紫のトガには星々が散りばめられ、月桂樹はその香りを振りまきながら頭に冠として戴かれている。魔を遠ざけるべく首に下げられたブッラだけはどこかあべこべだった。それが黄金であることが特別なのだが、自分の首にも同じものがある。象牙の笏と、これも月桂樹の枝を両手に、彼の部下たちと言葉を交わす父の姿を、近づくほどに異様なものとして子供は見ていた。
誰しもが晴れやかに笑う。そういう日だ。人々の浮かべる笑顔と同じくらいにあっけからんとした空が小さな雲を泳がせて、市壁の外で茂る緑を輝かせている。何もかもが特別な日だった。父は長らく戦地にあり、子はその帰りを、このような日の訪れを夢見るのと同じに待ちわびてきた。
父もまた、彼は子煩悩な人であるから、故国への帰還と子らとの再会とを同じように思っていただろう。小さな姿に気がつくとすぐに父は破顔した。家にあっては優しげに笑う父なのだが、そのときばかりは、どこか剛を思わせる太い笑い方をした。誇らしかったのだと後になれば分かることだが、子供であるから、兄がそれに応えて微笑むより先に、プブリウスは何かが辛抱できなくてわっと泣きだしたのだった。
「プブリウス?」
弟の手を引いていたクィントゥスがぎょっとして、父と泣く弟とを見比べる。周囲の将校たちも驚いた顔をして、彼らの将軍の子供がわんわん泣くのを遠巻きにしていた。プブリウスは、なぜ泣いたのだか、そのときには全く分からないで泣いていた。
両手にしていた笏と枝とを近場の者にぽいと預けて父が近寄ってくるとますます声を大きくして泣くものだから、クィントゥスのほうが追い詰められた顔をする。
「どうしたんだい、ねえ、あんなに楽しみにしていたのに」
父に向けて言い訳するみたいに言って、きつく握り締められたままの指を揺らす。兄だってその頃はまだ幼くて、母の手もとにあったのに、泣きじゃくる弟を宥め賺そうといろいろなことを言った。ほとんど一年、執政官としての責務を果たすために家族に会えないで過ごしてきた父は、伸ばした自分の手から子に逃げられて、ほんとうに困った、いやそうでなく、傷ついた顔をして、けれども誰のことも叱らなかった。
この一年ほど、プブリウスは母や兄や、親しい人々に、父のことをよく語り聞かされてきたのだ。みっつかそこらの幼子では、一年もあれば親の顔を忘れるのではないかと心配して心配して彼らはそうした。あなたのお父上のお父上のお話しもしてあげようと言って、その武勲、誇り高いこと、死に際にまったく恥じるべきところのなかったことを語ったものもあった。プブリウスと兄の祖父は先の大きな戦争の、いちばんひどい戦いで死んでいた。その話がいけなかったような気も、する。母の膝元で他愛のない手遊びをして、疲れると眠って、起きればまた母の裾を追うような、そういう小さな生き物は単純だった。
「おとうさま」
けれどもしゃくり上げるのに混じってそう呼んで腕を伸ばしたから、父はほっとして、プブリウスを軽々と抱き上げる。クィントゥスのことも引き寄せて、まるで藁の束をそうするみたいに容易く子らを腕に立ち上がると、将校といくらか言葉を交わした。
誉れある将軍の身を包むトガからは嗅いだことのないにおいがして、どこか気恥ずかしげにきょろきょろとしている兄も、そのときになってはじめて父を不思議そうな顔をして見上げるのだった。紫なんて色は、花のほかには見ることが少ない。父の被る月桂冠だって子らは見たことがなかったし、整然と並んだ兵士たち、将軍の戦車よりも前に並べられた黄金などの戦利品も、現実のものとは思われない。
「泣いて腫らした目をしていたのではみんなに笑われてしまいますよ」
「なに、遠巻きにしていれば分からないさ」
朗らかに言い合う将校たちは、父が子を抱えたままで笏も枝も捨て置いていきかねないので子供たちに向けて、君たちはこの戦車にいっしょに乗るのだと教えた。つまり父と同じ場所に立って、市民の歓呼を、まるで自分に向けられているかのように聞く。ブッラを首にぶら下げる幼子だから許されるのだ、幸運だと、それは母が家から子供たちを送り出すときに言ったことだった。
凱旋式というものを、クィントゥスもプブリウスも、夢見るべく定められている。父とて同じで、だからこの日は素晴らしいのだ。
「怖いか、プブリウス」
まだ涙の乾き切らないのに、プブリウスはそういうときには強情になって首を縦には振らなかった。
「おまえがとつぜん泣くものだから、少しあった緊張がみんなどこかにいってしまったよ」
驚きとともに兄は父の目を覗きこんだ。
「緊張なさっていたんですか、父上が?」
「少しだけさ」
戦車のうえに下ろされて、クィントゥスは御者と馬とにぺこりとする。子らをマルスの野まで連れてきた家内奴隷が近寄ってきてやや乱れた子供のトガを整えてくれると、母のここにいないのが寂しい気がした。
不意に前方が騒がしくなる。将校たちは散り散りになって自分の馬のもとに行き、凱旋将軍の戦車を引く四頭のひきとわ立派な馬が、よく心得ていると言うように嘶いた。つま先を立てるとやっと戦車から顔の出る小さなプブリウスの手を兄が握る、どうやら父のもとから去った緊張は兄に居着いてしまったようだった。
兄弟が顔を見合わせる間に、行列が動き出す。それまでも静かだとは思っていなかった周囲が一挙に、熱を上げたように思った。馬は駆けておらず、父は真っ直ぐに前を向いているだけなのに。城門を前にして全員がその武器を置く、先頭の喇叭手がやかましいまでの音を上げて人々に待ちかねたものの到来を報せる。プブリウスは樹の枝で作られたアーチをくぐる間際に撫でられた頭を押さえて、もう泣いたことなど忘れ、高揚らしきものが身を軽くしていた。市民の歓呼をプブリウスは耳にした。それは彼の父を呼ぶ声なのだ。
兵士たちは口々に将軍に好き勝手な罵声を浴びせる。けれどもそこには父を嫌う色なんてなかった。戦車を騎馬で先導する将校はみな忙しなさのない程度に市民を見回しているーー父は動かない。
プブリウスが母の姿を探して、とうとう見つけられないようだと分かって見上げた父は、前を見据えて背をすとんと伸ばしていた。堂々として、揺るぎない。幾千の敵を殺し、こうして無事に帰ってきた勇士はまるで、まるで神のようだった。だからプブリウスは泣いたのだと、誰か気がついたものがあるだろうか。
「汝の後を見よ。汝が人間たることを忘れるな」
はっとして、プブリウスは父の頭に黄金の冠をかざす奴隷を見上げる。馬車に乗り込んだのは自分たちだけではなかったのだ。公の持ち物である奴隷は、将軍の後ろ姿だけを見ているのに、この場にあって浮ついていないのは父と彼だけだとプブリウスには分かった。
「汝の後を見よ。汝が人間たることを忘れるな」
なぜこれほどの騒ぎの中に、低められた声がかき消されないのだろう。じっと自分を見つめる子供になど気を払わないで奴隷はずっと同じ言葉を繰り返す。お前は人間なのだと、まるで呪いのように言う。なぜそれがそのように呪わしく響かねばならないのか、プブリウスはまた父を見た。
そんな風に落ち着かない弟のそばで兄は父に倣い前を見ようとしていた。たまに視線が散じるほかにはじっとして、将軍の長子としてそこにあった。そのクィントゥスを横目に見守っていたらしい父がプブリウスの目に気がつくと、彼の両のまなこはまた向かうべきところへ戻る。
すると泣きたいような、母の膝に額を埋めてしまいたいような、どうしようもない心地がした。そのときただの小さな子供であったプブリウスは自分が生きているうちに凱旋式を、それが自らの誉にしろそうでないにしろ、四度も進むのを知らないでいた。
お祈りをしなさい、と母は言っていた。父が運命の女神に愛されるよう、そして決して、愛され過ぎぬよう。絶やされぬ竈の火を守る女の手が子の祈りをも守っていた。ならばその祈りが、父を守らぬ道理があるか。後を見よ。繰り返される。汝の後を。ーー決して、自分は振り返ってはならないのだと思った。だからプブリウスは後を見ることができなかった。