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 あの方の好きな色をご存知ですか、と。
 長い沈黙の後にやっと口を開いたセンプロニアの問いにラエリウスはいくらか間を開けてしまい、それを後悔した。即答するのではなくとも相槌でもうてばよかったものを、不安げに自分の手元に視線を落としている女性はやや背を丸めているように見える。
「スキピオの好きな色ですか」
 この場にいない彼女の夫について、ラエリウスはたびたびとは言わずとも何度か質問を受けてきた。好きな食べ物は、好きな書物は、苦手な話題は。スキピオとラエリウスとが幼なじみであり他の誰よりも深く友情で結びついていることを知ればこそ、自分に尋ねるのだろうと知っている。それに自分相手ならば夫ではない男とひそひそ話をしてもあまり角が立たないのだ、信用されているから。
 部屋に控えたセンプロニアの侍女がちらちらとこちらを伺っていた。同席しているべきスキピオはラエリウスとほとんど同時にこの邸を訪れた義弟に付き合って書斎にいて、その視線は女主人の行いを監視するものというよりはラエリウスの振る舞いを案じるもののようだった。この繊細で、いかにも頼りなく、か細い婦人が、家族ではないものの心ない振る舞いに傷つく様子を知っているのだ。
 目元にかかった前髪を掻き上げず、センプロニアはじっとしている。彼女が親友の婚約者となってからの付き合いなのだがどうにも、打ち解けるにはよほど時間が必要なようだった。
「彼は……落ち着いた色が好きでしょうね。貝を拾うとき、言っては悪いのでしょうが、地味なものばかり私に渡します」
「地味な……」
「緑など、好きだと思いますよ。あなたの髪の色合いを褒めていましたから」
 そう言ったときセンプロニアの視線が動いた。侍女の視線も動いた。ラエリウスは彼女らの琴線におのれがどう触れたものか分からず、目を瞬いたが回答は得られない。
「機織りを、しますでしょう」
「ええ」
「わたくしはあまり上手くありませんけれど、それでもいたします。それで、その……やはり好きな色のお召し物を差し上げたほうがと、お母様が」
「ああ、それだから、直接お伺いにはならなかったのですか」
「え?」
 きょとんとして、思わずといったように上げられた顔には幼さが残っていた。婚約のときにはほんの子供だったセンプロニアも結婚すべき年齢の少女となり、この家に入って数年が経つ。それでもまだ娘なのだと思わせる風情をラエリウスは決して悪い意味ではなく幼いと思った。
 どうしてそう思われるの、とぼそぼそと言ってからセンプロニアはすこしだけ顔を赤くして、「違います」とラエリウスの目を見る。
「ちがいます、わたくし、あの……」
「驚かせようと思ったのでは?」
「そんなふうに、楽しく考えていたのではないんです……ただ、いまさらそんなことを聞くと、察しが悪いと叱られそうで」
 ラエリウスはまた間を開けた。互いに何かを言い合うたびに意図を察しかねて相手の顔を見、それからひとりで合点して喋り出すというのをずっとやっている。
 仲がいいねとスキピオがいつか、自分の細君と親友とを見比べて言ったとき、その何気なさにあふれすぎた発言に同席した彼の兄はひやひやしたのだと聞いた。
「スキピオはあなたを叱らないでしょう」
 養子に入った家に連なる血筋の、大切な女性だった。センプロニアについて話すときのスキピオは実父よりも岳父を真似ていたし、決して蔑ろにはしない。
「……わたくしが、叱られたと思う顔をいたしますわ」
「がっかりした顔を?」
「いいえ。いいえ……ラエリウスさまには、きっとお分かりになりません。あの方はあなたといるときにいちばん幸せな顔をなさいます。それは当然のことなのです、わたくしもあなたのことを尊敬していますから、そういう方が夫のそばにいることを嬉しく思います。けれど……」
 唐突に饒舌になり、唐突に、思いつめて口を閉ざす。その癖がよく似た夫婦なのだった。
 ラエリウスが優しい顔で待ち続けているので、センプロニアは沈黙を押し付けて話題を変えてもらう策を取りやめた。「機織りをお喜びになりません」と言った彼女の声は震えておらず、萎んでもおらず、ただ諦めきったような無力さを帯びていた。
「女ならば、しなくてはならないことですのに、しなくともよいとおっしゃいます。下手だとお思いならばそうおっしゃってもよろしいのに、お優しいから」
 貴族の女は機を折り、その他の多くの家事を奴隷に任せるものだ。その機織りという仕事さえ手についていない女性のおおいなかで、このセンプロニアの考えは彼女の母の教えをよく反映しているのだろう。伝統的な女性の理想像を、そして革新的な女性の手本を示す彼女の母の姿しか、センプロニアは知らない。
「センプロニア様、彼は……」この夫婦の間にはたくさんの齟齬がある、しかしそれをひとつひとつ正すことが自分のすべきこととは思えなかった。誤解を解くことはそれが小さくとも大きくとも難しく、他者の口を介すればその当人たちの考えからは遠ざかってしまうものだ。
 ラエリウスはまた俯いたセンプロニアのか弱い背中と、きっと自分と同じように歯がゆく思っているのだろう侍女を交互に見る。
「彼は、きっとあなたの織る布で作った服を喜びます」
「そうかしら……」
「そうでないならば、私はスキピオとすこし喧嘩をしなくてはいけない」
 小さくセンプロニアが微笑う。夫が友人とする喧嘩が子供のするよりも稚拙なのを知っている。
 少年の弾んだ声が聞こえ、センプロニアはそちらに顔を向けた。一度は急激にどん底にまで落ちた彼女の気持ちは弟の姿を見れば浮上し、ともにこの部屋に近づく夫の姿を見れば、どうなるだろう。笑ってくださればいいと思いながらも、彼の顔をみてまず最初に笑むのは自分なのだろうとラエリウスは思わないではいられなかった。

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