青褪めたアラウァキ族の使者たちが立ち尽くし、ローマの指導者たちを順繰りに見つめる。誰か一人でも声を上げ、彼らに手を差し伸べはしないかと念じ、しかしその期待は儚いものと既に知っている、暗い目をしていた。
ヒスパニアに派遣された執政官マルケルスが敵として打ち倒すべしと任務を負った相手がアラウァキ族の人々である。そのマルケルスにより元老院へ送られた彼らは、ケルティベリアの部族のひとつアラウァキ族においてローマとの和平を望む一派に属していた。マルケルス自身が和平を目指して動いているがためにこうして長い道のりを越えてきたのだ。
だが──元老院に席を得て間もないスキピオの位置から、執政官を務めた人々の表情は読めないが──彼らを囲むほとんどの者は、彼らとの間に妥協を許そうとしていない。
「あなた方の言い分は確かに聞いた、出て行くがいい」
そうして追い立てられるように使者が議場を出ると、マルケルスは何をしているのだ、と誰かが声を漏らした。ざわめきには溜息が混じる。和平が叶うならば受け入れるべきではという声もあったが、これは我々が受け入れるべき終結ではないとする意見に押されているようだった。
場の空気に薄らと厭気が混じるのは仕方のないことと言えた。この二年ほど、ヒスパニアの情勢はしばしば問題となって元老院のみならず市民までもを憂いさせている。
ハンニバルとの戦争ののちカルタゴの覇権が失われて以降、ヒスパニアは二つの属州に分けられローマの支配下に入った。しかし彼の地が安んじてその統治を受け入れることはなかった。結局のところ、アフリカからやってきたカルタゴ人とイタリアからやってきたローマ人の違いなど、当地の人々にはありはしなかったのだ。
統治開始以来反乱が相次ぎ多くの将軍が派遣され、容易くはない戦いが繰り返された。平和の創出は、およそ三十年前に執政官として派遣されたグラックスがその徳と公正な統治によりケルティベリア人の信望を得てようやく叶った。グラックスによる協定のもと暫くの平穏が保たれたが、その年月の重なりこそが綻びを生んだとも言えるだろう。
協定の解釈を巡りセゲダの町とローマの間に摩擦が生じたのを切欠に、ケルティベリア諸部族の間に燻っていた火がその手を広げるのはあっという間だった。また同時に、その火を鎮めるのは並大抵ではない難事であることがすぐに明らかとなった。
従軍を忌避し、徴兵を逃れようとする若者が増えている。その傾向が歴然として元老院の前に現れたのもその結果だ。ローマ軍はヒスパニアで大きな被害を被り完全な決着は得られず、戦いは予想に反して長引き、兵士たちは自らの畑が荒れていくのを想像するしかない。その上、兵士たちが持ち帰りうる戦利品は東方で期待されるものに比してあまりにも貧しい。
──そうした風潮が市民全体にヒスパニアでの戦争への倦怠として広がっていた頃、スキピオはマケドニアより手紙を受け取っていた。パウルスの縁を辿ってスキピオの元に届いた便りは、マケドニアに生じている内紛についてと、その仲介をスキピオに頼めないかというもので、当地ではその声が多く上がっている、と。
「これは僕でなくとも助けてやれるだろうと思うのです」
他の者の名を挙げる向きもあるのだろうし、正式に招かれているわけではない。父の縁と言うならば他にも当てはあるだろう──しかし、父がマケドニアに残そうとした秩序もまた脆い、と思わされる。
手紙に目を通していたポリュビオスは、そうでしょうねと拘りなく頷いた。既に日が落ちた書斎には二人分の影だけがランプを頼りに伸びている。
「私を伴ってくださるならこちらを引き受けなさいと強く言ったでしょうが、あなたは心を決めておられるようだ」
「ヒスパニアには行きたくありませんか?」
「そんなことはありませんよ。どこであれ、耳でしか知らぬ場所には訪れたい」
この数年はスキピオやファビウスの屋敷でなく、自身の家を構えて暮らしているポリュビオスは、何かと用事があって忙しくしている。主な用事といえば彼が構想している歴史書の執筆のための取材であり、暇は自分に向いていないというのが彼の弁だ。スキピオも知らぬうちにあちこちで知己を増やしているものだからやきもきさせられることも少なくないが、その返事を疑ってはいなかった。
「では、準備をしていてください。あまり先生に頼らないでいいようにしますから、取材旅行のつもりで」
ポリュビオスは薄く笑みを浮かべ、しかしすぐに目を伏せた。彼のこの気鬱は、スキピオにとっては慣れないものではない。ポリュビオスがローマにやって来て少し経った頃には、こういう表情で無口になることがあった。それも十六年も前のことだ。十六年、彼は何度もアカイアから使節がやってきて人質の帰還を求めてはそれを果たせず帰っていくのを見送ってきた。
「ポリュビオス」
スキピオは既に、初めて出会った当時のポリュビオスの齢に達していた。少年の頃にはもっと早く彼を帰してやれるつもりでいた。ポリュビオスはそのような楽観に浸ったことが一度もないと、理解したのはごく最近のことだ。
「これは、きっとあなたのためにもなります。信じていてください」
手を握ると、彼は頷いてくれた。未熟な少年が信じるようには望めなくとも、必ず果たされる約束だと知っていると、答えるように。
「──スキピオ、夕食の支度が済んでいます」
話の済んだ頃を見計らって外からかけられた声に、スキピオは立ち上がる。戸を開くと侍女をひとり伴ったセンプロニアがきょとんとして夫を見上げていた。
「……どうかしました?」
「いえ、その……なんだか嬉しいことがあったように見えて」
今度はスキピオが同じ顔をする番だった。ぺたりと顔を触ってみて、ポリュビオスを振り返るが、師は素知らぬ顔でいるだけだ。
「そうだとしたら気が早くて恥ずかしいな……センプロニア、詳しいことはきちんと決まってから話しますが、留守をお願いすることになると思います」
「それは、あのお手紙と何か……」
「ああ、いや、違うんです。それも決まってからお話しします」
センプロニアはそうですかと細く言って、それ以上は尋ねなかった。ひとりでは寂しいだろうから実家を訪ねなさいと言えばおとなしく首肯し、食堂へとスキピオらを促した。
スキピオは、ヒスパニアでの戦争は遂行され、完全な全面降伏と武装解除を敵から得ねばならないと考える側に属していた。既に元老院は執政官マルケルスによる和平の働きかけを退け戦争の継続を命じ、新たな執政官の派遣を決定している。そこで、徴兵が問題となるのだ。
元老院でスキピオが発言の機会を得たとき、彼に視線を向けた議員たちの多くは何を言おうとしているのか予想していなかった。
「私を執政官と共にヒスパニアへお送りいただきたい」
スキピオは居並ぶ議員たちよりもむしろ、議場を見学する若者たちに届くよう声を発した。
「軍団副官としてでも、補佐官としてでも構いません。マケドニアへ向かう方が私にとってはよほど安全ですが、ヒスパニアの状況はいっそう切迫し、真に名誉を重んずる者を招き寄せている。私がいま祖国のため為すべきはどちらか、明らかであると思います」
議場を巡らせた目線は最後にルクルス、ヒスパニアへ派遣される執政官へと向かった。驚きを表していたルクルスが、はたと気がついて立ち上がり、「願ってもいないことだ」と両手を広げる。
「誰かが私の元に来てそう言うのをずっと待っていた、君のような若者をだ」
両者の意図するところはすぐに察せられ、誰も反対の声は上げなかった。つまり、スキピオの同輩たちはこれ以後従軍への態度を必ずスキピオと比べられることになる。誰もが逃げているならば誰かひとりが責められることはないが、立ち向かう者が現れてはそのほかはみな批難を受ける。スキピオが自らヒスパニアへの従軍を望んだことが市民にも知れると、倣う者が次々に出た。
補佐官への就任を願い出る者たちもあったことで出征への不安を減じたルクルスは、スキピオと顔を合わせるたび驚いたものだと繰り返した。それは他の者たちも同じくで、君はマケドニアに行くものと思っていたと、ナシカにまで言われてしまった。
「難しい状況なのはヒスパニアやマケドニアだけではない、アフリカもどうにも落ち着かん。君を呼ぶ声があるかもしれんな」
特にヒスパニアやアフリカではアフリカヌスへの畏敬は未だ息づき、スキピオの家名は大きな意味を持つ。
「決して、名を汚すようなことはいたしません」
「ああ。……いや、しかし、それも難しいぞ。君はルクルスについてあまり詳しくないらしい」
どういう意味かと問うてもナシカは言い切らず、若者の受難を見守る長者の顔で首を振るばかりだった。
果たして、彼の懸念するところはすぐに理解できた。できてしまった、とスキピオは言いたかった。ヒスパニアでは元老院が戦争の続行を命じたのちもマルケルスが和平に動いており、アラウァキ族との間に信頼関係を築いていた。元老院も受け入れざるを得ない形での協定が成立していたのだ。
一方、出発時とは状況の変化した任地に到着したルクルスはこの和平を顧みなかった。彼はアラウァキ族の西方に住む別の部族を襲い、攻撃を受けて和平を申し出たウァッカエイを裏切りその町カウカを兵士の略奪に任せた。
ルクルスは次いで軍をインテルカティアへ向ける。そのときインテルカティアの騎兵が攻囲される町の外にいたことを知ってスキピオや他の副官たちが無謀を諌めても無駄に終わった。ケルティベリアの人々から、自分が、それ以上にローマがどのように見做されるかも執政官は顧みなかったのだ。
すなわちルクルスにとってこの戦争の目的とは自らの名声、それにも増して財を成すことだった。ヒスパニアはローマから離れ、このことが元老院に伝わるにも時間がかかる。やってしまえばこちらのものという態度は、スキピオには理解が及ばなかった。カウカを追われたウァッカエイ族はルクルスの名を忘れないだろう。
──そろりと腕に触れられて、かたく顰めていた眉を解く。振り返ったスキピオをポリュビオスがいくらか物憂げな、案じているような顔つきで見つめていた。短慮は、と言われている気分になる。しかし彼はそうは言うまいとも。
スキピオの知らぬ言葉が、それでもそれがローマ人たちを嘲り辱めるために流れだすのが明らかな荒々しさで吐き散らされている。当地の言葉を解する者は通訳を求められ、苦笑するとか、怒りを恐れるとかして、素直には口を開かなかった。侮辱の言葉のひとつひとつを知らされて顔色を変える将校を前にすれば、当然と言えた。
ローマ軍がインテルカティアを囲んでからというもの、その男は幾度も、飽きることもなく、姿を見せては声を荒げていた。金銀の装飾の施された甲冑や兜、鮮やかな衣裳などからしておそらくは部族の長であろうと見えた。ぎらぎらしい太陽がその輝く武具に力を与え、巨体に見合った見事な馬までも、スキピオの目には捨て置くべきものには思えないのだった。
スキピオと同じ立場であるこの軍団の副官たちはみな、その叫びに応えない。兵士たちは言うまでもない。蛮族の勇士ははじめ期待や昂揚を追って、次第に苛立ちと軽蔑をまとって、叫んだ。一騎打ちを、と。
最初にその男の姿を見たときに、スキピオは咄嗟にルクルスの姿を探した。おのれの上官である人物はこれに乗りはすまいと確信めいて考えてはいたが、どんな顔をしているか見たかったのだ。インテルカティアの住民はカウカを奸策でもって陥れたルクルスに深い不信を懐き、門を開けという求めに耳さえ貸さない──当然のことながら。そして、ルクルスは輝かしい蛮族から目を逸らしていた。
「僕はあの方に少なからず失望したのです」
「あなたの仰りたいことは分かりますが」
「いけないことと思われますか、ポリュビオス」
苦笑を返されて、スキピオも少し口の端を緩める。これは求められるでもなく自ら就いた軍役であり、スキピオがほんの少しでも望ましくない兵士であることは許されない。だがそれは、如何な言葉でも上塗りしようのない功名心、子供っぽくさえある気の逸りを促す事実ではなかった。自分だけは、という、それこそもっとも幼稚な欲求さえ否定するには強すぎる。
彼を殺せるだろうか。自らの陣営に戻っていったあの勇士は、日が暮れるまでにまた出てきて、同じように声を荒げるはずだ。そのときスキピオが応えたとして、彼を打ち負かすことはできるだろうか?
「ここにいる、ということと……」
ぽつりとポリュビオスが言い、その先を続けなかった。スキピオには彼の言葉がどのように引き継がれるべきかよく分かる。
「ここにいることと、彼の武勇に応えること、違いがあるでしょうか?」
ポリュビオスは答えなかった。祖国で兵を率いもした彼の目には沈着な熱意が灯り、まるでスキピオを鼓舞しているようだった。彼はただ見つめている。その眼差しの持つ力の大きさを、こういうときにこそ知る。
自分だけは死なないとは、スキピオは思わない。初陣のときには死を覚悟すると言いながらどこかで、それでも自分や、父、それに兄は、死ぬことなく家に戻るのだと信じていた。いまはそう信じない。そして、それに反して自分は決して、ここで死ぬべきではない。
あの蛮族の姿を再び認めて兵士の間にさざ波のように緊張が渡っていく。呼ばれているのは自分ではない、そう言い聞かせる者の後ろめたさが、彼らの目を暗くしている。
踵を返して自分の幕舎まで行き、食事の準備を始めていた従者に声をかけた。馬を牽いてくるようにと命じられてその男が驚いたように自分を見るので、スキピオは不遜なふりをして笑ってみせた。陣営の誰も、すれ違う副官が考えていることに気が付かないようだった。
吐く息が震え、指先を冷たく感じた。はじめて弁論の場に立った日のようで、けれども初陣のときとはまるで違う感触の──昂揚だろうか。
次いで訪ねたルクルスは、自分のもとにやって来た副官の意図するところをすぐに察した。スキピオはこの執政官を尊敬することはもうできないが、冷静に言葉を交わす余地は残されていた、咄嗟に彼がその部下に示したのが心配だったので。そしてその顔つきのまま、「いいのか」と彼は尋ねた。
「あの蛮族に応えてやらぬのでは、この軍団の、ひいてはローマの権威に大きな傷がつきましょう」
「それは当然そうだが。しかしなあ……君は……」
「万が一、ということがあったとき、失われるのがあなたであってはいけません」
ルクルスよりも同僚の副官たちを絶句させることは、スキピオには茶飯事だった。周囲を意に介さず肩を竦め、冗談っぽく続ける。
「私は一族の者に笑われたくはない」
「君を笑う者があるか、まだ?」
「他の誰よりも、同じ名を背負う立場からは評価がからいんです」
「あれを討ち取ったとしても武具の奉納は叶わないと思うが」
「それに値する立場で、同じ機会を得たいものだ。……ルクルス殿、よろしいですね」
あなたが応えるのではなくて。
もう意思を曲げるつもりのひとつもない副官の顔をまじまじと眺めてから、ルクルスは頷いた。この段になって物惜しげな顔でスキピオを見る同僚たちに比べて、そのあっさりとした態度は不気味だった。
従者から馬の手綱を受け取り、兜を被って陣営を出る。そのスキピオの姿に気が付いた歩哨などが激励のつもりで声をかけてくるのに手を挙げた。案外喜ばれるのを昔知ってからよくそうしていた。
蛮族は現れたローマ人に対し、最初髭を蓄えた顔に喜色を浮かべ、次いで怪訝そうにしたが、嘲りを浮かべるよりもスキピオの軍装が示す地位を悟るほうが早かった。名乗れば、この男をもっと喜ばせてやることができるだろう。
両陣営の間の土地を、両軍からの沈黙が満たした。突き刺さるほどの視線が束になって彼らに向かい、剣闘士試合の開始を待つ観客が発するもののように、空気が揺れている。
「私の言葉が分かるのかは存じないが」
スキピオのラテン語に、男は耳を傾けていた。
「私はパウルス・マケドニクスの子、そしてスキピオ・アフリカヌスの名を継ぐ者。このスキピオが貴殿の挑戦をお受けしよう、勇敢なる人よ」
男は剣と盾とを持っていた。彼の神々が浮き彫りにされた盾の縁、銀の装飾が太陽を受けて光を放つ。そして抜き払われた両者の剣はよく似ている。勇壮を誇ったマケドニア兵を恐れさせた刃がそれだった。
相手もまた名を述べるのを──その口上が流暢ではないがラテン語だったので──スキピオはよく覚えておこうと思った。刃を交える相手の名を知ることなどそうそうあるものではない。
あなたに会えて嬉しい。そう言ってしまいそうだ。あなたがこのインテルカティアにおり、ローマ人に一騎打ちを望み、そのローマ人のうちに自分がいたことが。そうでなくてはまるで足りないからだ。スキピオがこの地に望んだものは、彼によってようやく得られる。
自らが笑みを浮かべたことにスキピオは気が付かなかったが、蛮族が目を細めるのは見た。馬の腹を蹴ったのはどちらが先か。おそらくローマ軍の兵士はスキピオが先だったと言い、ケルティベリア人たちはこの首長が先だったと言うだろう。
正確に首を、あるいは顔を狙って突き出された切っ先を躱し、盾で受けた。こちら側に顔を出した剣はすぐに引き抜かれ、その動きのままにスキピオの繰り出した剣撃を払う。男の剣は受けるに重く、そこに天与の差があった。
二度三度ぶつかり合った刃が剣花を散らし、高い音を響かせる。そう長い時間をかけられないという直感があり、腕を掠めた切っ先が血を散らせたが痛みを感じるいとまがない──相手が長物を携えていればどうなっていたかとまで思う。
下がる間もなく繰り出される追撃に左腕の盾を差し出す。そして割れた盾を捨て、馬をその懐に飛び込ませると、見上げる巨躯の逞しさに羨望がちらついた。この腕に、こんなにも剣は重いというのに。
首に食い込んだ刃から伝わるみっしりとして重い感触に、腕が戦慄く。馬が痛ましい声とともに傾いだ。蛮族の剣はスキピオではなくそ騎馬の首を抉っていた。
下から上へ、刃が皮を断ち、肉を裂き、骨にかかる。ほんの一瞬のことだがスキピオは自分が幾度も呼吸したかのように思った。暖かな血潮が剣を握る手に、腕に降り、黒の瞳を見据えた目元にまで飛び散る。
剣を振り抜く間際、蛮族は血泡に溺れながら何かを言っていた、スキピオにその言葉が分からないことはおそらく彼の不運だった。
ぐらりと後ろへ揺らいだ頭が兜の重さとともに、繋がった皮一枚を引きちぎった。首が土の上を転々とし、次いでゆっくりと──力を失っていくように胴が傾ぎ、馬から落ちる。ぞわぞわと広がっていく血溜まりを踏んで、主を失った馬が数歩を彷徨った。前後せずスキピオの騎馬が力を失って膝を崩したが、強かに投げ出されることはなくて済んだ。
地面に立っていくらかよろめきながらもなんとか姿勢を保つ。忙しない息を何度も飲み、さほどありもしない唾を喉に押し込んだ。心臓の鳴る音が聞こえるようだ、と思ったとき、それを掻き消すような歓声がスキピオの背中を打った。
陣営の柵の向こう、歩哨の立つ櫓、こちらを望めるあらゆる場所には持ち場を離れたらしい兵士の姿まで見えた。彼らはスキピオを呼んでいる。よくやったと言うのがスキピオの耳に届いた。彼は知らず、その歓声のなかに師を探したが、まさか彼が叫んでいるはずもない。
スキピオは彼らに剣を握ったままの手を軽く振った。その拍子に血が腕を伝って、彼に敵の陣営を振り返らせた。彼らは落胆か悲哀か、そういうものも漂わせていたが、どうやらスキピオを罵ることはなく、それどころか賞賛を呉れているのだった。
この一騎打ちの後、攻防が囲う者と囲われる者との間に繰り広げられたが、目覚ましい成果はどちらにもなく、インテルカティアとの和睦はスキピオの名でもって行われることになった。ルクルスによる冒涜を知っていたインテルカティアの人々がスキピオ以外の誓約に信を置こうとしないのは、神聖な勝利を知る者には無理からぬことと思われた。そしてこの講和以後、結局はマルケルスの和平が守られることとなった。
隣をゆくポリュビオスが彼らしくもなく落ち着かないふうなのを、スキピオは何も言わないでいた。
ローマの雑踏の中を二人揃って言葉なくただただ歩いている。時折スキピオに声をかけるものがあっても立ち止まらず二、三言葉を交わすだけで別れ、少しの遅れでずっと先に進んでいってしまうポリュビオスを追う、その繰り返しだった。
スキピオの師であり友人であり、このローマにあってはいくら名家の庇護があろうと人質という立場でしかない彼は、ヒスパニアからローマに戻ってすぐに手紙を受け取っていた。彼と共に連れてこられ、しかしローマからは離れた都市に移された彼の同朋がまたひとり死んだという報せだった。
長く伸びて背に波打つ髪は、ポリュビオスがこの都市を初めて目にしたときにはもっと短かったし、彼は青年と言ってもよい年頃だった。スキピオとて少年だったのだ。
そう、その頃に同じ道を彼と歩いた。
時折、スキピオはポリュビオスの隣にいる自分を幼く想像することがある。成人して数年してから出会ったというのに、脳裏ではブッラを首にぶら下げた子供が彼の傍にいる。
「ご存知ですか」と唐突に言われ、スキピオは目線を遣った。
「わたしは最初にこの道をあなたと歩いたとき、あなたのことばかり考えていました」
「最初に……」
「するとその数日後、あなたはわたしに、自分のことをもっと考えてほしいと」
「ああ、……だって、本当に焦っていたんですよ。このままでは好かれたい人に関心を持ってもらえないって……」
父がいれば父に、兄がいれば兄に。最初に話しかけ、意見を求めるにも彼らが先で、眼差しはいつもスキピオの頭上を素通りしていく。あの頃の自分は常に失望されたのかと、そればかり気にしていた。
「あなたをやさしすぎると言う者はもういないでしょうね……」
いま、この友人の胸を占めるのはその祖国のことだけなのだ。だからこそこんな話をして、狂わんばかりの嵐をやり過ごそうとしている。
「わたしはあなたの役に立てた。それを誇りとしていますよ、あなたはあなたが目指した人間の、まさにその資質をあの日わたしに示し、そしてこれほど見事に叶えてくださった。──この国のもっとも善いところを見ているという気にさせてくれる」
「……あなたがいなくては、僕はそう言ってくれる人も持てませんでしたね」
「私の帰る場所に、あなたのようなものはあるだろうか」
十七年もの間離れ、目にしてこなかったアカイア。彼の口から、やっと彼の地を思う言葉が出た。何が、という問いにスキピオは答えを持たない。ポリュビオスはすでに敬愛する父を失い、誇るべき祖国は弱まり混乱へと押し進んでいる。
「先生、他のどの場所を見ても僕はこのローマを愛するだろうと言ったのはあなたです」
足早に進み続けていたポリュビオスが不意にそれを緩め、スキピオを振り返った。かつて彼を賢者と思い、長い長い時間を知る存在のように思った日を思い出すスキピオを見て、彼もまた同じ日のことを思っている。
「そう、わたしは……たった十七歳のあなたの語る、あなたの見せてくださるこの国しか知らなかった……」
行きましょう、とスキピオが促すと、もうポリュビオスは強いて急ぐこともなく、歩き始めた。約束の時間には余裕があり、遅すぎるのも早すぎるのもよくないだろう相手なので、それでちょうどいいのだと考えたのに違いなかった。
果たしてカトーは、約束よりやや早い時間に訪れた若者とギリシア人とをすんなりと招き入れてくれた。
この人物のもとを訪ねるというのはすなわち、妹とその子供たちのもとを訪ねるということでもある。義父とともに出迎えてくれたテルティアは、十三歳と十歳になった息子たちを伴っていた。そしてその後ろに、テルティアよりも若い婦人が幼い男の子の手を引いている。
「お義父さまとのお話が終わったら、私ともお話してくださいね。この子たちとも」
挨拶の後そう言ってからテルティアは家の奥に入っていった。たったの二年前に夫を亡くした妹が、この家に留まって不幸になっていないのを知るたびスキピオは本当に安堵するものだ。
もうひとりの婦人は控えめな調子で客人と挨拶をし、すぐにテルティア……彼女の義娘に続いた。小さくではあるが彼女らの話し声が聞こえ、それが打ち解けた様子だった。
「……妹はサロニア様に優しく接していますか?」
「ああ、姉妹が増えたようだと言ってな。サロニアも同じように思っておるようだ」
いい嫁だと言う顔が娘を褒める父親のように見え、スキピオには懐かしかった。カトーがきびきびとした足取りで応接間へ向かうのに従い、彼が様々なことを話題に上らせるのに振り落とされそうになりながら答える。あの騎士は素行がよくないとか、元老院で討議に参加する議員がやたらと少ないとか、かと思えば今年は葉物がよく育つとか。
「それにつけても、カルタゴは滅ぶべきである」
椅子に落ち着いた老翁は、面白がっている顔でそう言った。この屋敷に入ってからほとんど口を開いていないポリュビオスの代わりに、スキピオはそれに笑って応える。
何も、ただ調子を合わせて笑ったのではない。カトーはそれを知っていて、専らの関心事としている話題に深く踏み込まなかった。
「カトー様、かねてからお願い申し上げていたことなのですが……」
「ああ、君はヒスパニアに行く前から顔を合わせる度にその話だった。その男をアカイアに帰してやろうということだろう」
ポリュビオスを指して言い、最後にアカイアから人質の帰国を求める使節が来たのは次男が生まれた頃だったか、とカトーが尋ねるので、深く頷く。それ以前にも何度か使節は派遣され、望みを果たせなかった。
カトーはスキピオでなくポリュビオスに向かって、君はまだ若い方だったなと首を傾ぐ。
「帰すのはいいが何人残っているのだね」
「友人のほとんどが死にました、逃げた者も相当数あるようです」
「そうだろうな。君は当分死にそうにないが」
「……カトー殿、わたしはだからこそ、祖国に戻らねばと思います。本当を言えば、とうにわたしは幻滅とか失望とか、そういうものをアカイアに感じている。それでも見捨てることだけはできないのですから」
スキピオはテーブルに置かれていた揚げ菓子をひとつ摘んで、彼にとっての偉人たちの表情をその瞬間だけは見なかった。彼らのことを、愛すべき人々と言ってもよい。だからこそ見られなかった。
「話を聞くに、君はその忠義を果たさんとして陥れられたわけだが。まだ広場に彫像を建てたいと?」
「いいえ……あなたがご自身について仰ったとおりになればよいと思います」
「その仏頂面で言われても嬉しくはないぞ」
「申し訳ありません、こういう顔で生まれたものですから」
蜂蜜の染みた揚げ菓子は、似たようなものを生家でも食べたがどこか風味が違った。食べ過ぎると腹が膨れてしまいそうだ。そういうことを考えながら耳を傾けていた会話がなんだか妙なふうに流れている。
「アカイア人の解放について議題に上げさせる。これはいい。そこの甘党は私に元老院に出てほしいらしいが、それもいいとしよう。問題は君らが夕飯をどうするかくらいだ」
「お請けくださるんですね」
「うちに来いと言った時点でそのつもりだったさ」
手紙の返事にはおよそそのようなことは書かれていなかった。ふたつめの揚げ菓子を飲み込んだスキピオはそれでも気を取り直して礼を言い、もちろん夕飯はご一緒したいと答えた。
「私はギリシア人は嫌いだ。どうしようもないことを吹聴してまわって腑抜けを増やしていく。しかしポリュビオスの薫陶を受けたスキピオを認めているからには、君を無碍にするわけにいかん」
「スキピオはこの通りの男になりましたからね」
「そうだな。一騎打ちをして族長を倒したというのも聞いたぞ、腑抜け揃いというのもたまには助けになる。臆病は蛮勇よりは邪魔をせんからな」
「腑抜けが揃っていなくとも彼は最初に挑戦に応えたでしょう」
「……僕が褒められてるんですよね?」
みっつめに伸ばした手を止めて見遣ったふたりは肯定も否定もなく、場違いな子供にするような目でスキピオを見る。
カトーも皿の上にいくつも盛られた揚げ菓子を手にとってひょいと口に入れた。
「これは私が作った」
「えっ」
「テルティアとサロニアが作るのにああだこうだ口を出しただけとも言うが。作り方を教えたのは私だ」
「……そういえば御本に、載ってましたね。いろんなものの作り方が……」
「あとで褒めてやると喜ぶ、それと子供らに分けてやってくれ。客に出すものだからとひとつも食べさせてもらえていない」
頷きながら、思わずスキピオはくすくす笑ってしまって、それを収めるのに難儀した。この人は、どうしてこうも懐かしいのだろうか。幼い頃には恐ろしい人だとばかり思って広場などで出会わぬようにしていたし、成人してしばらくも近寄りがたく思っていたのに。
カトーの長男、異母弟と区別して晩年にはリキニアヌスと呼ばれた人が優しく、心の安らぐ人柄だった。だから恐ろしくはないはずだと思えたし、接してみればそれは正しかったのだ。
養祖父とこの老人との確執、その結果を、スキピオはもちろん知っている。一族にはそれを忌々しげに語る者もあり、それは正される必要のない怒りだろう。だが同時に、とうに世を去った英雄をカトーが褒めるのも聞いたことがある。ほんの短い言葉、些細な内容で、けれども若さにかられた妬心が時とともにその席を譲った真心とともに。
「あの男は喜ぶだろう」
菓子を分け与えられてそれを頬張っている子供たちの油でべたつく手を拭いてやりながら。そうした不意の言葉でカトーは過去を持ち出すのだった。
スキピオとポリュビオスとは食堂に移り、子供らを呼び寄せて団欒に混じっていた。ポリュビオスが仏頂面のままでうまく子供の相手をしているのを、サロニアが意外そうに眺めている。
「君の養父も立派な男ではあったが、その弟はどうしようもなかった。そのどちらもが早くに死んで残されたのが君のような男であれば、悔いもない」
「……アフリカヌスが、何かを悔いますか?」
「子を丈夫にしてやれなかったことほど、親を気に病ませるものはない」
サロニアヌスに菓子を割ってやっていたテルティアがこちらを見る。彼女の目にはまさに、体の丈夫ではなかった夫が映っている。
「息子はスキピオが風邪がどういうものか知らないと言っていたと。そうなのか」
「ええ……たいていのことは一晩眠ると済んでしまうので」
幼い頃もそうだったとは兄の談で、それはいまも変わっていなかった。
いいことだと呟いて、カトーは孫たちと、彼らより幼い息子とに視線を流していく。健やかな子供と、それを守り慈しむ女たちを、いかに尊ぶ男であるか。それは彼が全霊をかけて育んだ人が語ってくれたことだ。
「三人もの男を息子を誇る父親にしてやったんだ、自慢してもいいぞ」
ばん、と背中を叩かれ、そのあまりの強さにぐっと息が詰まった。スキピオのそれよりも硬い手のひら、真っ直ぐではなく節だった指が、最初よりは優しい力で何度か背に触れ、離れていく。
父たちはみなこの世にないから、彼らをこんな風に語ることのできる人はもうほとんどいないから、だから懐かしいのかもしれない。やや遅れて返事をしたスキピオに、カトーはまたひとつ揚げ菓子をくれた。
陸路で進んだ後に船に乗り、また馬に乗る、その行程を知っていたので、不安はあまりにも大きくはならなかった。それでも、旅装のポリュビオスに持たせてやれるだけのものをみな持たせてなお、足りないものはないかと探している。
本当は港までついていって見送りたかった、と漏らすと、共にポリュビオスらの帰国の準備にあたってくれた兄は苦笑していた。からかうとか叱るとかしないのは、彼もいくらかそういう気持ちに囚われているからだ。
そうして慌ただしく準備に追われる周囲のなかで、ポリュビオスはぼんやりとしているように見えた。彼も様々な雑務をこなしていたし、文字通り茫然としていたわけではないけれど、その姿はどこか心が浮遊しているように思えるのだ。
ローマを離れるというそのときになってもその風情が抜けず、街道を進む間、彼の眼差しはイタリアの風景へ見知らぬものにするように注がれていた。スキピオが見せ、教え、他の多くの友人たちとともに行き来した場所だ。十七年間、ローマを出てどこかに行こうとする彼が、それでも祖国への道を進むことだけは許されなかった彼が、見つめ続けた場所だった。
スキピオと兄とは、他のアカイア人が帰国の旅団を組織するために集められた町までポリュビオスを送り届け、そこで別れる予定になっている。ポリュビオスにつけた従者は長いこと主人の賓客の世話をしてきた者で、ギリシアに行けと言われて見知らぬ故郷だと笑っていた。
「兄さん、ポリュビオスは大丈夫かな」
「大丈夫って、何が」
「あの様子で、うっかり物盗りにあったり、うっかり海に落ちたりしない?」
「まさか。いまは落ち着かなくても、仲間と一緒になれば気分も変わるさ」
仲間。ああ、と思って、スキピオは自分たちよりやや後ろで馬に揺られているポリュビオスをちらと盗み見た。そうだ、これから彼とともにアカイアへ帰るのは、正真正銘の彼の仲間なのだ。
「私はおまえのほうが心配だよ」
「僕の何が?」
「寂しい寂しいって言って、手紙をいくつも送りつけやしないかって。おまえ、それでテレンティウスに早く戻ってくるように……」
ぴたりと口を閉じた兄を、スキピオは睨みこそしなかったがなんてことはないと言ってやりもしなかった。異郷に渡ってその地で命を落とした友人に、たしかにスキピオは手紙を送った。しかし新作の原稿を乗せた船が沈んだ悲しみで死んでしまったなどと噂されるものを、そういうふうに言われるのは面白くない。
急に静かになった兄弟に馬を並べたポリュビオスが、あそこでしょうかと城壁を指差した。分かっていることをわざわざ尋ねたといったふうで、スキピオと兄とは口を揃えてそうだと答えた。
町に入らないで自分たちはローマに戻るのだと、これもポリュビオスには説明しておいたのにスキピオは繰り返し、開かれた門のすぐそばまで来て馬を道から逸らした。行き交う住人の邪魔にならないところで馬を下りたスキピオたちに従って、ポリュビオスも地面に足を下ろす。
その彼の手をスキピオは両手で握った。ひんやりとした手の甲、ペンだこのある手のひらを包む。
「何か困ったことがあればすぐ手紙をください。僕はなんでもします」
「ローマでのあなたの友人はみな弟と同じ気持ちです、ポリュビオス」
「ええ……ありがとうございます」
「先生」
手の主が町のほうを気にしているのが感じられて、スキピオは理不尽に憤ろしくて仕方ない。自分がいまの半分の齢だったときには可愛げがあったものだが、もうポリュビオスも笑ってはくれないだろう。
ポリュビオスは出会ったときからずっと自分よりも背が高いままなので、いつまでも最初に持った印象が抜けない。見上げた理知的な双眸に、別れを惜しむ熱っぽさはなく、けれどその意味をスキピオはきちんと読み取りうる。これが別れと呼ぶべきものではない、そうポリュビオスは信じている。
「あなたは片時も離れないでいてくださると仰って、そうしてくれた。そのあなたと離れるのは死に別れるよりも寂しい。……ですからどうか、僕があなたを求めるときには、どうか、駆けつけてください」
一、二度、ポリュビオスが目を瞬く。
「……言われずとも、そのつもりでしたよ」
「僕は言っておかなくてはいけないと思うんです。約束ですよ」
「いいですよ、約束しましょう」
腕が伸ばされ、しっかりと自分と兄とを引き寄せたので、スキピオは少し驚かされた。正直に言うならばほんの少し泣きそうだった。
抱擁は長いこと続かなかったが、ポリュビオスはじっと彼が最初に親しんだローマ人たちを抱きとめていた。この兄弟が求めなければ、そして行動しなかったならば、彼はローマで暮らすことも様々な土地や人を知ることもなかったのだ。
彼の腕の力が緩む前に、スキピオは一度だけきつくポリュビオスを抱き返した。壮年の男の、芯のしっかりとした身体は、些細な不安をいらぬものだと言ってくれるようだ。
「あなたがこの国にいらしたときと同じく、海が凪いでいるよう祈っています」
ありがとう、とポリュビオスは二度言った。一度は彼の言葉で、二度目には彼の友人たちの言葉で。さようならと言えることが本当は彼には嬉しかったけれども、その代わりとしての言葉だった。