top of page

 あとどれほど炎は空を焦がし煙を昇らせるだろう。六日六晩の破壊と虐殺の狂騒が波引くように静まったのちも、カルタゴの今際の悲鳴は止むことがなかった。降伏し助命されたカルタゴ人たちは、奴隷に落ちたおのれの身とともに、焼け落ちる祖国、灰となりゆく誇りを嘆いた。
 他方ローマ軍もまた、待ちわびた勝利に酔い痴れてはいないように、ポリュビオスには思えたのだった。年若い兵士が任務の緊張から解き放たれず歩き回る、古参兵が物知らぬ子供のように声を上げている。
 夜陰に紛れてカルタゴ人が奇襲を仕掛け陣営に火を放つなどと誰も考えないのに、武器を手放せる者はいなかった。カルタゴ市街での戦いは彼らの心を蝕むであろうと、将軍は兵士に一定時間での交代を徹底したものの、人は休むとき何もかもを忘れられるわけではなかった。
 夜更け、将軍の幕舎に近づくギリシア人に気がついてリクトルが幕を持ち上げ入り口を作る。いつであれ、ポリュビオスやラエリウスならば自由にそこに出入りできた。
 軍議の行われるよりずっと奥、他の将校などより広く取られてはいるが簡素な空間の隅に置かれた寝台からは、人の気配らしいものがほとんどしない。しかしこちらを振り返った双眸は爛々として、疲れ果てた肉体を寝台に座らせていた。
 ポリュビオスがついたため息に、スキピオは目を伏せる。
「……何度か眠ったと思います」
 言い訳がましい声音だった。軍装を解き裸足になって、それはまったくの嘘ではないだろうが、おそらく彼が得たのは眠りと言うべきものではない。
 カルタゴが炎に巻かれるのを見届け、この指揮官は六日六晩ぶりの人間らしい休息をおのれに認めたはずだった。彼がそうしろと言うので休息を取りつつ指揮に当たっていた他の将校や、ラエリウスは、心底ほっとして幕舎に向かう彼を見送ったのである。
 どうしてこんな時にさえ背を伸ばしたまま、命令を待つかのように座り込むのだろう。彼は研ぎ澄まされた耳で曙を待っている。
「もう外は明るいでしょうか」
「いいえ、まだ」
「そう……長いな」
 平らなばかりの声で、疲れたとも飽いたとも、待ち遠しいとも言わない。空がほんの僅か色を変えれば、スキピオは立ち上がって指揮に戻るのに違いなかった。彼の勤勉は讃えるべきものだったけれども、口実となっては仕様がない。
 ポリュビオスが触れた彼の額はつめたく、髪は輝きを失っているものと思われた。
「あなたが休まれていないこと、ラエリウスでなくとも気がつくでしょう」
 統率者たる者が配下にいらぬ心配をかけるなと、諌める言葉さえ労わる色を免れ得なかった。ポリュビオスはただ私人としてスキピオのためにここにいるに過ぎなかったから、責務を抱える他の者でなく彼がこうして諭さねばならなかった。夜は長く、しかし朝日を待つ時間はあまり残されていない。
「あなたの手はいつも温かい」
 スキピオがそう言いながらも友の手を退ける。
「いま眠れば、きっと夢を見る。それはカルタゴの夢であり、ローマの夢、アッシリアの夢であり、トロイアの夢なのです。僕は火を手に歩くでしょう、呪いあれと、地に滅びを植わうでしょう」
「それでもお眠りなさい」
「きっと、あなたのアカイアの夢を……」
「たとえ祖国の土を踏み、細君とともに眠るとしても、その夢はあなたに訪れます」
「……そうでしょうか」
 恐ろしいのではない、そう言って、彼は途方に暮れたように寝台に背を投げ出した。そばに立つポリュビオスに座れと言うように目をやる。
「僕のただひとつ、どのような日にも僕を捕えて離さなかった望み……あなたのほうがよくご存知の、僕の夢は、ほんとうはどんな姿をしていたのでしょう」
「あなたはいつも語ってくださいましたよ」
「それなら、どうか、思い出して……」
 ポリュビオスは、ただ相槌を打って問わなかった。柔らかく解けていくスキピオの声が引き結ばれぬよう、その呟きが彼の記憶に残らぬよう。
 ややあって静かな寝息が聞こえ始めてもポリュビオスはその場を動かず、彼が二十年にも渡って親しみ、見守った、かつての少年の気配を感じた。
 彼に一度は擱いた筆をまた執らせたのは、スキピオの炎ばかりではない。ポリュビオスは絶壁へと押しやられる祖国の悲鳴を背に聞き、崩れ落ちたカルタゴの城壁を眼前にしている。岩砕き地を裂く嵐のごとく、ローマが彼の住む世界を変えてしまった。彼の友を戸惑わせ、途方に暮れさせるのは、所在なさではなかろうかと思った。
 ポリュビオスは英雄となった人のそばで夜明けを待った。目覚めた彼の胸に神々が喜びを吹き込みはせぬかと、願わずにいられなかったのだ。

bottom of page