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城に棲む人

 一歩踏み出すごとに、足下でべちゃりと重たい音がする。靴は濡れそぼって泥まみれになっていたし、外套一枚ではこの降りしきる雨を凌ぐことは到底できそうになかった。スキピオはうんざりするほど濁っているであろう空を確かめようとして、見えっこないことを思い出して止める。木々がその枝をめいいっぱいに伸ばすせいで、晴れているうちから既に森は暗かった。もう夕刻も過ぎ夜になろうとしているはずだが、空気が冷えるのを感じるばかりで、闇の忍び寄るのは分からない。
 肩に担いだ弓矢が水を吸って重くなっているような気がした。それはただ足取りが重くなったということかもしれない。早くに降りた愛馬の無事を考える余裕こそあれ、結局、迷っていることを認めないわけにいかなかった。
 奥深く分け入っているのかも、抜けだそうとしているのかも判然とせず、寒気を逃がすために漫然と足を動かしているだけだ。すっかり色を変えた布地が足にへばりつくのも鬱陶しければ、ごろごろと遠くで唸る雷も不穏で、よくよく天候に気をつけなくてはいけなかった、と思う。今更であろう。
 歩き始めていくらほどか、それも太陽の動き、影の動きが分からないので、そう長くはあるまいというだけだった。同じ風景の中を延々と歩いている気もしたがそれは無視して、野宿するにしてもよい場所がないことに落胆している。スキピオの手には獲物である雉が一羽、提げられていたが、それを持っていることさえ忘れてしまいそうだった。
 ばたばた、ばたばたと。音が変わったと気付いた。葉を叩き弾かれる水の音ではない。硬質なーー瓦か、何かにぶつかる雨粒の悲鳴。
 足は早まらない。気のせいである可能性もあった。こうもうんざりする状況であれば幻を見ないとも限らない。だが何となしにこちらだろうかと思われるほうへ、真っ直ぐ前へと足を運ぶ。ばたばたばた。ぽつぽつぽつ。確かに違う音が混じり合っている。自分に打ち付ける雫は最初布に吸われていったが、もう吸う余裕のない外套はぼたぼたと自分が垂らす水のほうを大きく響かせていた。何か建物があるらしい。まさか家ではあるまい。では、何だろう。
 重い足が不意に止まった。スキピオは目を瞬き、それに殆ど意味がなかったので空いている右手で顔を拭う。
 灯りである。それも、ひとつふたつではない。その建物はーーやはり家だろうか? それにしては背が高く、しかしインスラとも思えない。二階の窓辺に吊るされたランプがやけに白々と周囲を照らし、開かれた門の奥、玄関だろう場所のランプは、なぜだか中の様子を明かさなかった。城のようだと思う。少年の頃に見たことがある王宮に比べればずっとこじんまりとして、王の住まう場所としては相応しくないが。門はあるが、それに並んで均等に木が植えられるだけで、壁はなかった。視界がぐっと暗くなったのと、スキピオが萎えた足を叱咤したのは同時だっただろうか。寒さを思い出したので、歩かないでいられなかった。門を一歩入る、建物を囲んで庭があると知れる。
「ーー誰かおられますか」
 もっと大きく響くはずだった声は弱々しい。それにしても、門番だとか、御用聞きの奴隷などが気付いても良さそうなものだ。スキピオは見えるかぎりを見渡して、もう一度声をかけた。玄関に入ってしまってもいいが、この風体ではそれも躊躇われる。灯りがあって、誰もいないなどということがあるのかと、頭上に掲げられたランプを見上げる。羽虫がいくつかその周りを遊んでいて、自分も似たようなものだなと、少し疲れを覚えた。
「誰か、おられませんでしょうか。屋根をお借りしたいのですが」
 もう借りているが。城の中は殆ど何も聞こえない。玄関は広いがその中央に水槽はなかった。戸棚もないーー何もない。がらんどうの広々とした空間にだけ木霊して壁に吸い込まれていったスキピオの声を誰も拾わないなら、出て行けと言われない限りここで勝手に屋根を借りていようか。
 頭にかけていた外套を脱ぎ、その重さに、留め具を外した。雉を持ったままでは強く絞れない。既にスキピオの足下には小さくはない水たまりができていた。前髪を伝い落ちる雫に何度も何度も瞬きをし、彼は自分のやってきた森を振り返ろうと、また倦んだ足を引いた。
「雨に降られましたか」
 肩が跳ね上がった。振り返りざま手をずり落ちた外套が哀れな音を立てて床にぶつかり、水たまりを弾けさせる。
 玄関の奥、暗いが、おそらく廊下への入り口のあたりに男が立っている。黒い、と思った。闇の中では漆黒に近い。髪の色と目と、それに服が総じて塗り込めたように暗いので、男の輪郭はひどく曖昧だった。
「ーーそ、そうです。この雨が止むまでの間だけ、屋根を貸していただけないかと。ご迷惑でなければ……」
「迷惑など。屋根ならばいくらでもお貸しします」
「この城のご主人でしょうか」
「ええ。他に住まうものはおりませんから」
 それは、不思議なことだ。多くの使用人を抱えていなければとても維持できない広い城だのに。それに男は壮年、あるいはもっと若く、またあるいはもっと老いて見えたが、いずれにせよ妻がいないというのは、物好きな話である。
 スキピオが生返事をしている間に、男はするすると歩み寄っていた。そうするとぬるりと輪郭が現れるのだが、黒いという印象には変わりがない。彼は軽く屈んでスキピオの外套を拾い上げたかと思うと、不躾かと思われるほどにまっすぐに、不意の来訪者の目を覗きこむ。背の高い男であった。スキピオとて矮躯ではないが、見上げなくてはならない。
「ですが、この雨は当分止みませんでしょう」
「そう……でしょうか」
「わたしの見立てでは、朝まで降ります。もう夏が過ぎてしまった、夜は冷える。そのような格好では風邪をひかれます」
 男の意図するところを察して、スキピオは慌てて首を振った。
「ここにいるのを許していただけるだけで十分です」
「夜の明けるまでここに? 滅多にない客人をこんな場所に放り出していたのでは、わたしが落ち着きません。せめて火に当たれる場所にいらっしゃい、寒いでしょう」
 きっと青ざめた顔をしていたのだろう。スキピオはこれ以上拒んだのでは無礼であろうと思い、大人しく頷いた。男が濡れた外套を絞るでもなく抱えて歩いて行ってしまうので、裾を軽く絞った後、スキピオもそれに続く。廊下に出て、ひとつふたつと角を曲がった男の背中は、目を凝らしていなければ掻き消えてしまいそうだった。もう夜がきたのだ。時折吊るされているランプの灯りを、全てこの男が用意したのだろうか。
 通されたのは客間だろうと思われた。もしかすると招いた客人を晩餐の用意のできるまで待たせておく、そのためだけの部屋かもしれない。いくつものランプのおかげで驚くほど明るく、壁に描かれた女神の裸体も、足下の細やかなモザイクも鮮明だった。
「座っていてください」
 男が素っ気なく言い更に奥の部屋へと消えていったので、スキピオは所在なく、いくつか並べられた長椅子を見る。濡鼠が腰掛けるにはあまりに気の引けるものだし、そういえばここまで何も考えず歩いてきてしまったが、濡れた床を誰が拭くのだ。せめて動かないでいようと思って突っ立っていると、雨音が大きく聞こえた。この部屋には窓がなかった、昼間にもランプを灯しておくのかもしれない。
 火鉢を持って戻ってきた男は立ち尽くしているスキピオに特に何も言わなかった。無言で手渡された大きな布は柔らかく、火鉢にはみっしりと彫り模様がある。礼を言い、手脚や髪を拭いてから、火鉢に手をかざす。指先から熱が伝って痺れるような感じがあり、相当に凍えていたのだと気付かされた。男は椅子に腰掛け、じっとスキピオを見ていたが、それを重荷には感じなかった。なんとなくいつまでも腰をかがめているのは落ち着かず、布を畳んで敷いてからスキピオも椅子に落ち着く。
「見事なものですね」
 何について言ったか、男は勝手に判断したようで、足下のモザイクに目を落とした。蛸や、魚、イルカがいまにも泳ぎだしそうに目を輝かせている。
「雨が止むまで、厄介になってもよろしいのでしょうか」
「ええ、いつまででも」
「いつまでもという、わけには……」
「お急ぎですか」
「そうではありませんが」
「ならゆっくりなさればいい。急くことはありません」
 そうだろうか。そうかもしれない。急ぐ理由はなかったから、スキピオは返事を濁した。そしてふと、床に置いた雉に目が留まる。
「礼と言ってはなんですが、雉はお好きですか」
「ええ。狩りをなさっていた?」
「この森はよい猟場だと聞いたものですから。朝のうちはよかったのですがーー犬が」
 はたと気が付く。自分がどうしてこんな暗い森に入り込んでしまったのか。猟犬ですねと男が言い、大丈夫でしょうと続ける。飼われているとはいえ獣だ、人間よりはよほど生きる術というものを知っている。
 ランプの火がゆらめく。男の影は濃く、スキピオはどうしても、彼の顔の造作を覚えられそうになかった。夜通し降り続く雨はますます勢いを強める。火にあたっているのに少し寒いと思い、首もとを擦る。ふと影が落ちて、顔を上げかけたスキピオのこめかみのあたりを、男の指先が触れた。そうして手のひらが額に当たり、離れていく。
「もうお休みになられたほうがいいでしょうね」
 そのとき男は微笑ったかもしれなかった。
「部屋は余っています。この城は辺鄙な場所にあるでしょう、わたしの他には誰もいない。あなたを待っていたのです。無理をして出ていくことはありません、雨が止んだとしても森は森、獣の場を人が歩くのは、境を超えることですから」
「ここは城なのですか」
「あなたがそうおっしゃったのじゃありませんか」
 おやすみなさいと男が囁いた。その言葉の解けるより前、落とされていた目蓋の裏は真っ暗闇で、開く方法がない。
 人の手を離れた犬が、森のどこかで遠吠えをしている。

 ひどく柔らかな寝台だった。目覚めたスキピオが身体を起こそうとついた手が深く沈んだほどで、男ひとりでも有り余る広さから抜け出すのには苦労が要った。
 どのようにしてここまで来て、そのうえ寝入ってしまったのだか。枕元に水の張られた盥があり、お誂え向きに布も添えられていたので顔を洗う。部屋にはおよそ、一日を過ごすには必要なあらゆる物があるようだった。窓は木枠が嵌められていて外を窺えなかったが、廊下に出てみれば日が昇っていると分かった。とは言え薄暗く、雨が降り続いている。広くとられた中庭を取り囲む柱廊、二階の欄干、その奥に見える扉、中庭に植えられた背の低い裸の木、ひとつひとつ確かめて、主人の姿を探す。あの男の部屋はきっと一階にあるだろうが、奴隷がひとりもいないというなら、どこでも構わないのだろうか。
 ひたりと床に触れる肌を冷たく思い、裸足であると分かったが、靴がないのでしようがなかった。帯を締めていないので短衣がふわふわと落ち着かない、少し風が出ている。
 男はすぐに見つかった。彼は中庭に向けて大きく開かれた、きっと宴会などをする広間にいて、だがそこはとても酒宴に興じようという気を、どのようなうわばみにも起こさせないだろうという有り様だった。
 本が積まれているのである。それも壁に這い上がるように高く、ところどころ崩れて床を覆い、男の身を横たえる長椅子の周囲や彼が通るための細い道ばかりはっきりと浮き出ていたが、恐ろしい数の本だった。スキピオは挨拶も忘れて広間に近づきつつもそれに見入り、彼がぴたと立ち止まると、男が顔を上げた。
「よくお休みになれましたか」
「はい……おかげさまで……」
「よかった。熱が酷くなってはいけないと思いましてね、大事ないなら何よりだ」
「熱? いえ、それより……これ、この本は何です? あなたの蔵書ですか」
 男は頷き、朝餉はどうかと尋ねた。まだ朝と言える時間帯であるらしいことに正直なところ安堵したが、スキピオは自分の目がまるで菓子の山を前にした幼子よりもぐるぐると泳いでいるのを自覚していた。すべて本であるーー夢の様だ。
「この部屋にあるのはわたしがよく開くものです。毎度直せばいいのですがね、どうも億劫でしょう。これはティマイオス……続きはどこだか、まあ、読みたくなったときに見つかります。スキピオ、あなたは本がお好きでしょう?」
「書物の嫌いな人間なんて……」
 男はふたりほどが楽にできる大きさの長椅子に読みかけの書物を置き、スキピオにここで待っているように言う。たっぷりとした布地を持て余すことなく動く男は、漆黒ではなかったのだと明るい場所なので分かった。その衣服は黒ではなく錆色に近く、赤いのだ。それにその下には白い長衣が見え隠れしていたし、男にしては長い髪もやや茶色がかっていた。漆黒ではないから、夜闇によく溶けたということだった。
 許しを求めていないので手を触れず、スキピオは少しの揺れで崩れ落ちてしまいそうな本の山に近づく。札が付けられていてそれが誰の著作で、何であるか、ひと目で分かるようになっている。読んだことのあるものの他に、どうしても手に入れられなかったもの、友人から借りる約束をしたもののいつまでもそれが叶えられないでいるものを見つけ、中には識らぬ著者の名もあった。これを男はみな、一度ならず何度も読み通しているらしい。羨ましいことだ。それが叶うなら何でも、金銭でも剣でも馬でも、時間の他は何もかも投げ打っていいと心底念じていた幼い時分を思い出させる。
 一体どれほどの時間があれば足りるだろう。
「興味の湧くものがありましたか」
 この男は前触れ無くすぐ近くにやってくるのだな、と別なことに関心を惹かれているせいでいやに冷静に考えられた。スキピオは素直にたくさんあったと答え、しかし男が盆を両手でかかげているのを見つけて飛び上がる。
「……朝餉を」
「も、申し訳ありません、ご主人にこんなことを」
「誰もいないのだから、わたしがいたします。客人に給仕をさせる趣味はありません。とは言え大したものはひとつもありませんが、ああ、どうぞそこに座って、楽になさって」
 まるきり追い払われるように言われて腰掛ければ、男も同じ椅子に座って、間に盆を置いた。豆のスープと、焼き菓子がいくつかのせられている。ふたり分あるところを見ると、もしかしてこの主人は夜通し本を読んだのかもしれない。目を悪くしないよういくつもランプを灯す余裕があるようだから。
「雨が止みませんね」
 打たれて痛いというほどではもうないが、外套で凌ぐには強い。
「急がれることはありませんよ」
「ええ……はい、あなたさえよければ……」
「本を読みたいでしょう?」
 嘘はつけない。スキピオは気にかかっていたことを尋ねた。ここにあるのがこの主人の気に入りのものだというなら、それ以外があるはずである。書庫や、書斎に。男は豆を噛みながら、ぐるりと目を回す真似をした。
「二階の部屋にあります」
「書斎が、二階に?」
「いえそうではなくて。二階の部屋はみなこの有り様なのですよ」
「…………」
「書斎は一階に。そこでは本を読みません、書き物のための部屋にしてあるものですから。二階に行っても構いませんよ」
「どんなふうにすれば、これだけの書物が集まるのでしょう。僕も兄や友人の伝手を頼って、ときには商人と話して、いろいろと求めるのです。少年の頃に父に頂いたものを合わせれば大抵のひとよりも多く持っていると思います、でも、これほどでは……」
「時間があれば、いくらでも集まってくるものです」
 明るい場所で見ても、男の齢は読めない。すっきりとした目元をしているのだが、じっと見つめていると老人の目のように思え、低くはあるが聞き取りやすい声を発する口元に皺は見当たらない。指先は見たところ筆の持ち方の癖からついた歪みの他、損なわれたところがない。
 この男にどれほどの時間があったものか。匙の止まったスキピオの手元に目を留めて、男は首を傾ぐ。
「お口に合いませんでしたか」
「あ、いえ、そんな。驚いてしまっただけです、……これもあなたがお作りになったのですね」
「誰もおりませんから」
 美味しいと思う。厨房でせかせかと働く奴隷の手によるものばかり口にするが、この男が作ったのだと思うと、それと比べてはいけない気がした。
 甘い焼き菓子には胡桃が練りこまれていて、また、幼いときを思い出す。砂糖を使った菓子などそうたびたび口にできるものではなく、いつも果物が甘味だった。それにしても質の良い果実を与えられてきたのだが。それぞれが食べ終わった頃合い、手を差し出すよう言われ、手拭いに指先を撫でられる。すこし湿った布によって綺麗になった指先でならば書物にも触れられよう。
 片付けくらいは手伝いたい気持ちがあったが、言い出す隙を与えずに男が立ち上がってしまう。去り際振り返って、読みたいものがあれば取りなさいと彼は目を細めた。

 言われた通り、二階の部屋はどこを覗いても本で埋め尽くされていた。一応の書棚はあるのだが、そこに並べられているのと同じだけの量の書物が机や椅子のみならず床にまで広がっている。だが不思議なのは、そんなふうに乱雑に置かれているにも関わらず、大きな傷のついたパピルスがないことだった。開いても軋むことはなかったし、文字は色鮮やかで、まるで写されてひと月も経っていないかのようである。
 ひとつひとつ札を見ていったのでは際限がないことを早々に悟り、スキピオは階段から一番遠い、回廊を曲がって進んだ先の部屋に入った。奥から見ていこうというつもりで、入れば、ランプが灯っている。不用心だ、と本を心配して思うが、その懸念はすぐに頭から消えた。手にとってみた書物が、まさにスキピオが馴染みの商人に注文して届くのをいまかいまかと待ち構えていたそれであったからだ。待っていればいつか読めるのだが、はるばる東方から取り寄せるとあっては数ヶ月かかるのがふつうで、彼はすぐに椅子を座れる状態にする暇も惜しんで最初は立ったまま、途中で床に座り込んで文字を追った。
 彼は本当に本が好きだった。子供のころ、文字をすっかり覚える前には読み聞かせをねだったこともあったし、覚えてしまったなら夜遅くまでかじりついていた。それでも目が弱っていないのは僥倖であるが、書痴であるがゆえに視界の歪んだ知人は多い。
 男は雨は朝には上がるだろうと言ったが降り続いており、しかし、男の見立てがほんの少しずれただけなら、じきに雨は弱まって、晴れ間がさすだろう。それを待っているのだが、待っているはずなのだが、スキピオは焦りさえ覚えて時折窓を見遣った。その焦りがなければ時間も、まばたきのひとつも忘れるところである。
「長いこと籠っておいででしたね。何を読まれたのです」
 夕餉をとスキピオを誘った男の手は、いくらかインクで汚れている。
「ディオゲネスを……」
「セレウケイアの? ああ、ならその部屋は哲学の本が多いでしょうね。これでも分類はしてあるのです、わたしの目方によるものでしかありませんが」
「様々なものをお読みになられるのですね」
「たったひとつきりで何ものとも関わりなく認められる存在など、ありませんでしょう」
 ふたりは横臥するでもなく、朝そうしたように腰掛けて食事をしていた。横臥してテーブルに皿を並べるには、場所がないし、テーブルがどこにあるのだか忘れたと男は言った。ひとりであるなら書物に目を落としながらだらだらと食べるのだろうと想像し、羨ましさを覚える。だらしなく過ごしたことは一度もなかった、生まれてから一度も。
 甘辛いソースの絡められたのが雉の肉だと特にどちらが言い出すこともなかったが、時折の沈黙は言葉を急かさない。珍味と言うようなものはなく、これは宴ではない。ただの夕餉、日常のなかで繰り返される食事のひとつであることが、ひどく心安く、冷えた水の味が濃く思えた。
「夜はお眠りなさい、本を寝台に持ち込んでも、叱りはしませんが」
「……雨が」
「わたしの予測も外れることはあるようです」
「そういえば、この部屋の本は濡れないのですか? 風の強い雨の日などに」
 二階は大きく開かれた部屋はなかったし、窓は閉じられるようになっていた。男の足下に転がった本にはいまにも雨粒が届きそうに見えるのだが、それらしい染みはひとつもなかった。
「時間がありません、ですから変わりないのです」
 ばん。ーー何かが思い切り叩きつけられる音。ばすばすとそれがまるで跳ねまわるようにどこからから、真っ逆さまに落ちる音がした。だがスキピオはその音のしたらしい方向に顔を向けず、俯いた男を見つめていた。食べる順番を生真面目に決めることもなく主人が食事を進めるので、スキピオも気の向くものから口にしている。
 いま男の口にしているのは、何だろう。手に取るところも食べるところも見ていなかったから分からない。メインの雉肉ではあるまい、それならば、ばりばりと、こんな硬い音がするはずもない。
「時間はあるのでは……」
 不安に思って、尋ねた。まだ書物は二冊を読み、三冊目に入ったに過ぎない。母国語ではなかったがすっかり身についた言葉であるので、きつい方言が混じらなければ読み進めるのに苦はなかった。
「ええ、あなたには。ですがこの城にはありません。なので、あなたにはいくらでも時間があります、時間がないので、この本たちが濡れることも虫に食われることもないのです。燃えることも。……林檎を召し上がっては?」
 すっかり手の止まってしまったスキピオにもう食欲が失せているのを、どうしてか目聡く男は見て取って、つやつやとした林檎を一瞥する。それで食事を終いにしても構わない、と優しく諭されたような気分だった。林檎はやや酸味が強かったけれども、虫が食っていたりはしなかった。

 城は静かである。風の吹きつける音や絶え間ない雨音こそ静寂を遠ざけていたが、自分の屋敷ならば常に感じられる人間の動く気配というものがない。誰もいないのだから。それなのに床に土埃の溜まるということも、油の切れたランプが沈黙しているということもないのだ。ランプはみな細い鎖で吊るされており、吊具は壁にがっちりと固定されている。つま先立ちになって手を伸ばしてもランプはともかく、その留め具には手が届かなかった。
 灯りを手に持つ必要がないのだ、動かすこともない。スキピオはよっつめの部屋に入っていた。彼がこうして本に溺れている間、あの男は書斎にいるか、広間で静かに過ごしている。声をかけると快く話に付き合ってくれるし、見知らぬ言葉に出くわした時には丁寧に教えてくれもした。
 この部屋も哲学者の著作が多いようで、しかし中にはただの日記のような、手記というにもあまりに赤裸々な内容に出くわすことがあった。それも面白い。書簡の集められた部屋もきっとあるだろう。
 雨が降り止まず何日になるか、こうしていると忘れてしまいそうにもなる。何度眠ったか、何度男と食事をともにしたか。男が言うとおりに、スキピオは眠ることを怠りはしなかった。非常識なほど遅い時間まで起きていることもなく、まだ日の昇らない時刻に寝台から抜け出している。盥にはいつも冷たい水が張られていた。読み終えた書物を置き、次のものに手を伸ばす。入った時よりも整然とした部屋を残して出て行きたいと思い、一応の分類のもと本を並べているが、書棚に入りきらないので限界がある。
 没頭するようになると、文字を追うのがうまくなる。一日に何冊も読んでしまって、冊数は少しずつ増え、夕餉を機ととらえ感想など述べてみると、男は同じものを読んだとはっきり分かる受け答えをした。彼と話すのは楽しかった、スキピオの識らぬことが多く詰まっている彼の頭から、言葉だけでなくて、あの眼差しまでも湧き出づるのだと思われるほど。
 それだけに、窓の外が真っ暗になる過程を見守ることも減っている。知らぬ間にランプの灯りのほか頼るものがなくなった部屋を見回し、読みかけの書物をそっと、机の上、正確には机に積まれた書物の上にそれを崩さないように置いた。そして一階に降りてみるとあの長椅子に夕餉を置いた男が振り返る、それを、繰り返している。
「狩りをなさっているのですか」
 肉だけでなく魚まで並ぶことがあるのを不思議に思い続けて尋ねそこねていた。
「狩りは好きですが、この雨ですからね。あるものを使っているのです」
「あるもの、ですか」
「ええ。食べたことのないようなものは、お出ししておりませんでしょう?」
 そう言って薄めた葡萄酒の杯を傾ける男は、はじめから分かっていたことだが同国人ではない。彼は流暢によりスキピオに馴染んだ言葉を話したがその教養は東方に深く根付いていたし、発音に癖があった。
 まさか食事の内容まで気を遣わせているのか。何から何まで、スキピオはただ好きに過ごしているだけである。けれどもそういうことを言うと彼は窘める物言いで二の句を継げなくしてしまう。
 スキピオは最初の日に眠っていた客間をずっと使っていた。夕餉を終えてから少しの間は男と話をしたり、本の続きを追ったりするのだが、度が過ぎるということは絶対にない。身体の沈む寝台、見上げる天井には石や宝石が埋め込まれているのか、かすかな光を弾いて星図を作っている。その星図は動くことがなく、冬のものだろう星々の並びは乱れない。
 眠りはいつも深く、それだのに一瞬の間に流れていくわけではなかった。ぬるい泥に抱かれるような心地のなかで自分が眠っているのを感じることができ、その日読んだ書物の言葉が泥のなかで泳いでいる。物語を持たない夢のなかでも本を読んでいるのだ。その話をすると、男は薄く笑って、それではほんとうに溺れているようなものだと言った。
「雨が上がりましたね」
 部屋を出たスキピオにすぐに声がかかったのは、彼の言うとおり、雨の上がった朝のことだった。
 長いこと、自分は呆けていたらしい。中庭を見ると濡れた草が陽光を受けてきらきらと眩しく輝き、洗われ続けた瓦も欄干も、さっぱりとした姿でそこにあった。雨が上がっている。それどころか晴れ渡っている。切り取られた青空を確かめて、そこに流れる小さな雲の一団を見送って、スキピオはこの城の主人に向かって歩き始めた。
 礼を言わなくては。まるでとても親しい友人の別荘に休暇のあいだずっと世話になるみたいに、この城に留まり続けてきたのだ。何か品を贈らなければいけないだろう、それを喜ぶ男とも思えず、何を贈るべきか、そういう企みは得意な方だというのに思いつくものはひとつもなかったけれど。そういえばいま着ている服、これは、どこから?
「長い雨でした」
「ええ」
「……でも短いような気もします、いまとなっては」
「わたしもそう思います。きっとあなた以上に」
 言うべき言葉、正しく育てられたスキピオが備えた心地良い表現、別れを飾るに相応しい振る舞い、みなどこかに散り散りになって、唇は開きかけるのにすぐ閉じてしまった。どこへ逃げたというんだ、必要なとき、いつだって手元にあって存分に力を振るってくれていたではないか。
 男の深い色の瞳はしばし、スキピオの青い目を見ていた。そこに何か走り書きがされているのを読み取ったかのように彼はゆっくり、その動作をなぞる空白を残して目を瞬いた。
「行かれるのですか」
 そこに惜しむ様子があると思ったのは何故か、スキピオは分かっていた。本当にそう考えているのは彼の方ではないはずだ。きっと、これは推測に過ぎないし、こういうことを話に持ちだしたことはないが、彼は好んでひとりでいる。妻も子もないならば奴隷も使用人もない、通いの商人の姿も見えない。森の奥なので近隣の住人などそもそもありえない。狩人でもないのに、森にいる。
 答えを持てず、スキピオは二階を見上げた。あと一室残されている。葉を食い散らかす虫みたいに毎日毎日、夜と夜の違いを見失いながら、書物を紐解いてきた。だがあと一室。それに、広間に散らかされた書物もある。それに。
「何か、書き物をしていると、おっしゃっていませんでしたか?」
 自分が彼の言葉を本当に好きになっているのにはとうに気が付いていた。彼は正しくものを見ようという努力を忘れず、もしかすると、と言って自分の考えに沿わない誰かの考えを想像してみせる。スキピオの言うことを深く頷いて称えることもあればぞんざいに首を振って正そうとすることもあった。言葉には限りがない。
 男は葉のない木から垂れ落ちる雫を追っている。果実をつけないのだろう、枯れ木ではないが、生きていると言っていいのか判断に迷うその木を、なぜ庭の中央に据えているのか。不可思議は尽きない。
「何もかも書いておこうと思いました」
 この城には、彼の他に動くものがない。深く、深く。覗きこむとそのまま多くのものを見失ってしまいそうな瞳の奥、息づくものを、スキピオは確かに知っている。
「ここであったこと、ここではない場所であったこと、わたしの身に起きたこと、わたしとは何ら関わりのない名前だけの誰かに起きたこと、何もかも。書いたものが勝つのだとどこかで信じている。わたしの言葉のほかに何も知らず、わたしの言葉、わたしの目、このありきたりなわたしという硝子を通して初めて濃く立ち込める霧の晴れるときーーそれを望んでいるわけでは、ありませんが」
 彼の饒舌は珍しくなかった。彼も、スキピオも、気が向くと滑るように舌を動かす。空気を消費する。
「それが読みたいのです」
「それが?」
「僕は硝子の姿を知っています、あなたそのものだ、そうでしょう。僕は、きっと、あなたの言葉というだけでなくあなたを好きなのだ。だから読みたい。いけませんか? いや、それも、あの部屋を平らげてからのことになるから、すぐにということではないのです」
「構いません」
「……ああ、でも、雨が……」
 焦りがどこへ向かいたがる自分のものなのか、突き止めるのはつまらないことだ。あまりに焦がれたために我ながら数歩引きたくなるほどに書物に熱中できた。大丈夫だと言うひとはいなかった、自分でさえ。
「森を出なくてはならない理由がありますか」
 男はいつも、最も問われるべきことを問う。
「……いいえ」
 朝餉を、と男が言う。錆色の裾がさらさらと流れて、背に落ちた毛先のやや色の抜けた髪がそれに溶けるように揺れていた。未だに彼の姿を脳裏に描くことはできないのに、ひとつひとつの形の有り様ならば、詩人のように語ることができるはずだ。スキピオはなんとなしに彼を追うことにした。彼は待っていろとも座っていろとも言わなかったので、その日だけは、硬いパンを切るのを手伝うことができた。

 男の書斎は他のあらゆる部屋の惨状と比べると目を瞠るほど片付いている。大きな机には蝋板が積まれ、巻かれたパピルスも何本も据えられていた。机の左右の窓のない壁はぎっちりと書棚に覆われており、そこには、やはり蝋板と巻物とが詰められている。
 椅子は男が使うひとつきりだったが、いつも床に座り込んで彼の蔵書を漁っていたのだから不自由には思わなかった。自分の足元に客人を座らせている男のほうも居心地の悪さなど感じないようで、蝋を削る音が淀みなく聞こえる。
 彼の書いているのは、一言で言うなれば歴史である。世界すべての歴史であった。彼の怜悧な筆致で綴られる出来事はスキピオも知っていることだった、半ば当事者なのだから。半ばというのは、時代こそ違えど場が同じという意味だ。
 そういえば彼は一度もスキピオを書斎に入れなかったのに、入れてくれと言えば扉は軽々と開いた。黴臭いわけでもなく、香の匂いもなく、風が時折柔らかく髪を撫でるばかりの、とてもいい部屋だ。二階の部屋部屋でそうしたようにスキピオはどっぷりと文字に浸かり、時折確かめることがあって男の席を立つ音さえ聞いていなかった。だからいつ彼が火を点しているのかも、強すぎる風が吹くときには木戸を閉じているのかも、知らない。
 そうして過ごすようになると、男のほうが時間を忘れることが時折あった。夜がとっぷりと更けたときになってスキピオに空腹でないかと尋ね、いつも平気だと返す客人に自分もだと頷く。本当に軽い飢えを感じることはなかった。けれども眠ることだけは、彼は潔癖なほど大切にしていて、冴え冴えとした目を持て余すスキピオを立たせて書斎から追い出してしまう。あの寝台に横になれば、眠れないことはない。必ず眠りがあそこには待ち構えていて、盥に満たされた清い水は、その眠りの残滓を流していった。
「あなたには時間があります」
 いつ、そう言われたのだったか。ぬるい泥のなかで、子供にするようにして髪を撫でつける手のひらがあった。その手には引っかかるようなささくれも、剣を持つうちに厚くなった皮膚の硬さも、遠い。
「……あなたには?」
 スキピオは夢か現か、手の主に尋ねた。この城には何もない。この城には、誰も。
 答えはきっと、真摯に返されたのだろう。しかしそれは夜と夜の間隙、朝と朝の間に差し込む影のうちに紛れ込んで、捕まえることはついぞできなかった。
 このようななかでも、きちんと夕餉が用意される日のほうが多い。そして食事を終えると、彼はいつもスキピオの指を拭いた。普通なら水で洗って奴隷にでも拭わせるものなのだが、いつも水に浸して絞った手拭いを使う。自分で拭きたいと言ったこともあったが取り合われることはなく、スキピオは言われるより先に彼が手拭いを持つと手を差し伸べるようになっていた。躾けられている。そう思いはするのだが、強く拒めば、不思議と楽しげに見える男の気分に水を差すことになる。
 味の違うものに手を付ける際にいちいち拭うというわけではないのだ。ただスキピオがこれ以上食べないだろうと見て取ると手拭いを出す。まるで爪を磨かれているような気分で、足まで洗うと言い始めたなら説得しようと考えていた。そんなことを言うはずはないのだが。
 この人はどこで眠るのだろう。疑問はいつもとつぜん顔を見せる。勿論主人には主人のための寝室があり、そこで眠るのだ。この城の最も大切な部屋と言ってもいいだろう、王座はないのだから。
「よく眠れましたか」
 食べる最中少々失敗をしたせいで指先のみならず手のひらまでべたべたに汚しているソースを、彼は黙々と拭っている。ちらとスキピオを覗く目もすぐに作業に戻っていった。どこか湿った空気の夜、広間のランプがひとつ増えている。
「昨夜ですか?」
「あ、ええ。昨夜。犬が鳴いていたでしょう」
「眠れましたよ、おかげさまで」
 それは、よかった。彼の目元にはうっすらと隈があるのだ、最初からそうだから、何も眠れないことに起因するものではないかもしれない。べたつきひとつなくなった手はまだ彼の、スキピオの右手よりもいささか大きい左手の中にあった。熱くはない。冷たくはない。
「スキピオ、今日は早くお休みなさい」
「……でも」
「嫌ですか?」
「いいえ……」
「おやすみなさい」
 おやすみなさい、と返した。立ち上がるそのときまで、男は手を離さなかった。

 細い筆を走らせる音を聞く。やや目にかかる前髪をかきあげながら覗きこんでいたパピルスを巻きとってゆく手が、ふいに止まる。そこには戦争についての記述がある、彼の書くものの殆どはそのような歴史についてであったが、自分と同じ名を見つけたのだ。スキピオはその、血の繋がりこそないが名を継いだ人の名を表す文字に触れる。愛情とも言えるものがあった、生きた顔を知らず、声を知らず、栄光は遺されたものしか知らないのに。書いた人間にも似たような愛着があるのだろうと思わせるような言葉が続いている、それはまさに礼賛、彼の人の輝きを増さんとする硝子の揺らめきだった。
 スキピオ。もともとは自分の名前ではない。もらった名前だ、与えられた。欲しがった覚えはない。欲しいと思ったのは、早く名乗ってみたいと高揚したのはこの名ではなかった。
 彼はこの名前を知っているーー僕の名前を? スキピオは顔を上げた。彼が昨夜、自分の名をどのような声の調子で口にしたか、思い出す。そのときなぜ彼はーー違う。違う。もっと早くに。
「なぜ知っているんです」
 不明瞭な問いだのに、男は眉を寄せることも首を傾げることもなかった。スキピオの手から書物を取り上げ、自らの字を見つめ、ついさっきスキピオがそうしたように指先を当てる。やはり彼はその名を知っている。知っているし、それだけではない。彼が見せた笑みの優しさにスキピオは唖然とした。
「大切な名前でしょう、あなたの」
「そうです、でも」
「あなたの名だ」
「……僕の、名前だ」
 そのとおりだった。返された書物を、また覗きこんで、頷く。そしてこれは英雄の名だ。
 スキピオの視線が紙面に落ちてからもじっと、男は彼を見ていた。筆は置かれたまま。呼ばれ、見上げる少年の額に触れたのは彼の手の甲だった。目を細める、その先で、微笑む男の顔をやっとスキピオは思い出した。白皙のうちにその瞳ばかりが濃く、昏いというのに、つややかなのだ。
 彼はもう何も言わなかった。ただ背を曲げた男に抱き寄せられてスキピオは立てた膝に小さな石が食い込むのを感じていた。薄っぺらく見えたのに、彼は貧しい体躯をしているわけではないらしい。じっとその肩口に頬をのせ、スキピオは答えのように名前を口にしようとし、やはり、できなかった。彼には時間がある。だから書くことができるーー誰よりも彼にだけは時間がある、それが唯一の、彼に与えられた褒章なのだ。

 時間を忘れたふりをしていた。書斎にはスキピオだけで、この城の主人はどこにいるのだか分からない。二階はくまなく探検したし、きれいに整理したけれども、一階で知っている部屋はたったいつつ、それきりで、二階よりもたくさんの部屋があって然るべきで、男の眠る場所もスキピオはやはり知らない。
 すっかり日が沈んでいる。よっつのランプが部屋を明るくしてくれていたが、窓の外、森の向こう、夜空のなかで、天井と同じ星図があるのが見える。動かない星図はやはり冬のものだった。すこし寒いと感じたとき、男は何も言わないで毛布をくれた。それを肩から被ってずっと彼の書いたものを読んでいる。時折交じる、彼自身の言葉でしかないもの、それを追い、水晶よりも澄み磨かれた硝子の向こうの世界を読む。楽しくなければこんなことはしない。
 沈むのはいつも赤々とした太陽だったし、破り裂かれる紙、烈しく燃え盛る誇りが、砂埃のように洗われて、流れていった。スキピオは目の疲れをひとつも覚えないが、窓の外で何かが鳴いているのは無視しきれなかった。犬じゃない。猛禽だろうか、それとも馬? やはり屋根か壁に何かが叩きつけられていたが、確かめる術はなかった。探しものがあるのだ。スキピオは探している、けれど一行だって読み飛ばしたり噛み締めないでいることは、彼が許せなかった。
 どこまで書くのかは、最初に告げられている。あの日までを書くと。あの日、あの日はーースキピオは思い返しながら、それを目指していた。あの年。それは彼だけの、そしてスキピオだけのものではない。誰よりも父のためにあったのだと思っている。
 はたと、手が止まる。その手から書物がすり抜けて床に強かに落下した。ーー探していたもの。
 机の上から何も書かれていないパピルスを取ったのは、未練だ。同じことなのに、最初に消えるのが彼の字では嫌だと思ったのだ。ランプの中にパピルスを入れ、そっと、火と触れ合わせる。よく燃える材質だからすぐに火が伝ってきて、端からぼろぼろと崩れるように、紙片が焼かれた。それをスキピオは投げ落とした。指先が焼かれるより先に。
 落ちた小さな火が走りだす場所を見つけた。スキピオの手にあった書物が火の愛撫を受けて、ひとりでに転がる。からからと中身の無い音がして、火はもう止まることができない。火とはそういうものだ。
 スキピオは部屋を出た、焦げるにおいが書斎には満ち始めている。すぐにこの扉を出ていくだろう、とはいえ時間はかかる。早足に回廊を踏み、広間を見る。後でいい。玄関のある側から男が姿を見せていた。彼はスキピオの走り寄って来るのをただ待っていた。
「ーー僕の剣は」
 弓も矢もない、ならば剣だ。男はじっと立ち止まったまま、スキピオを見守っている。彼の目には扉の向こうの火が映っていないのだ。こうまでして愛しんだ本たちであるのに、悲鳴をあげて火の粉を払おうとする者はいなかった。
 彼の手が上がる。その両手には剣がある。鞘から抜き払い、階段を駆け上がった。最後に入った部屋の扉を蹴破る、かけられていた鍵が壊れる音が劈くように響いた。灯されたランプがここにもよっつ、だがすべては必要ない。細い鎖を叩き斬られ、ランプは油をぶちまけて粉々になった。油を泳ぐ火が目指す場所は同じだ。
 部屋を出る、同じようにして、順番に火を放した。そして振り返ってみれば階段のあたりは裸足で駆けることのできない有り様となっていた。剣を捨てる。もういらないからだ。欄干に手をかけ、中庭に飛び降りてみれば、広間の本が焼かれるのが見えた。城の主人はそのそばにいる。
「ポリュビオス」
 スキピオは間違えなかった。呼ばれた男は踵を返して、中庭に立つ少年に目を見開く。
「探したんです」
 彼はなにも隠したわけではないが、探さなくてはならなかった。ぱちぱちと爆ぜるのはパピルスばかりではない。にこりと、笑う。訓練された笑顔に見える、生まれたときから知っているやり方だった。
 動けないでいるらしい男のもとに、スキピオは駆けた。軽く動く足がたった数歩踏みしめれば彼の手に届く。それで気が付いたように彼の目が炎を追い、痛ましげに眉を寄せた。だが違うのだと、スキピオは彼の右手を両手に取る。これは僕の火だ、これは僕のものだ、だから違うーーだってまだ書いていないじゃないか。
「先生」
「……英雄の剣は、鎖を断つものではありませんよ」
「怪物退治は神代の領分でしょうーー境を超えることはできない」
「森が燃えてしまう」
「いいじゃありませんか、それがいい」
 晴れ晴れとした気持ちだった。硝子も何も通さずにスキピオは彼を見ることができる。彼の言葉によらない彼を知り、語ることができた。
 当惑したように身を引きかけたが、男はスキピオにもう一度呼ばれ首を巡らせるのを止める。しっかりと捕まえられた手をきっと彼は振り解けないし、スキピオにはこの手を離すつもりがない。初めて触れたときから、いままで。眼差しさえ焼く熱さを照り返して頬はまるで紅潮したように色付いているだろうと思う。
「先生、約束してくださったじゃありませんか」
「…………」
「僕を見ていてくださるのでしょう? 雨が降らなくても、あなたは僕のそばにいてくださる。行きましょう、僕はここにいられないーーなら、あなたもここにいていいはずはない」
「でも、ここにいないと」
「いないと、何です?」
「ここに、いないと……」
 がらがらと瓦が砕ける。彼の城はもはや落ち、焼けるばかりだ。ここにはいられない。戻ることはいつかできても、戻るためには出てゆかなくてはいけない。スキピオは言葉を探して彼が窮し、はくつくのを見上げていた。もどかしげに目が泳いで、炎を捉えて、きつく目蓋が下ろされる。ーー怖い。
 胸を満たしたものの名など意味がない。手放しようのなく、そして得難いものの前に、言葉は一閃、それ以外はいらない。
「僕に剣を持たせてくれたのは、あなたではないですか!」
 はっと目を開いた男の手を引く。
 この先のことならばスキピオが知っている。遍く場所で、彼は剣を持ち盾を持つ。獲るため、守るためにだった。それでも恐るべきは彼なのだ。城などではない、森ではない、獣ではないーーこの先にあるものではない。彼だけだ。
 崩れる城を振り返るものはなかった。

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