
「盾が悪いというわけではないのだよ、剣でこそ敵を倒しうると忘れてはならぬと将軍は仰っているのだ。……それに、右手にも左手にも希望があれば、友を守ることさえ叶う。スキピオさまが昔なさったように。そうでしょう?」
「ルフスは優しいね。私はそこまで言ってない」
「仰ったということでいいじゃありませんか、もう」
 ただ臆病者だと暗に責められるだけで奮起できる人間はそう多くない、ということが、スキピオも分かっている。分かっているのにこういう物言いをする。
 盾から興味を失ったのか戦象のほうへ向かっていったスキピオを、象使いたちがどこか呑気に出迎える。休憩は将軍が立ち去るまでとユグルタは言わないが皆察している様子で、常よりも長い休息に息をついていた。
「将軍は美徳を信頼しておいでだ」
 ぽつりと落とされた言葉にルフスが顔を向けると、ユグルタはじっとスキピオを見つめていた。象が長い鼻を伸ばすのをおかしがって笑う横顔に、兵士を支配する者としての厳しさは薄い。
「たとえば勇敢な兵士を、ということですか」
「勇敢と思われる兵士を」
「あなたのような?」
 彼が軍内で勇敢だ、聡明だと評判を取っているのは間違いのない事実だ。ルフスは他意なく質問を重ねたけれども、ユグルタは何か思うところがあってか、口を開かなかった。
「……私は信頼こそが何よりも重く、そして快く、私を繋ぐ鎖であるように思います。誇らしいのです」
 ルフスは成人するときにはスキピオに立ち会ってもらい、彼のもとで長い時間を過ごした。スキピオが名望のない家の若者に置いているのは驚くほど純粋な信頼だと、教えてくれたのはスキピオの親友である賢人である。純粋な、もしかすると無垢な。ルフスはそれが嬉しい。
 続く無言にルフスが見上げるユグルタの横顔には、王族としての資質があるように思える。
「貴殿が愛されるわけだ……」
「え?」
「ルフス殿は真に美徳を備えておられる。そうと思われるというだけでなく」
「…………」
 微笑むかと思ったのにそうしなかったので、瞬く間だけのユグルタの顔はその後にも印象深くルフスに思い出されることになった。ほとんど表情の浮かばぬ顔で、痛みを恐れるような目ばかりが、彼の言葉に生彩を与えていた。


 ルフスには頻りに思い出され、彼に悔いを齎す出来事があった。冬営に入るより少し前、パランティア人の領域でローマ軍の食糧徴発を妨げんとする者共の駆逐を命じられたときのことである。
 スキピオが下した命令は彼らを追い払うことであって、戦闘やその勝利ことではなかった。騎兵を四部隊与えられてルフスは攻撃者を追い、追っているつもりでいて彼らに丘へと導かれた。パランティア人の伏兵の潜む丘であった。
 パランティアは幾度となくローマ軍に包囲されながら容易には降らなかった都市であり、その戦士には侮るべからざる勇敢さがある、とは、スキピオによる評価だ。ルフスはすぐに伏兵に気が付いたけれども、彼らとの戦闘は避けられなかったーー落とさせるべきでない兵士の命が落ちていった。
 攻撃を凌ぐ他為す術もなく、ルフスは確かに恐怖を覚えたのだ。二十そこそこの若者でしかない自分というものが、何故軍にあってそれなりの働きを果たせてきたのか。それはすぐに分かった。兵がそれに気付いて声を上げた時、自分はどれほど情けない顔をしただろう。真紅の外套が見え、将軍の意のままに従う兵が向かってくるのが見えた。
 スキピオはルフスの危難を見出すや否や騎兵を駆り出して丘へと向かい、それ以上の犠牲なく彼らを平野へと連れ出してしまったのだった。彼の姿を認めた途端に、人の上に立つ者としての矜持が崩れようとするのを感じて、それにこそルフスは恥じた。
「柄にもなく慌ててしまった」
 行く手に敵の待ち伏せがあるのを知って遠回りを選んだ後、ようやっと厳しい顔つきを解いてスキピオは言った。
「君を失くすのは何よりも、私にとって痛手だから」
「……申し訳ありません」
「ああ、何度でも謝りなさい。ルフス、私は君を責める必要がないと思うから、それを許すよ」
 何について、どんなふうに謝罪するものか、懸命に言葉にする必要がなかった。
 行軍の最中、スキピオはまず弱った兵に水を与え、残りの兵、それにルフスに行き渡ったのを見てから、自分の騎馬に飲ませようとしていた。地面を掘り返して得たおよそ飲み下すに易いとは言えない水に彼は文句を言わず、嫌がる馬を宥める声ばかりがどこか、悲しかった。
 窮地から脱したとは言え、そこから安全な陣営に戻るまでに、スキピオは自身の馬や駄獣のいくらかを渇きで死なせている。あのとき従っていた騎兵には、ルフスの懐くのと同じ敬慕が少しばかりであれど芽生えたのではないかと、思わないでいられなかった。
 物心ついて暫くしてからルフスはスキピオが自分の人生の上に初めから立っている人間だと知り、当然のように慕った。彼は愛すべき者を見つけるのが好きだったし、その善良で澄んだ心根をこそ、スキピオは愛する。しかし不思議なことに、彼のために、と思うようになったのは、死んだ愛馬の傍に膝をついた姿を見たあの瞬間からだ。
 彼のために。彼に応えるためにーーあるいは喜んでほしいから。それが、ただ健やかにあるばかりでは叶わないと悟ったからこそ。
 この話を、ルフスはユグルタと言葉を交わしたすぐ後にスキピオの兄ファビウスにした。弟に請われレガトゥス、副官として軍団に加わっていたその人物は、面立ちの似た弟よりいっそう柔らかな目つきをして耳を傾けてくれた。
「プブリウスは」そう彼は弟を呼ぶ。「本当に君を気に入っているようだ。いや、気に入っているというだけでなくて、頼りにしている。……君を見ていると、信じがたい醜悪にはその対となるものがあると信じられる気がする」
「それはあまりに、褒め過ぎているのではないでしょうか」
「褒めるのは楽しいからね」
 ファビウスの幕舎で白湯を飲みながら、それは夜のことだった。人伝に頼まれた調べ事の結果を持参したのに、あとは眠るだけだと思ってただの世話話をひどく長引かせた。
「ルフスはラエリウスともよく話すだろう」
「はい。つい甘えて、教えを請うてしまいます」
「それがね、嬉しいものなんだ。年を取ったなとも思うが……」
「ご子息や、グラックス殿、それにユグルタ殿も同じようにファビウスさまやスキピオさまを尊敬申し上げているように思うのですけれど」
「まあ……息子は私や弟がいて当然だからどうかな。距離が近すぎる」
 そう言いながらも財務官として共に従軍している息子を誇りとしない筈もない。従者が継ぎ足した白湯の熱を器越しに掌で包み、メテルス家の四男がスキピオの苛立ちを買って悪態をつかれた話を持ち出してファビウスは少し笑った。
「弟は好き嫌いが激しくて困る」
「そうでしょうか……」
「君、ガイウス・メテルスをどう思う?」
「ええと、……確かに俊敏とは言い難いですが、屈託なく、それに苦を厭わぬ方かと」
「ルフスがそう言うのを聞いて、弟は少しは頭が冷える。それがいいんだよ。ーーそうだろう、プブリウス?」
 手元に目を落としたままファビウスが言うと、背後に気配を感じてルフスは振り返った。言われて気が付くのでは、兵士としても彼の縁者としても力不足ではないか。
 そう思って眉を下げるルフスの顔に、幕舎に入ってきたスキピオはやや意地悪く笑った。いつから聞いていたのかと尋ねても答えないまま、ファビウスの隣に腰を下ろす。
「ガイウス・メテルスはあまり僕に言われたことを気にしていないようだよ」
「そういう問題じゃないことは分かってるんだろうに……ルフスの言うとおり彼には良い将校の面もある、言い方だよ」
「その時にはそれが全くの真実と思われるんだ。まあ、今も。白湯を飲んでるの?」
 従者に渡された杯から立つ湯気の匂いに首を傾げ、酒はお前が怒ると返されてスキピオはまた笑うだけだった。
 彼は、持てる時間を全て費やして職務にあたっているという印象があった。スキピオが兵士に禁じたように自らにも寝台を許さず藁の寝床を用いていること、娯楽の一切を遠ざけていることはおそらく意図的に兵士の間に流布された事実だ。
 卓に肘をついて兄に軽口を叩く、こういうひとときが何より彼の気分を持ち直させる妙薬であるに違いなかった。
「若者の話をしていたようだけど」
「ああ、ルフスは聞き上手で安らぐね、お前がそばに置きたがる訳だ」
「別に四六時中引き止めてないよ。そうだろう、ルフス?」
「はい、私が構っていただきたいときに伺っているんです」
 事あるごとに呼びつけられるとか、雑務を人より多く任されるとか、そういうことは全くないので、嘘ではなかった。それに、話に上がっていた若者たちそれぞれに、スキピオは全く異なる役割を与えているように見える。
「メテルスの話はもういい」
 羽虫を払うような仕草をした弟に、ファビウスは軍団副官のなかでも若いグラックスの名前を出した。
「同じガイウスでもあちらはよく気が付く」
「うん……」
「何か気がかりでも?」
「あの子には隠し事をされていたし、まだある気がする」
 怒りはないが、憂鬱そうに言う。スキピオの義弟はやや血気盛んで激しやすいきらいはあれど聡明で、兵にも好かれていた。彼の言う隠し事とは、ガイウスの実兄、ティベリウスのことを言うのだ。
 ぬるくなりつつある白湯を少し口に含んで、ルフスはほんの短い間だけ何か言うことを避けた。彼らが自分の前でこうした話題を退けないのは、それこそ信頼の表れだけれども。
「騎兵にマリウスというのがいて、あれは気に入ってる」
「マリウスの驢馬、ですか?」
「そう。勤勉だ」
「……彼、メテルス家に連なるんじゃなかったかな」
「それはそれ」
 ただ気に入っただけだと言い、それからふと、スキピオはルフスをまじまじと見つめる。
「ルフスはユグルタが苦手?」
「え、いえ……苦手という訳では……何故ですか?」
「この前、話しているのを見てそうなのかと思って」
 気に入らないと言ったら、それこそユグルタを気に入っているスキピオの不興を呼ぶのだろうか。らしくないことを思ってまごついたが、結局ルフスは素直になるのが楽な性分なのだった。
「計り知れないところがある、と……」
 ユグルタは、接するのに苦のある相手ではない。何を頼んでも嫌な顔をせずに頷き、必ず成果を手に戻ってきた。軍議ではときにスキピオとは異なる意見を持ち出すが、そこに理があると認めればスキピオは彼の意見を容れる。
 だから、信ずるに足りるはずだ。ルフスの信じる人々がユグルタを評価している、それが力ある根拠となった。けれど、直接話し、彼の顔を見ていると、分からない。
「あの方は何か、無理をなさっているような気がして」
 能力に釣り合わない仕事を何とかこなしているとか、ローマ軍の中にいることを苦としているとか、そういうことではない。ユグルタには彼の責務に応える能力がある。
「君がよく言う本当の笑顔とそうでない笑顔とに関わるのかな」
 スキピオに言われ、ルフスは目を見開いた。そうだ、という気がした。それから、スキピオがそんな言い方をすることに羞じらいを覚える。
「よく言っていましたか、そんなこと」
「誰某は心のこもった笑い方をするとか、しないとか、言うじゃないか? ああ確かに、と私は納得するのだけど。ユグルタは、そうだね……」
「明らかに、私やルフス、他の者に対するのと、お前に対するのでは顔が違うが」
 そうおかしなことでもない、とファビウスは彼らの関係性を思い返してか言った。
「そう。ユグルタは私とふたりになるととてもかわいく笑うんだよ。まるで子供が、父親の友人にするようにね」
「……それは、その通りでは?」
「ああ、そういえばそうだ」
 ユグルタの父は既に亡いが、スキピオと面識がある。それぞれの祖父の代からの友誼が、ユグルタに他と違う表情を与えているのだろうか。
 彼が幼子であった頃、カルタゴとの戦争が始まろうとしていた当時、ユグルタが言うにはスキピオは彼と会っているのだそうだ。スキピオにはその憶えがない。当時の王マシニッサには子と孫とが数多くあり、そのうち一人だけを覚えていられないのは無理もないが、悪いことをした気がするのだとスキピオは零した。
「憶えていないと言ったとき、彼が綻びたように思った。張り詰めた糸に、不用意に手をかけてしまった気がした……」


 長い髪はそれだけで目を引く。それが惰性で伸ばされたのではなくよく手入れされ、艷やかであるともなれば否応なしに。
 日が差しはらはらと風に舞うと濃く淡く色味が変わって見え、最初に見た際には単に茶髪だと思ったのをルフスはとうに忘れていた。ルフスという家名が赤毛を意味するのに反して黒いだけの髪と比べれば、表情に富んでいる。
「髪留めが壊れてしまったのですか」
 話しかけるのにやや時間がかかったが、ユグルタは注がれていた視線に気分を害された様子もなく、頷く。ヌマンティア近郊の略奪から戻った彼の髪は、常にはしっかりと編まれているものが好き好きにその背中を泳いでいた。
 ユグルタはヌミディア兵の幕舎ではなく、ローマ陣営にほど近い小川にいた。供もなく、水浴びをするでもなく、ただ足を水に浸して。探すのに苦労しなかったのは、ルフスがユグルタの居場所を尋ねたヌミディア兵が迷わずこの場所を挙げてくれたためだ。
 強く癖が残って波打つ髪を撫で梳き、ユグルタは顔を上げた。
「軍議だろうか」
「はい、陣を動かした後について……大丈夫ですか?」
「何が?」
「……すみません、つい」
 心配すべきところがあるような気がして、とは、言わなかった。言えなかったというのが正確なところだ。
 川辺りに座り込んだユグルタは数呼吸の間だけ口を噤んだ。立ち上がる拍子に裾が濡れるのも構わず、傍らに丸めてあった外套を拾う。そうして目を合わせてくる青年に明らかにそれを促されているのに、ルフスはその場を動かなかった。
「美しい紅玉髄だったのに、残念ですね」
 透かし彫りの施された金の筒に大ぶりの宝石がひとつ、それが編んだ髪をひとつに纏めていた。ルフスは自分がそうも細やかにその細工を思い出せることに驚きながら、心からそう言った。
「ローマにはありふれたものでは?」
「そうかもしれませんが、あなたによく似合っていたので。それが残念な気がします」
「……あれは、祖父がエジプトの王に贈られたものだった」
 ヌミディアとエジプトとの繋がりは聞き知るところであったので、ルフスはなるほどと返した。
 それ以上の返答がないのを確かめる間を取ってから、ユグルタがルフスの横を通り過ぎる。それを追って歩き出したローマ人を振り返った目に過る面倒そうな色に、若者らしい短気さが見えたような気がした。
 裸足で草を折り、土を踏み、颯爽と歩く。ユグルタを見下ろしたのも、その背が伸びていないのを見たのも、甘い判断で作られた顔を向けられたのも、つい先程が初めてだった。そしてきっと最後だろう。
 彼はルフスがやや見上げねばならない長身で、均衡の取れた体つきをしていた。戦士として過不足なく、王族として求められるに足り、鋭く縁取られた瞳は才智を満たすかのように輝く。その意志を漲らせた背までも力強く、彼の示す情緒はみな如何様にあれど鮮やかな貌を見せる。
 人の望みを負う人間の顔で、笑う。その一方、ユグルタがスキピオに向けてばかりの軽やかな笑顔は、スキピオが言うには子供のようでーーきっと、何かを望んでいる。
 何を望んでいるんだろう。


 そんなのは分かりきっているんじゃないのか、と棘があるようにも聞こえる溌溂とした声は言った。
「ユグルタは本来は王位を継ぐ立場じゃない。亡くなったマスタナバル王の庶子で、マシニッサ王は遺言でユグルタを臣民としたと言う」
 ガイウス・グラックスは常に信じられないほど滑らかに喋る青年だったが、機嫌がいいのかいつもよりも声が大きかった。そう指摘すると一度ぴたりと口を結び、人好きのする笑みを浮かべる。
 同じ軍団副官として、年は近いが自分よりも年少のこの青年をルフスはたまに気にかけていた。傷を作っているのを見たときがそうで、いまも前腕の擦り傷を放っておこうとするのを捕まえて、布を巻いてやっているところだった。幕舎に入った時には数人いた同僚がいつの間にかいなくなり、二人きりになっている。
「その生まれにも関わらず兵士たちのユグルタへの支持が熱狂的で、ミキプサ王も放っておく訳にはいかなくなってる」
「詳しいんですね」
「調べたのはこっちに来てからだよ、見てて興味が湧いたから。でも、どうだろうな。ユグルタが王位を継ぐとなると、難しいことがたくさんある……」
 ミキプサが武断の王とは言い難い性質であるというのは、スキピオの話から察することができる。スキピオはマシニッサの、あるいは共にカルタゴとの戦争を戦ったグルッサの話を好んでするが、グルッサの兄弟であるミキプサとマスタナバルにはあまり触れなかった。そもそも話すことがないと言って。
 手当を終えてもルフスがその場を動かないのを見て、ガイウスは首を傾げ相手を覗き込んだ。
「あの王子、俺のことはあまり好きじゃないようだ」
「グラックス殿に嫌われる所以はないように思います」
「ルフスも好かれていないぜ」
「えっ」
 実のところ、それが興味を持ったきっかけなのだと。ガイウスは面食らっているルフスに少し呆れたようだった。
「やけに親しげな将校が何人かいるじゃないか。あれに比べると」
「そうなのですか……私の何が至らないのかな……」
「いや、そうじゃなくてさ!」
「そうじゃなくて?」
 ぐっと眉を寄せられてルフスはいつも人を懐柔するのに使う笑い方をした。情けないとか哀れっぽいとか言われるが、教えを請うにはもってこいだと幼い頃に学んだままに。
 ガイウスの目に映るものは、ルフスの目に映るのと同じようでいて、違う。彼は穿った見方をすることもあればひどく素直に物事を呑み込むこともあった。その両極端の狭間を行き来できるのはひとつの彼の美点であろうと思う。若いからこそ様々な色に染まり、それに耽溺することがない。
 ならばこそあなたがどう見るかを知りたいのだ。そうルフスが語るのを、若者は真摯な目で聞いた。
「ほんと恥ずかしげもなく人を褒めるよな」
「……褒めるのは、楽しいですからね」
「でもさ、仲良くなろうと思ったら悪口を言わなきゃ。知ってるか? 義兄上の悪口を言うときものすごく楽しそうな奴らがいるの」
「存じません」
「ルフスはそういう話、させてくれないんだろうって感じがするし、俺は大声で嫌って言うから、入れてもらえてない。マクシムスなんかちょうどいい塩梅で、自分はそんなに喋らないのに噂話を集めてくるんだ」
 要領がいいのはルフスよりもマクシムスの方だろうとガイウスは言いつつ、どちらを貶すでもなかった。同僚の副官たち、百人隊長たち、あるいは従者や、兵士たち。彼らがスキピオをいかに語るのもルフスにはあまり重大事ではないのに、脳裏に描く談話の光景には言われずともひとりの男が混ざっている。
 彼はきっと気のいい笑顔で、相手を気分良く話させ、それに同調して様々なことを言うだろう。軍内の空気を知るためというではなく、まさしくそれによって、親しくなるために。
「ユグルタは何かをずっと探してる」
 ルフスが巻いた包帯を撫で、ガイウスが目を伏せると、彼の兄の面影がいっそう濃くなるようだった。物憂げな、宝石のような好ましい繊細さを秘めている。それが目立つということは不安がっているのかもしれなかった。
「緒を求めているように見える。何を、いや、何のためにかは、簡単な答えがある。きっと俺の考えは間違ってないよ、ユグルタは王になりたいんだ。あの国の人間としては正しく、ローマ人の許しを引っ提げて」
「それそのものは、間違いではありませんよね」
「うん。何にしろ聡明で、勇敢なのは本当だから。役に立つ男だって認めない奴は軍団にいないだろう」
 ローマにとってすれば、まさしくいまユグルタがしているように助けとなる王こそが好ましい。ヌミディアの戦士がユグルタを愛し、ユグルタがローマの戦争に貢献するならば、拒む謂れはなかった。
 けれどそのように思うごとに、髪留めについて尋ねたときの、無防備なばかりの佇まいを思い出す。ガイウスに対しいかに語ろうと彼に伝えきることはできまいという印象、有能でもしかすると狡猾なあの男が、ただの人間に見える瞬間。
 そう、スキピオが手をかけた糸を、ルフスも感じたのだ。
「スキピオさまが悲しむようなことになるのは、私も嫌です」
 美しいものを愛するのだと言う。それは装いの美しさ、振る舞いの見事さを、言葉を交わさずして愛するのに似ている。正しいものを愛する人を、疑いを知らぬ愚か者と思うことがルフスにはできない。正しくあるのがいちばんよかった。スキピオの信じるものが彼を裏切らぬことを、ルフスは願わずにいられないのだ。
 ガイウスはどうしてか傷ついたような、傷つけたような顔をして、自分もそう思うと答えた。

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