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 彼の姿を探せば、いつも多くの人の中に目を向けることになる。広場であっても、その他の何気ない道端であっても、彼がひとりきりでいるということはまずなかった。それでも、探している者の視線にもよく気が付いて輪を抜け出すのも上手なものだから、誰もが勘違いをする。
 もしや彼のなかで自分はひときわ大きな存在を持っているのではないか、という、子供じみた勘違いである。抱いていることが他人に知れれば羞恥を拭えないといった類のものだ。
「珍しいですね、ここまでいらっしゃるなんて」
 しかしトガを着崩さぬ程度に足を急かして駆け寄ってきたスキピオの笑みを見れば、親愛を疑うわけにもいかない。
「あなたが約束をお忘れなのではないかと思いまして」
「約束? ……ああ、憶えていますよ、大丈夫です。カトー様の御宅にお伺いするのでしょう、ポリュビオス」
 スキピオは自分も楽しみにしているのだ、とやや首を傾げさせて笑った。
 先程まで歓談に興じていた人々に手を振り、ポリュビオスを促してスキピオは歩き出した。広場を出るまでに顔見知りや、こちらのことを一方的に知っている人々に声をかけられては簡単に挨拶をしてやりすごしていく。まだ二十歳そこそこの若者が持つものをよく表すのは何よりもその振る舞いだとポリュビオスは師として思い、人々の身勝手な好意だと友として思った。
「カトー様に、どんなことをお尋ねになるのですか? ラエリウス殿にはなんだか面白いお話を、とねだっていらっしゃいましたが」
「面白い話を、と言うでしょうね。あの方も楽しげな方と伺っておりますし、遠目に見た限りではやはり大人物だとも」抱えていた巻物をスキピオに取り上げられて、手持ち無沙汰になった腕を下ろす。「あなたの保証もあることですし」
 彼の家とは因縁浅からぬ人物であるのに、スキピオはポリュビオスの言葉に嬉しげにするばかりで、そこには敵意はひとつもなかった。先のマケドニアでの戦役で知己を得たカトーの一人息子を伝手にして取り付けた約束は、ポリュビオスが頼まずともいつかスキピオが言い出しただろう。スキピオは彼の実父がそうであるようにポリュビオスをローマの様々な面に出会わせようとしている。パウルス家やスキピオ家は貴族のうちでも当世において栄華を誇る一門、それに対して件のカトーは祖先の栄光を背景に持たぬ新人だった。
 カトーの邸、おそらくは邸と言うほどのものではない彼の家は、ローマの市内にはない。それだから時間に余裕を持って、と言い置いたのはスキピオだのにいつまでも広場にいるからポリュビオスが迎えに行くことになったのだった。
「あの方はギリシアについて、有り体に言えば嫌悪なさっておいでです。でも本当のところ教養はおありになって、ギリシア語だって分かるのにお話にならないのだと……リキニアヌス殿が。秘密ですよ。ポリュビオスのような人のことはきっと気に入るでしょうとも言っていただきました。僕のことはどうだか、よく分かりませんけれど」
 連れている奴隷に預けることをせず、ポリュビオスの荷物を胸に抱えて、はじめは楽しげに話すものが話し終えるころには何故か沈む。青年のこの癖が、彼が厭う世評を呼ぶのではないかとこのところポリュビオスは考えていた。未だ口に出してはいないが。
「アフリカヌスのことを持ちだされるとお思いですか」
「それが、どうなのでしょう。分かりません。僕はカトー様は尊敬すべき方と思いますから、できれば仲良くしていただきたいなあ……テルティアのこともありますから」
「……そのお話をついでに?」
「まさか。それは父上がなさるべきことでしょう、僕はスキピオ家の人間ですから。妹のことはパウルス家のことです」
 妹がカトー家の一員になれば、それだけ自分とカトーの距離は近くなるのにと、いかにも物憂げに目を伏せる。カトーがこれ以上ないほどに手をかけて育てた一人息子であるリキニアヌスが、スキピオの異母妹を妻にと望んでいる話は、少なくとも両家を取り巻く若者の間では知れた話だった。当主たちがどうなのかは、ポリュビオスは知っているだろうと考えているけれども、自分が口出しすることではまさかあるまいとも思い、やはり口を閉ざしていた。
 ねえ、ポリュビオス。そう呼びかけられて返事をする。十七の少年だったときから彼のこの声の出し方はひとつも変わらない。
「仲良くなりたいんです」
 やさしすぎる、軟弱だ、と言われる。この青年の優美な風情はスキピオの家名からするとあまりにも弱々しいと人は言う。それを気に病んでポリュビオスに彼が思いの丈をぶつけたのもそういえばこの通りだった、と見慣れた風景に思い出していた。
 彼はそうと意識していないのだろうし、自分も、それを深く考えることはない。スキピオは後継者のなかった名門の養子となることが決まったその日から、何やらどっちつかずだと言ったのは彼の兄だった。父がふたりおり、母はどちらの家にもおらず、兄は他家に養子に出ている。それだから仰ぐべき人をただひとり、心に定めることができずにいたと。過去のことだ。
「そうお言いなさい」
「子供っぽいとお思いになったくせに……」
「思いましたね。ですがあなたは若いし……自分の息子よりも年少の相手の間の抜けた発言は可愛いものでしょう。はっきりとものを言うのが一番です」
「そうでしょうか」
「わたしはそうでしたね。嬉しかったですよ」
 誰よりも自分を気にかけてください、とここで言われた。それ以前から本当はポリュビオスはそのつもりで、教え子であり友である少年に向き合っていた。
 スキピオは自分が何を求めてそう言ったのか、分かっていて分かっていないだろう。師に求めるにはいささか広すぎる意味の親愛を求め、それを当然と思っている。まあそれもいいだろうとポリュビオスが思うから、いつまでたっても、彼はあどけないばかりの笑顔を師に向けるのだった。

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