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 泣いたと聞いて、ムンミウスはまあ彼らしいことだと思った。心底である。
 アフリカヌスの師であるギリシア人は彼の故郷アカイアの破壊者に対し、はじめから最後まで嫌な顔は見せなかった。それが彼の処世術であるのか、気負うでもない振る舞いであるのかはムンミウスの察せられる領域を超えている。
 コリントスの占領、掠奪ののち、このポリュビオスという男は助言者としてムンミウスのもとにやってきたのだった。そして、かのカルタゴの破壊に立ち会った歴史における幸運な者から、ムンミウスは彼が泣いたと聞いた。それをポリュビオスは傍らで目の当たりにし、「なぜ泣くのか」とも聞いたらしい。自分ならば何も言わないでその場を去りそうな場面であるのに踏み込む、それだけ親しい間柄ということだろうか。
 戦利品が船に積み込まれていくのを、ポリュビオスは考えの知れない静謐な眼差しで見送っていた。ムンミウスの適当な、あるいは素っ気ない指示に一瞬だけ彼がよせた皺はその眉間にはなく、理由がムンミウスには分からなかったので問い糾すでもなくそのままにしている。
「このような美術品を、アフリカヌスは喜ぶのでしょうね」
 ギリシア趣味といえばスキピオである。それはずっと前、ムンミウスの知るアフリカヌスではない、もうひとりのスキピオの時代からそうだった。ポリュビオスはそうでしょうね、とだけつぶやく。眼差しは彫像などに向けられている。
「なぜ喜ぶのかは私には分かりませんが……」
「ええ……そうだろうと思いました、あなたは、よいローマ人だ」
 こういう口の利き方はきっと生来のものだ。ムンミウスのあまりに素っ気ない物言いに兄弟が呈する苦言はここにはないように、ムンミウスはポリュビオスのどこか投げやりな声音に何も言わなかった。部下たちが忙しく歩きまわっていたり、戦利品をしげしげと眺める、それよりもさらに遠巻きにして彼らは立っている。さぼっていると幕僚に言われるかもしれない。休憩だと答えるつもりだった。
 栄華を誇れば滅ぶものだ。人も、盛りをすぎれば老いの坂を下るほかない。そういうことを思ってかの英雄は泣いたのだという。ポリュビオスは、素晴らしいことだ、と続けようとしたのかもしれない。ムンミウスの動かない表情と、彼の黒々としたまなことが、語らいから華やぎを根こそぎ奪っていた。
 ポリュビオスは、死んだディアイオスの財産のうちに欲しいものがあれば何でも取ってよいと言われ、何も取らなかった。友人たちにもそれを求めた。しかしながら彼が取ろうが取るまいがギリシアの宝は奪い去られ、祖国の教養人からすれば粗野な男の指揮のもと、多くがイタリアへと運ばれる。かつてペルセウスの宝が市民を納税という義務から解放した、その時のようにはいかぬが。
「ああ、あなたもその宝でしたね」
 マケドニクスが持ち帰った、マケドニアの宝。ローマへと連行された一千人のギリシア人。そのなかに彼がいたのだ。そして、それだから彼はアフリカヌスの涙を見た。
「ムンミウス殿」
「はい」
「わたしはたいていの人間よりも察しがよいつもりではありますが、あなたはその自信をわたしから奪うお人だ」
「……他意はないのです。ただ、あなたもまたローマが得た、この地の宝であったと。アフリカヌスはそう仰いませんか」
「言うまでもないことと思っているのではないですか」
 たいそうな自負を持っている男だとも、ムンミウスは初めて会ったときに思ったのだった。
 ポリュビオスがふいと踵を返し、特に行くあてがあるわけでもない足を運ぶ。ムンミウスはそれを追った。これは将軍が監督せねばならない仕事とは思われなかった。
 ムンミウスにはギリシア語は分からない。大した教養はなく、なにしろ彼の家系には彼のほかに執政官になった者はいなかった。そして、ひとつの栄華を壊した者もいなかった。
「アカイクスと呼ばれるのでしょうね」
 痛みを帯びない顔でポリュビオスが言う。アフリカヌスがアフリカを征し養祖父の名を真実の意味で継いだように、ムンミウスはこの功績により称号を捧げられるだろうと。
「ならば私は、父祖となれるわけだ」
「もうおなりでしょう。……あなたのような人は面白い。他意はありません」
「ポリュビオス殿はアフリカヌスのもとにおられるのだから、私のような無作法者はお嫌いかと思っていたが、そうではないのだな」行き交う兵士のとる敬礼に応え、意識して歩調を緩めて歩いた。幾度か自分よりも歩幅の狭いこの人を置いてきぼりにしたことがある。「あなたも面白い方だ」
「あなたは栄光を得るということを、よく心得ていらっしゃる」
 ムンミウスと同じ栄光を掴んだ親子の庇護を受ける身でありながら、ムンミウスなどにポリュビオスはそう言ってしまう。父祖の栄光を、また、家に飾るべき肖像を持たぬ男に。
「ご自身の手にあるものが何か、御存知だ」
「勝者にはそれを知る義務があるでしょう」
「ええ、そうです。言っておきますがスキピオもよく存じています。わたしはあなた方のことを好いているので、こういうことを言いたいのです……。栄光はいつか必ず、滅びるものだ。あなた方のあるのと、ないのと、それは関係がない」
「それを思いアフリカヌスは嘆かれた。……それであっても私は、滅びを恐れ、栄光を避けるなどという愚者にはなりたくありません」
 自身の才覚だけで、ここまできたのだ。ルキウス・ムンミウスは数えるに労せぬ数の新人の執政官のひとりだった。栄誉を得る自負が彼には若いころからあった。
 ポリュビオスは足を止めず、どこへ向かおうというのか告げぬまま、港のなかを縫うように歩いた。ただ歩きたいだけかもしれない。ムンミウスと話したいだけか、と思うのは、思いあがりにすぎる。
「私は泣けません」
 どこか言い訳がましい言葉に自分の耳にも聞こえた。コリントスの掠奪に、思ったのはただ、負けるということの呆気なさである。栄華を極めることの無意味さなど思いつかなかった。ムンミウスにとって荒廃しゆく文明の姿はただそれだけに過ぎないのだ。そこにローマはない。ローマとは、ムンミウスの背負うものであるから。
「彼がつくづくとそれを考えたのはね、ムンミウス殿。スキピオが持つ栄光とあなたのそれとの違いでしょう。立つ場所が違えば見えるものも違う、道理ではありませんか」
 そのときムンミウスは彼が笑うのを見た。ただただ微笑んでいるだけの彼の顔には滅び行くなにものをも重ねることはできなかった。彼は自分の隣にいるのだと、その感慨によってムンミウスは知った。

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