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 奴隷が来客の知らせを持ってきたのは、ちょうど腕の中で甥が寝入ったときだった。乳母に預けるのも忘れて慌てて別荘の表に出たスキピオの姿を認め、来客の方も目を瞠っていた。
 メテルスは簡単に外套を身につけた姿で、誰も伴っていないようだった。彼は馬の手綱を奴隷に預けながらスキピオが腕に抱いた赤子を見、スキピオを見る。せっかくの眠りを妨げられてぐずり始めた甥と思いがけない客人とに手一杯になりかけている若者に、少し首を傾げた。
「邪魔をしたか」
「いいえ、でも驚きました、メテルス殿……どうしてこちらに?」
「報せずにすまない、偶然近くまで来たものだから」
 縁者を訪ねる途中、ウェリアのことを思い出して同行者から離れて立ち寄ったのだと。言いながら、彼の目は乳母に渡される赤子に向かっていた。
「パウルス殿にお会いできるか?」
「父は休んでいるところなんです。すぐに起きると思うのですが……」
「待たせてもらえると有難い」
「はい、是非」
 スキピオの父がローマを離れてウェリアの別荘に移ったのは、ほんの数ヶ月前のことだった。患っていっときは危ういものと思われたが、医者の勧めに従ってやって来た南イタリアの田舎で幾分持ち直している。
 パウルスを慕う人の来訪は珍しくないけれど、頻繁ではない。スキピオや兄さえしばしば訪ねるわけにいかず、会うたび父に冗談めかした不満を言われた。
「あまり寂しがらせると、ローマに戻ると言い出しそうで……」
「戻られるわけにはいかぬのか、まだ?」
「ここでやっと落ち着いているので、多分、戻ることはないと思います」
 スキピオにとっては造作ない旅程も、ローマの喧騒も、ここに比べれば淀んだ空気も、いまの父には負担だった。人に語るとどうしてか受け入れやすい。
「残念だ、私にとってばかりでなく」
 メテルスがそう言うのがうわべばかりのことではないと、彼の面持ちから読み取ることさえできた。
 彼の首筋に汗の伝うのを見て、応接間よりも風の通る中庭に通した。父がよく使う庭先の椅子と卓とを日陰に移して、あとはよく気の利いた下女に任せる。
 兄夫婦は継母とともに出かけていた。赤子の泣く声はなく、また眠れたものと内心で胸をなで下ろす。一度泣き出せば母や乳母でもお手上げという子だ。
 外套を脱いだメテルスも同じように耳を澄まして、「よくああしているのか」と若者を見やった。
「クィントゥスですか? あの子は兄の子で、僕が構うのは義姉の許してくれるぶんだけ……可愛いんです、兄に似てる」
「最初貴公の子かと思った。結婚はまだだったな」
「ええ、でも少し楽しみな気がしています」
 子供を欲しいと思ったのは、妹が男の子を産んだときが最初だったように思う。思おうが、思うまいが、得ねばならないことに変わりはないが。
 メテルスにはすでに子があって、その男の子はいくつだったか思い出そうとして、連れて来てくださればよかったのにと、思わず声に出した。
「ピュドナでの戦いの年に産まれた子なら、四歳か五歳ですか? 父はきっと喜びますよ」
「子供が騒いでは障るだろう」
「それどころか、父はクィントゥスが泣いたり叫んだりすると元気になるんです。僕も会ってみたい」
「貴公には、じきに顔を見せることもある。今はまだ母親の手に任せているような頃だ、連れ回せはしないよ」
 トガを着せた幼い息子を伴って歩く頃には、メテルスは元老院に席を得ているだろうか。
 マケドニアでのペルセウスに対する戦争で、彼は将校としてパウルスの下についていた。ピュドナの戦勝を元老院に報告する使節に兄とともにメテルスを選んだ理由に、当時彼に身重の妻があって、あるいはもう子が産まれる頃だと父が知っていたことは僅かにも影響しただろう。
 こうして訪ねてくれたのもきっとその縁だった。言葉少ななのはやはり父を煩わすまいとしてか、それだからその静けさは少しも嫌でなかった。
「ーー父上」
 さほど長いことそうしないうちに、寝室からパウルスが姿を見せた。先程の下女がすでに来客を伝え、いくらか身支度をさせたものだろうか、すっきりした面持ちである。席を立ったメテルスに、嬉しげなふうに笑いかける。
「やあ、よく来てくれた。見苦しい格好ですまないな」
「いいえ……ローマで心配されているよりずっとよいお姿で、安心しました」
 それは世辞でなく、父は支えられずしっかりと立ち歩くことができた。それでもそばに寄って手を取るスキピオを心配性だと言って、父はいつも昼寝の後は散歩をするのだとメテルスを誘った。
「海辺に向けて少し歩く。みな寝ていろと言うが、こんなにも何をしない暮らしは初めてで落ち着かない」
「でも父上、今日は少し日差しが強いですよ」
「ほら、この調子だ」
 起き上がりほとんど以前のように暮らしているとはいえ、体力はずっと落ちてしまった。そのくせ日傘をさすなどまっぴらだと言う。困ったものだが、メテルスはパウルスの意に沿うようにしたいと頷いた。
 それでは仕方がないと、スキピオは奴隷の一人を呼び寄せてパウルスの杖代わりにさせた。父の外套をピンで留めながらあれこれと言い立てるのを、パウルスは形だけうるさそうに聞いている。
「お疲れになる前に戻ってきてください、それなら僕も母上に叱られず済むので」
「なんだ、お前はついてこないのか」
「だってお邪魔になったらいけませんから。……メテルス殿」
 念を押すつもりで見上げれば分かっているというように頷かれ、スキピオは彼らを見送った。何を話すものだか、気にならないと言えば嘘になるし、一緒に語らいたい気持ちもあるけれど。
 客間で小さなベッドにおさまって寝息をたてるクィントゥスのそばに座って、思い出されるのは幼い頃に目にした葬列だった。
 貴顕の士は、その死を多くの先祖に迎えられる。比喩でなく親類縁者が死顔を模った蝋製の像を被り、先祖に成り代わって葬列を歩くのだ。その像が多いほど家系の長く続くこと、誉れとなる人の多いことがひと目で分かる。フォルムへと葬列がたどり着くと、先祖たちの列席のもと、故人の徳と功績を称える演説が行われる……メテルスがその父のため演説を行ったのは、いまのスキピオよりなお若い頃のことだった。
 父のためには、兄が読むことになる。スキピオは父が遺書を以前より入念に、たびたび書いているのも分かっていた。弟たちが夜の間にひっそりと葬られたのとは違って、多くの人の哀惜に囲まれるだろう。
 スキピオはまだ少年の身で養父のために葬列を率いた時も演説を行った時も、取り乱さずにいられた。死への準備を虚弱であった養父はずっとしていて、心構えさえ、スキピオに教えてくれたものだ。パウルスも同じように考えている。残される妻に、彼の手元にはない子供らに、迷惑などかけまいとして。けれどスキピオはまだ耐えられない気がしていた。
「おまえは僕と同じで、祖父を知らない子になるんだろうね……」
 デルフォイに連れていって、円柱に据えられた騎馬像を見せてやっても、それはやはりクィントゥスに彼の祖父を教えることにしかならない。像を見上げても、その声は分からない。
 か弱く柔らかな髪を撫でるうち、うとうととしていたらしい。肩に触れられた感触にはっと引き戻されて顔を上げると、父が笑っていた。
「メテルス殿は……?」
「同行者を待たせているからと言ってもう発ったよ。わざわざ寄り道してくれたらしい」
「ご挨拶したかったのに」
「ローマで会うだろう? また訪ねて来てほしいものだが」
 父が客人を喜ぶのはいつものことだが、そのように言うのは珍しかった。息子の疑問に気がついてもパウルスは答えず、その手はすこし熱っぽいように思われた。
「以前はあまりそう思わなかったが、今日は彼の父君を思い出したよ」
「親しくなさっていたんですか?」
「それなりに。ポリュビオスに聞いてみるといい、私より面白い話をするかもしれん。……手が冷たいな」
「父上の手が熱いんですよ。お水を……」
 そうスキピオが立ち上がりかけたのをそっと制し、パウルスは彼の子と孫とにじっと目を落とした。父は、とスキピオは思う。彼の幼い頃から父は子供らに対し穏やかで優しく、一方で公人としては厳しさがあった。このウェリアで見る父に、執政官として市民を叱責した人の面影は薄い。
 寂しい、と思うのは、こういう時だった。
「彼はお前を友人だと」
「父上にそう仰った? ……嬉しいな」
「ああ、私も誇らしい」
 パウルスは痩せた頬を上げて、子供にするように彼の次男の頭に手を置いた。
 兄たちの戻った気配にクィントゥスが目を開き手足をばたつかせたのを父が抱き上げ、ゆったりとした調子で部屋を出る。スキピオはそれを追わず、少し隔たった家族の声を聞いた。
 数日後、突然の訪問を詫びる手紙の添えられた見舞いの品がメテルスから別荘に届けられ、父からの返事はスキピオに託された。なにやら意味ありげに笑ってそれを寄越したパウルスにわけを聞いても、父は彼によろしくと言うばかりだった。

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