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 珍しい硝子の器を割った時、叔父は怪我をしていないかと言うだけで叱らなかった。大切な手紙にインクを零した時、叔父は溜息をひとつついて許した。帰りたくないと駄々をこねてへばりついた時、叔父は笑って、今度は自分が訪ねるからと言った。
 この人は、どうやら怒らない。マクシムスは自分の家で父に日に一度は必ず叱られている自分を顧み、それは叔父の性格によるものと思った。従兄弟のトゥベロが叱られているのも見たことがない。
 父はそう思って好き勝手している息子に、本当の怒りを買った時後悔することになると何度か言っていたが、それは脅しとしか受け取らなかった。本当の、というのも、大したことはあるまい。穏やかな叔父は、自分の奴隷にさえ優しい言葉遣いをして、叱責に汚い言葉を用いることがなかった。
「クィントゥス!」
 だから、背に投げつけられたその声が叔父のものだと、振り返るまでマクシムスには分からなかったのだ。
「こちらに来なさい」
 義弟が自分の声に驚いて泣き止んでいるのに、そのすぐそばに膝をついた叔父は気が付いていないようだった。ティベリウス・グラックスは目をまん丸に瞠って、義兄と親戚の子供とを見比べていた。
 部屋の戸口に出て行きかけたままの姿勢でいるマクシムスに、もう一度、叔父は同じことを繰り返した。こちらに来なさい。つまり、何故だか分からないが怒っているーーものすごく怒っている叔父の目の前に。
 嫌に決まっている! これで相手が父なら、大人しく歩いていってお説教を受けているだろうが、何が起こるか分からないのだ。厳しく顰められた眉も、優しげな色の代わりに冷たく鋭い色を湛えた瞳も、未知である。
「……」
「君の父上は君にひとつも躾というものを施していないようだね」
 ぎょっとして顔色を変えたマクシムスに、叔父は冗談だとは言わなかった。そんなことはない、と、この場にいない父親を庇う気持ちになって、ようやっと足が動いた。
「何をしたのか説明なさい」
 最初は彼の兄と同じことを言うのだ、とまごつきながら口を開いたマクシムスは思った。
「そいつの……」
「そいつ?」
「ティベリウスの!」
 彼らの足元には、無残に引き裂かれてしまったパピルスの巻物が転がっていた。書物は脆く大切に扱わねばならないもので、しかし単に壊したというだけで、叔父がこうも怒ったことはない。
 その日、マクシムスは自分の父でなくティベリウスの父親であるグラックスに連れられて叔父の屋敷に来ていた。グラックスが自分の息子を連れて行くついでに迎えに来てくれたのだが、正直なところ、マクシムスはこのティベリウスをさして好きでないので、少しばかりがっかりしていたのだ。叔父とふたりで遊べるものと思っていたから。
「ティベリウスの持って来てた本を破いた……」
「それだけかい」
「んん……」
「クィントゥス、どうして破いたんだ」
 取り上げたからだ。無理に引っ張って取り上げて、そうしたら破けた。
 しかしそれを言うと、怒りがますます深まるのは目に見えていた。そして言わないでいれば、この気まずく居た堪れない時間は永久に続くのだった。
「義兄上」
 小さな声でティベリウスが呼ぶと、叔父は厳しい顔つきをさっと消してそちらを見た。
「僕……破れてしまって、びっくりしたんです。それで泣いてしまったの、それだけなんです」
「ティベリウス、庇うことないんだよ」
「……いいえ、それだけです」
 おとなしく素直な性格の、大人たちが褒めそやすような優等生が嘘をついていた。彼の方もこの気まずさに耐えかねているに違いなかったが、そのやさしい眼差しが自分の方を見ると、地団駄を踏みたくなった。
 何の本だと訊いてもなぜか恥ずかしがって答えないから、見てやろうと思ったのだ。同い年の彼らはついこの間家庭教師について勉強を始めたところで、大人の読むような本に太刀打ちできるはずなかった。だから、格好つけてるんだと思って。
「俺がむりやり本を見ようとしたから破けたんだ」
「嫌だと言われたのに?」
「そう! ティベリウスが嫌って言ったけど見たかったから。そんで泣かせた」
 泣くことあるかよ、と内心毒づいたが、流石に言わない方がいいと察せられた。叔父は、ティベリウスがあげた「やめて」という声を聞いて、すぐにこの部屋にやって来たのだった。
 思えば彼は、泣いているティベリウスや破れた書物を見たときには怒っていなかった。マクシムスは彼が来たので泣き出したティベリウスを宥めてくれると、そう、安心してさっさと自分は退散しようとしたのだ。
 叔父が、眉を下げてしまったティベリウスの頭をひとつ撫でてやって、少し声を穏やかにした。
「僕がどうして怒るのか分かっているね、クィントゥス」
「逃げたから?」
「謝りもせずに。君はまだ、彼に謝っていないし、すまないと思っていない」
「……思ってるよ」
「そうかな。君は気まずいとか、怒られるのが嫌だとか思って、後悔はしているけれど、ティベリウスに悪かったとは思っていないよ」
 見透かしたような物言いがまるきり正しくて、マクシムスは目を擦った。泣いたりするのは男のすることじゃない、とは、家庭教師のようには叔父は言わないのだ。
「ごめん……」
 くぐもった声だったけれど、ティベリウスは頷いた。義兄とマクシムスとを何度か見てから、戸口の方に小走りに向かって行った彼を、グラックスが迎える。
 いつのまにか騒ぎを聞きつけて、センプロニアとともに見守っていたのだろう。自分の父も母も一緒に来ていないのがこれほど、嫌だと思ったことはなかった。
「クィントゥス」
 伸ばされた手を避けたのに、叔父はマクシムスの小さな体を抱き寄せて、自分に向き直らせてしまった。泣くのを堪えているせいで赤くなった顔に彼は目元を和ませる。
「さっき、君の父上を侮辱されたくなくて立ち向かったのだろう。偉かったね」
「…………」
「ほら、泣かなくてもいいよ。おやつの時間だ、センプロニアが用意してくれているから」
「……叔父上?」
「なんだい」
 甥の右手を握って食堂に向かいかけていた叔父は、いつも通りに首を傾げた。
「怒ってないの?」
「怒ってないよ」
 可笑しそうに笑った叔父は、腕を伸ばすともう軽くはない体を抱き上げてくれた。
 首にしがみついた子供に涙だの鼻水だので肩口を濡らされてもひとつも嫌そうにしないで、けれどおやつは夕飯に差し支えないだけと言い加える。
 叔父は本当にひとつも怒っていなかったのかもしれないとマクシムスは思って、それがなんだか怖かったけれど、そんなことはすぐに忘れてしまった。

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