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同じ庭の花

 乳母に髪を丁寧に梳かせ、年頃の娘がするように結わせてから、テルティアはずっと手に握っていた髪飾りをそこに添えた。澄んだ翠の小ぶりの石が、幼い妹の髪にはひどく鮮やかだった。
 手鏡を覗き込み、乳母におかしくはないかと尋ね、一度部屋を出て母のところに行き同じことを訊いて。戻ってきた彼女は頬をぽかぽかさせていた。
 その髪飾りを告げられたままに兄たちからの土産だと思い、生まれて初めて手に入れた宝石にテルティアは有頂天だった。邪気のない、微笑ましいばかりの喜びを撒き散らしている。
 長いこと喪服を着せられて溌溂と笑うのさえ縁遠くなりかけていた彼女に、本当はもっと早く渡せばよかったのだけれど。スキピオは見ろと言われるまま見てやり、どうかと言われて可愛らしいと褒めそやした。
「繊細なものだからね、大切にするんだよ」
「もちろん! 毎日磨いて、小箱に入れて一緒に寝る!」
「いや、一緒に寝るのはどうかな……」
 寝相がいいとは言い難いだろう、とからかうと、膝を叩かれた。長椅子にいる兄の足元にぺたりと座り込んで、トガの裾に犬の子がするように絡みつく様子は、いとけないばかりだ。
「プブリウスお兄様が選んだの? クィントゥスお兄様?」
「僕と兄さんと……それにもうひと方にご助言頂いて。その甲斐はあったね」
 テルティアはその答えにますます満足そうだった。姉のアエミリアには婚約者からもっと慎ましやかな……言うなれば額の低い土産が届いていて、テルティアはそうと言わないまでも初めて姉よりも尊重された気分になっているのだろう。
 しかしアエミリアだって届けられたペンダントを心から喜んでいたし、姉妹と言っても性格には差が出たものだと思う。テルティアも決して、華美を好み度の過ぎた我儘を振るう少女ではなかったが、夫となる人の貧しさに徳が現れていると胸ときめかせて感激することはあるまい。
 夫となる人、とスキピオは内心でひとりごちた。内密にと言われてその通りに届けたこの贈り物、いつか本当の送り主を彼女は知ることがあるだろうか。
「お兄様?」
「ーーうん?」
「ぼんやりしてる。疲れてるの?」
「いや、別に……気が抜けてるんだよ」
 その日は特に忙しくしておらず、生家で気ままに過ごすばかりだったから、偽りはなかった。
 それでもじっと見上げてくる双眸に、スキピオはやや困惑した。彼女はどちらかと言うと父親に似ていて、だから母親の違うスキピオともある程度似ている。同じ母を持つ四人兄弟と、彼らとは異なる母を持つスキピオとクィントゥスとは、似ていたり似ていなかったりした。
「気が抜けるってことは、気を張っていたってことじゃないかしら」
 思案げに言い、体重を預けてくる妹に、スキピオは手を伸ばしたものか少し迷った。マケドニアに行く前ならば、迷いなく頭を撫でたし、長椅子に上がらせて抱き寄せもしただろう。
 ちらつくのは父や兄ではなく、この髪飾りを選ぶのに悩み抜いていた青年の顔なのだ。
「お兄様、正直に答えてほしいの」
「何をだい」
「いま悲しくていらっしゃる?」
「……いま、は……別に。テルティアがいて悲しいことはないよ」
「じゃあ、つらい?」
「どうしたの」
 問い返してから、答えるよう言われていたのを思い出し、つらくもないと答えた。
 深い青の瞳は、スキピオのそれよりいささか濃い。父と同じだった。それが柔らかく、どこか潤んで、不意に伏せられた。異国にあって彼女と会うことのなかったおよそ一年、その大きさを、唐突に思い知る。
 何かを失った心地に似て、スキピオにはそう思う自分が衝撃だった。子犬が死んだと言って泣いていたのに、いまこの妹は、兄の心を慮って泣こうとしている。
「これは、秘密よ。お姉様が、お兄様たちがお泣きにならなかったって」
「……葬儀のときだね」
「それは、私たちより大人だから仕方ないんだって、私は思ったの。でもお姉様はそう思わないのだって。じゃあどう思うのって尋ねたけれど、答えてくれなかった」
 戦地から勝利を携えて戻った父は、息子たちの命が奪われようとしているのに直面せねばならなかった。それよりも以前から兄たちの異変、家の異変に囲まれ、病を移されないためにスキピオ家の屋敷にいた妹たちは、スキピオが現れたのを見て表情を見せなかった。
 生きて帰ってきて嬉しい、というのと、この兄は何を運んできたのだろう、というのと、その両方の板挟みになっていたのだ。アエミリアが、ルキウスはと尋ねたとき、どうして分かるのだとスキピオは思ったものだ。ーーどうして死んだのがルキウスのほうだと分かったのか。
 三番目の兄が死んですぐの父の凱旋式で妹たちは青褪めていた。どうしてか歩き回るだけの活力をとつぜん取り戻したアエミリアの弟、テルティアの兄は、その三日後に死んだ。
「僕を冷たいと思う?」
 ぽろりと、本当に思いがけずに、言葉が出てしまった。
 取り戻せない失態にまばたきを忘れ、スキピオが硬直しているのに、テルティアは膝に額を擦り付けてそうじゃないのだと言う。
「まだ怖いの」
「テルティア」
「まだ、まだ終わっていない気がするの。もう病気で死ぬ人の話を聞かなくなって、あんまり、兄様たちのことを話さなくなったけど……」
「…………」
「何かを嬉しいと思うと急に、すごく怖くなるの……」
 それが髪飾りのことを言っているのだと分かって、スキピオは今度こそ彼女の頭に手を伸ばした。少しの油が塗られた髪は、兄と似た砂色をしている。
「アエミリアが嫁ぐのが寂しいかい」
「寂しい、すごく」
「僕が泣かないのも、みんなが喜ばしいことをと急ぐのも、怖いんだね」
 頷きに、温かいものが注ぎ込まれるような、安堵させてくれたような気がした。テルティアが顔を俯けたまま立ち上がって椅子に上り、スキピオにしがみつく。
 幾度か頭を撫でてやるうちに髪を乱したが、知らぬふりをした。長い、けれどひとつも息苦しくない沈黙のあとに、テルティアが礼を小さく口にした。髪飾りのことかもしれず、この沈黙のことかもしれない。
 そうして顔を上げた妹が綻ぶように笑んだのを、どうして目を細めないで見ていられるだろう。いまにも言ってしまいそうな彼女に対する秘密は、こういうとき、スキピオを途方もなく安らがせる。カトーは優しい男で、父親の愛情と教えを最上の受け取り方でもって身につけた。その彼が、この妹を大切にせぬはずがなかった。
 アエミリアがトゥベロの元へ嫁げば、この家の子供はテルティアひとりになる。しかし彼女が子供として過ごす時間もあとそう長くない。少女は驚くべき早さでおとなになり、妹は兄よりも早く変身するものだ。
 椅子に深く座り直し、テルティアは悪戯っ子の目で兄を見た。
「この際だから、訊いていい?」
「この際だからね」
「お兄様って、いいひとはいらっしゃらないの?」
「い、いいひと?」
 髪から外した髪飾りを窓から入る光に照らしながら、テルティアは兄の顔色も見ないで続ける。
「恋人とか、好きな人とか」
「婚約がまだだから……」
「まだだから、遊ぶのだって、お友達が言ってた。お友達のお兄様はね、お父様がかんかんになるまで家に帰ってこないんだって」
 少女たちの会話にそんな話題がのぼるとは予想だにせず、スキピオは思わず部屋を見回した。乳母はとうに退出しており誰もおらず、助け舟はない。
「ねえ。お兄様は?」
「他のことでまだ忙しいし、そのうちに婚約して、……」
「……」
「……いればいいと思って訊いてる?」
「ううん」
「いなければいいと思って?」
「ううん。他のお家のお兄様と、プブリウスお兄様って、種類が違うと思うときがあるから」
 種類、とスキピオが繰り返すのに、テルティアはやや真剣な面持ちで頷く。悪所通いが止まらず散財を繰り返して父親にどやされる兄の姿を語った彼女の友人は、家が騒がしくてかなわないと言っていたという。その騒がしいというのが親子喧嘩を言うのか、もっと他のものを言うのか、追求はできかねた。
「お兄様は私とお姉様に優しいわ。兄様たちにも優しかった。別のおうちにいるけれど、よく遊んでくれて、怒鳴ったりしないでしょ。髪を引っ張ったりからかったり……しないの。だから、女のひとと遊んだりもしないのかなって」
 繋がりがよく分からない要素だったが、スキピオはただ頷いた。
「お父様が優しいからだとも思うの。でも……そう、お兄様たちは、私たちとも違うの」
「違うって、どんなふうに?」
「さあ……でも、違うの。私、ずっと、自分がもっとお兄様たちに似ていたらいいのにって思ってた。パピリアさま、きっと美人なんだって」
 ぎょっとしたのは、違うと言われたからではない。自分の口からも、おそらくは兄の口からも、自分たちの生母の名は出したことがない。誰も、弟妹に父の前妻の話などしない。彼らは本当に幼いうちには、上のふたりの兄を疑いなく同じ両親の子と思っていただろうというくらい、確実だった。
 テルティアには秘密や難しい領域に足を踏み入れた気配はなく、知っていることを前提にただ考えを明らかにしているだけの様子だった。
「美人なの?」
「……おまえの母上ほどじゃ、ないよ」
 嘘をついたわけではないが、本心では必ずしもなく、スキピオの答えようはいかにもぎこちなかっただろう。
「パピリアさまが美人で優しいんじゃないかと思う」
「それは、僕の母が特別だから、僕と兄さんも、少しそれを受け継いでるって意味かな」
「そうじゃない?」
「だから、泣かなかったと思うということ?」
「……そうかもしれない」
 隔たりが、あるいは線引きが敷かれようとしている。そう思った。
 同時に、やはり、テルティアがこちらの思うよりはるかに多くのことを見聞きし、考えているのだと更に思い直さなくてはならなくなった。スキピオは幼い頃、異母弟が生まれた当時に、大切にせねばならないと理解したのを覚えている。しかし生まれたばかりの赤子に触れてもいいとは思えず、弟だと思うには時間がかかった。
 妹は生まれたときからそばにいた兄たちに、特段の違和もなく懐き、疑問もなく家族として接してきた。相違は、目につくところから生まれる。どうしてだろうと思う、違うと思う、羨ましいと思う、そういうところから、何か別の性質があるのではと。
 恐ろしい惨事に涙しなかったことは、そうも訝しまれるものだろうか。自分でもなぜ泣いてやれないのかと考えていたのにそう思うのは理不尽だろうか。
「お兄様、婚約したり、夢中になるひとができたりするまでは、こうして私のところに来てね」
「おまえが嫁ぐまでと言うほうが、いいんじゃないか」
 不思議そうに見上げてくる妹の髪をいくらか整え、髪飾りを差し直す。化粧気のない子供の顔なのに、そうして背を伸ばさせると子供らしいのとは違う柔らかさを纏うのだった。
 しきりに宝石に指を触れ、テルティアははにかみながら最後に言った。ーーこれを選んだもうひと方、誰なのか教えてくれないのかしら。

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