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 フォルムに出た日には、必ず新しい友人を得ること。このポリュビオスの教えのひとつをスキピオは忠実に守ってきたが、この日ばかりはかけられる声に振り返り応えるだけで足を止めず、名を知らぬ者がいても近寄らなかった。
 大抵の者はさして気にせずに見送ったが、中には訝しむ顔で彼の背を見つめた者もあった。それに気が付かぬふりをしたのもおかしなものとして映ったに違いない。
 会堂で開かれていた裁判を覗いてみて、誰にも目を向けられないうちにその場を離れた。いま欲している緒がそこにあるとは思えなかったのだ。相応しいのはむしろ真逆の場で、しかし、スキピオはそういう場所が苦手だった。
 止めるあてがなく動かし続けていた足は、柱廊の端でとんと肩を叩かれて止まった。そしてぼんやりとしたまま顔を向けたスキピオを、いまこのとき会いたいとも会いたくないとも言い難い相手が見下ろしていた。
「──君が一人歩きとは珍しいな」
 そう言ったグラックスも、従者の他には誰も連れていない様子である。道中で従者を遣いに出していたスキピオの方は本当の一人歩き、近頃ではほとんどあり得ないことだ。
「ふらふらと危うい足取りに見えたから少しのあいだ後をつけていた、気が付かなかったか?」
「はあ、全く……」
 もしかすると訝しまれていたのは自分ではなくグラックスだったかもしれない──そんなことを考えて生返事をしたスキピオにグラックスは器用に片眉を上げる。
 彼がさっさと柱廊を出て歩き始めると、スキピオも後に続かないわけにはいかなかった。グラックスが既に用向きを済ませて自邸に戻るところだと言うなら、途中で言い訳をつけて別れたかったが。
 常ならばあれこれと話題を絶やさないグラックスが静かなので、スキピオは何度か自分から話を切り出そうとした。しかしどれもこれも、自身の財務官選挙への立候補についてさえも、核心を避けての逃げだった。
 何も言われていないのに数十歩ぶんの葛藤を終えたスキピオは、そっと尋ねた。
「センプロニアはどうしていますか」
「熱を出して寝込んでいる」
「えっ?」
 熱? 病ということか。正式な婚約以来細々と様子が伝えられてきたのに、そんな話はひとつも聞こえてこなかった。スキピオの耳に入らぬようにしていたのか? 耳に入れるほどのことでもないのか、それとも逆に、耳に入れては障りがあるほどなのか──「違う違う、そういうことではないよ」
 グラックスは若者の顔色に可笑しそうに首を振った。
「婚礼の日取りが決まってからというもの、コルネリアや乳母、侍女たち、果ては友人たちにまで取り囲まれて、妻というものは母というものはとあれこれ吹き込まれて参ってしまってな。衣裳の仕立てにも疲れたらしい」
「そうですか、それは……僕は何と言うべきか……」
 フォルムの喧騒を離れて街路を進んでいたグラックスが、不意に「ああ!」と大声を出した。ぎょっとして歩調を乱したスキピオを振り返る。
「君も同じか。そんなふうに悩む男は見たことがなかったから分からなかった」
 そうかそうかと、途端に上機嫌になったグラックスがスキピオの肩を抱いて揺らした。
「ヘラクレス結びが解けそうになくて不安かね」
「いえそれは」
 練習させられたので大丈夫とは言えず言葉を濁したが、返答はどうでもいいらしかった。ずんずん道を進んでいくグラックスの目的地が彼の屋敷からさして離れていないスキピオの屋敷と察して、少し力が抜ける。
 婚礼の日取りは、忌日を避けて多くの人々がそうするようにユニウスの月の後半、あと半月ほど後と決まっている。日頃から親しく交流する両家の間のことなので相談しながら段取りを決めたのだが、このグラックスとコルネリアの勢いにスキピオは圧倒され通しだった。
 コルネリアのあの気勢が娘の前でも変わらないなら、気の優しいセンプロニアが熱を出しても仕方がない。野卑な揶揄いを寄越すような友人も、世話を焼きすぎる家人もないスキピオからすると、少々気の毒になる。
 見慣れた門が坂の先に見えると、グラックスは腕を下ろした。去ろうとする気配にスキピオは意を決して口を開く。
「その、ついでと言うのではありませんが、部屋を見ていただけませんか」
 グラックスは気取りなく了承し、何度も訪れた屋敷を見回して静かだなと呟く。
 グラックス邸は、騒がしいのではないが、清々しい活気がある。コルネリアの差配で整えられた家中の空気は澄んでいたし、夫妻を訪ねる人々は絶えなかった。彼女のもてなしを受けてグラックス邸を後にする人々はみな夢心地だ。それに比べれば味気ないほど静かだろう。
 スキピオは奥まった一室を示した。ずっと閉じていた部屋だが、先ごろ埃を払って空気を通している。
「アエミリア様がお使いだった部屋を、センプロニアにと思っています。一通り整えたのですが、あまり整えすぎるものでもないかと思って……どうですか?」
「どうというか。いいんじゃないか、日当たりもよくて」
「何か足りないと思われます?」
「足りなければ自分で足すだろう」
 それは当然、そうさせてやるつもりでいたが。意図するところの伝わらないもどかしさと、伝えてしまっていいものかという躊躇いにスキピオはいくらか口籠る。長く取れぬ逡巡の間ののち、口にできたのはやはり核心からずらした言葉だった。
「……アエミリア様がご存命であったなら、センプロニアもさほど怖がらずに済んだでしょうね」
 彼女にとってアエミリアは自分を可愛がってくれた優しい祖母だ。センプロニアが嫁ぐ家には、姑となる女性さえいない。
「わざわざ孤立無援の立場に自らを追い込もうとは、勇敢だな。乳母も侍女も花嫁道具に入れてやるのにそこまで心配することはないだろう。よくあること、普通のことだ。コルネリアも嫁いできてまずしたのは家人たちを躾直すことだった」
「あの方と同じようにと言うのは酷ではないですか?」
「それこそ君次第というところだよ」
 それもこの人物に言われてしまうと何ひとつ返す言葉がない。妻女への愛情深さ、その存在を尊び慈しむ姿勢においては、グラックス以上の範はなかった。つまりはそういうことなのだ。センプロニアの気鬱も、彼女の両親が別の誰かであったならもっと軽く済んだだろう。
 かつてアエミリアがその夫君により得た家財は、スキピオが運び出させた物の残りと言えど確りと部屋を埋めていた。それを、物そのものでなくその由来を懐かしむようにグラックスは見つめた。スキピオにとっては、アエミリアはやや気難しく厳しい伯母であり養祖母だった。彼にとっては尊敬する義母だったはずだ。
「コルネリアもあれで厳しいところがあるからな、足繁く娘の様子を見に訪ねることはあるまい。下の子供たちの方に専念するだろう。それも、君を信じてのことだ。私もそのあたりは信頼している」
 君には悪所通いの噂も放蕩の噂もなく、昔気質と言いたくなるほどだ──からかう調子には気が付かないふりをした。
「もっと真剣に聞いてくれていいのだがね」
「聞いていますよ、嬉しく思います」
「そうか? 冗談と聞き流されると後で娘に恨まれそうだから」
「センプロニアがどうして恨むんです?」
「あれが君に喜んで迎え入れられなければ私の落ち度だろう、これは私と君が決めたとも言い難い婚姻であることだし」
 婚約に合意したとき、スキピオは既に養父を亡くして家を継いでいた。多くの若者が父親の決めてきた縁談に従うのとは違って自身でグラックスと約したのだ。けれど彼の言わんとするところはスキピオにもはっきりと分かった。
「センプロニアの夫君に君ほど相応しい人物はおらず、君の細君にセンプロニアほど相応しい娘もない。他の何を差し置いてもアフリカヌスの家系が君たちをそのように結びつけている。私がこの婚約について悩む必要はなかった、あの子がこの齢まで育つことだけ願えばよかった」
 既に多くの子を儲け、そして喪っている夫妻にとって、スキピオに婚約を他の子供と結び直すよう頼むという想像は生々しいものだったに違いなかった。
 若々しいコルネリアの隣にあって、彼をその父親のようだと思ったことはない。いまスキピオが見つめる横顔は、彼のたった一人の妻とその子らを見つめるのと同じものだった。
 そして不意にその眼差しがそのままにこちらへ注がれたので、彼の目には呆けた顔が映っただろう。
「私は君とは違った。選ばれたこと、アフリカヌスの娘に相応しいと認められたことが誇らしかった。これで末娘のことを心配せずに済むと言っていただいたから十五年も待ったのだ。この七年、君はどうだったね」


 特別なことが続くのは新婦の方で新郎はそれに比べれば大したことはない。そういう物言いを何度も耳にしていた割に、その日は日常が掻き消えているのを目覚めた途端に嫌でも察した。
 毎朝の身支度を担う女奴隷たちはうきうきと笑いながら常以上の丁寧さで主人のトガを着付け、いつもと変わらない装いだと言うのに、スキピオより昔からこの家にいる者のなかには涙ぐむものさえあった。
 周囲をぐるぐる回って心ゆくまでトガを整えた女たちにやっと解放されて部屋を出ると、こちらもいつもとさほど変わらない姿のポリュビオスがスキピオを待っていた。
「お兄様方が到着されていますよ」
 そう言って示されたアトリウムからは確かに何人かの話し声が聞こえている。
 婚礼の行われるグラックス邸までは、友人たちや親族がスキピオに付き添う。その行列にポリュビオスが加わってくれるのは嬉しかったが、どうにも、彼の眼差しまでもが暖かいのに閉口してしまった。そしてそのぎこちない面持ちは顔を合わせる全員に緊張と受け取られるのだ。
 アトリウムを覗いたスキピオに真っ先に気がついたのはフリウス・フィルスだった。ラエリウスと連れ立ってやってきたのか、こちらに笑顔を見せて早足に近づいてくる。
「やあ、おめでとう。……昨夜はよく眠れなかったのかい?」
「そんなことないよ、ありがとう。早いんだね、君たち……」
「君を心配している順番に到着するんじゃないか。ファビウス殿とは道中に出会ってね」
 見れば兄とラエリウスとが、対照的な表情を浮かべてこちらを向いていた。ファビウスは心配そうで気も漫ろといった風だが、ラエリウスはこの上なく落ち着いた様子で微笑っている。なんだかそれにも反応しづらく言葉少なでいるうちに奴隷がナシカがじき到着するとスキピオに耳打ちした。
 スキピオが自分とセンプロニアの付き添いをナシカとその細君に依頼したのは、ほとんど成り行きだった。まだ婚約式の段取りを話し合っていた頃に顔を合わせるなり任せなさいと言われ、それならばと頼んだのだ。約束から何年も経っていたが忘れられることなく、ナシカの細君はアフリカヌスの姉娘、センプロニアの伯母なので、後から考えるによい人選だった。
 やがて訪れたナシカには養家の親族のほとんどが従っていた。それぞれと挨拶を交わし、到着する友人たちを迎え、落ち着く間もなくグラックス邸からの遣いが出立を呼びかけた。
「今頃はうちのが妹と一緒になって張り切っているだろう、気圧されるんじゃないぞ」
 もう既に気圧されて負け通しなのです、とはナシカ相手に口に出せず、スキピオは招待客を引き連れ、家人たちに送り出され屋敷を出た。
 行列に出会す人々はそれがどこに何のため向かうのかをすぐ察して、口々に祝いの言葉を投げては笑う。新郎の友人、あるいは親族のひとりとして行列に加わるときには、彼らと目が合うことはなかった。ピュドナで夜更けに陣営に戻った時にも似た気分だった。それを思い出すと、不思議と気軽に彼らに挨拶を返すことができた。
 しかしその落ち着きも脆く、グラックス邸に着くなり、色彩が一変した。──女たちが皆して張り切って、それこそ数ヶ月前から着々と準備の進められていた婚礼の宴は、決して贅を凝らしたものではない。コルネリアが奢侈を許すはずはなく、しかし娘の門出のため、屋敷は伝統に則して隅々まで飾られていた。慣れ親しんだ屋敷の気配は一掃され、なんだか香りまで色づいているようだった。
 グラックス家の父祖たちの像が並んだアトリウムを抜け、花と蔓で編まれた綱やリボンの飾りを潜って銘々の席に着く招待客たちに、花嫁の父が挨拶をして回る。
 広間に響く澄んだ声に目を向けると、婚礼で大切な役目を担う子供たちが、教えられるままに婚礼を祝う歌を歌っているのだった。
「何をぼんやりなさってるの、お兄様はあっちで待ってて」
「やあ、アエミリア。手伝ってくれてたのかい」
「当たり前でしょう、クィントゥスのこともあるし──ほら、恥ずかしいからしゃんとしてください」
 呆れたように兄の背中を押して、十年も前に自分の婚礼を済ませている妹は足早にどこかに消えてしまった。彼女の夫であるトゥベロは我が子が他の子供たちと一緒に歌う姿にひたすら相好を崩していたが、それは構わないらしい。
 アエミリアが去ったと思うと別の婦人がスキピオに立ち位置を教えてくれ、そこで招待客が揃うのを待った。宴席が埋まりしばらく、ふと、楽しげに語り合っていた客人たちが静かになる。
 その場にいる者たちの視線が波のように打ちつける先には、この宴の主役が立っていた。未だ小柄な少女が花嫁衣裳に身を包み、わずかに彷徨わせた目線を、スキピオに辿り着かせる。炎の色をしたヴェールに隠されてその表情は窺えないのに、彼女がそうして深く息をしたのが分かった。
 介添の老婦人に促されて足を踏み出したセンプロニアは、丈の長いトゥニカに足を取られて転ぶのを怖がるように足先と行く手を見比べながら歩いた。複雑に編まれた髪の上に白い花の冠を被り、彼女の母が娘に贈った宝石が胸元や手首に輝いている。
 花嫁が登場すると歓声が湧くものという記憶があるが、どうしてか誰もが彼女がスキピオの元に辿り着くまで物音ひとつ立てなかった。スキピオも、やけに静かだというのにセンプロニアが隣に立ってやっと気付いた──変わらず響き続けていた音楽と歌をかき消して、参列者たちの祝福が広間に満ちる。
 親しい人々の笑顔を見渡し、知らず浮かんだ笑みを向けると、センプロニアはコルネリアの方を見ていた。そのコルネリアは既に感極まり始めており、姉の手を握りしめている。
 花嫁の装いに違いがないのと同じく、婚礼も決まった手順で行われる。証人たちのもとで婚姻の契約書を取り交わし、アトリウムでの供犠ののち、スキピオとセンプロニアは祭壇の前に促された。
 グラックス家の縁者だという老婦人が、センプロニアの手を取る。その小さな手がスキピオの右手に乗せられると、彼女の緊張が痛いほどに伝わってきた。それでも指先の冷たい手はそろそろと、夫となる相手の手を握り返した。
 この契りが終わると、いつの間にやら増えた客たちに食事が振る舞われ、日が陰るまで宴が続くのだ。
 よく見知った顔からあまり知らぬ顔まで、客人は次々にスキピオの元にやってきては祝いの言葉をかけ、その顔ぶれは次第に酒気を帯びて陽気になっていく。泥酔する者など出ないようにコルネリアが目を光らせているとはいえ、祝いの席とあって賑やかだった。
 ラエリウスがそばにやってきたのは、その挨拶の嵐が過ぎ、あちこちで歓談が盛り上がり始めた頃だった。その姿を見て安堵してしまった親友に、朝と同じ優しい顔を浮かべる。
「おめでとう、スキピオ。センプロニア様にもお祝いを申し上げます。──ああ、いいんです、そのままで。お疲れでしょう?」
「……ありがとうございます、ラエリウス様」
 立ち上がりかけていたセンプロニアがそう言うと、ラエリウスはにこにこと頷いた。思えばそれがこの日初めて聞いたセンプロニアの声だった。
「グラックス様とナシカ様が盛り上がっておいででね、暫くはみんなあちらに気を取られているだろう。何か食べるならいまのうちじゃないかな」
「うん……センプロニア、何か取らせましょうか」
「…………」
「センプロニア?」
「……あの、帯が……」
 苦しいので、とか細く言って、俯いてしまった。
 がちがちに固めるように飾り立てられて苦しかった、そう後から愚痴を言ったのは下の妹だっただろうか。せめて喉を潤すものをと奴隷に声をかけて花の香りのついた水を運ばせると、杯を両手で握りしめるようにする。
 幼い時分にはスキピオを遊び相手と思って気安く手を引いてくれた少女も、婚約の意味を理解してからは慎み深く口を噤むようになった。母譲りの教養を隠すように首を傾げたり斜め下に目をやったり、そういう姿で思い出されることが多い。そのうえ今日は、彼女がこれまで生きてきて最も重要な日だ。
「センプロニアもお友達と話したいでしょう、僕は挨拶のできていない方のところに行ってきます」
 ずっと傍についてくれている介添人にセンプロニアを託せば、老婦人は訳知り顔で請け負ってくれた。
 ラエリウスの言う通り語り合っている岳父と付き添い人の目につかぬように──主役らしからぬ足取りで、結局は兄たちのいるところに辿り着いた。
「なんだい、もう逃げてきたのか」
 先程のアエミリアと同じような顔で言ったファビウスが、花嫁はいいのかと目を向けて、僅かに眉を顰める。見れば妹たちがセンプロニアに何事か声をかけ、テルティアが義妹を抱きしめていた。たったいま子供から大人となった相手にすることか──兄はそういう顔をしたが、それもすぐに笑みに崩れる。
「みな他の家に出てばらばらにはなったが、センプロニアを妹と思うのはアエミリアたちも私も同じだ。妻も仲良くしたいと言っていた、何かあれば頼りなさい」
「もう色々と頼ってしまったけど……ありがとう、兄さんには遠慮しないことにする」
「それと暫くの間、ポリュビオスはうちで過ごしてもらうよ」
「……暫くって? いつまで?」
「お前たちが落ち着くまで。先生もそうしたいと仰っている。息子の臨時家庭教師をしてくださるそうだよ」
 子供のトガを着て間もない甥を出されるとごねる訳にいかず、ポリュビオスの姿を探すとカトー・リキニアヌスと話していた。抜け目がない。
「挨拶を口実にしたんだろう、ちゃんと言った通りにしてきなさい」
 自分こそ教師のような言い方をして、ファビウスはラエリウスをその場に引き留めて弟を追い払った。
 話し相手が途切れて独りきりになる、などということはもちろんなく、祝宴には参加せず挨拶にだけやってくる人々もいるので喉が枯れるのではというほど挨拶と礼とを繰り返すことになる。合間にグラックスに呼ばれて彼の古い友人たちに改めての紹介を受け、かと思えばナシカに呼ばれて一族に揉みくちゃにされた。時折センプロニアの方を窺うと、穏やかに婦人たちの祝福を受けている。
 そろそろ戻ってみようかと思ったスキピオを呼び止めたのは、饗応を取り仕切ってずっと忙しくしていたコルネリアだった。
「トガが乱れているわ、殿方はいつも通りだからと思わないで一度直してらっしゃいな」
「あの、コルネリア様──」
「お義母様ではなくって?」
「……僕たちってこういうやり取りを何度もするんですか? 義母上」
「あら、ふふ……結局あなたはお姉様とは呼んでくれなかったけれどね」
 女奴隷をひとり呼びとめ、広間に隣り合う小部屋に入る。裏方の奴隷たちがひっきりなしに行き交う物音が宴の席に届かない不思議さを思い、大人しく着付け直されるに任せていると、コルネリアが頬に手を当てて深く息を吐いた。
「──ああ、これほど嬉しい日はもう迎えようがないわ。どうしましょう」
「まだこれから何度もあるかもしれないでしょう。気が早いですよ」
「そうかしら……」
「ティベリウスがトガを着たのを見て泣いていたじゃないですか」
 招待客はうんと幼い子供までは連れてこないが、ティベリウスはこの家の長男だからきちんと子供のトガを着て父の傍にいたり乳母とともに姉の傍にいたりしている。その幼気な姿は、グラックス家にとってはかけがえのない宝だ。同じ名前を持つはずだった子供たちの後に生まれ、やっと縁取りつきのトガを着た男の子。
 センプロニアはあの子や、まだ歩き始めてもいない妹との別れが、やはり悲しいだろうか。
 女主人の頷きを得た女奴隷が下がった後、コルネリアは自らの手でスキピオのトガに触れた。襞を整える彼女の姿は、実のところ見慣れたものだ。スキピオが子供のトガを着たとき、また成人してトガを替えた時にも、彼女は何かと世話を見たがった。
 主役である娘や招待客たちより目立つことが決してないよう控え目に整えたコルネリアには、全く乱れも疲れも見えない。非の打ち所がないと市民に敬愛されるグラックス家の奥方が昔と同じように振る舞うのは、僅かな者たちの前ばかりだった。
「いいわ、立派になりました」
 満足げに頷いたコルネリアが、広間に戻る間際、目を細めてスキピオを見上げた。
「それでも本当に、こんな日は二度と来ない。あなたとセンプロニアだからこそ嬉しいのよ。小さなプブリウスが幸せになってくれるのが嬉しいの」
 その話をセンプロニアにもしてやったのですか──そう問うより先にコルネリアは彼女の仕事に戻っていった。広間に入ったスキピオはしばらく視線を彷徨わせ、自分が誰を探しているのだか思いつくより先に彼の席に足を進めた。
 センプロニアは戻ってきたスキピオを目だけ動かして見上げ、すぐにまた俯いたが、隣に座った気配に手を擦り合わせてから口を開いた。
「お母さまと何か……」
「叱られました、あなたの隣にいて恥ずかしくない格好でいろと」
「…………」
「ティベリウス、泣いていませんでしたか?」
「昨日、泣いてくれました。だから今日は泣かないそうです」
 稚い生真面目さで姉を励ます幼子を想像して頬が緩む。ティベリウスはいつも、スキピオがこの家を訪ねると自分より先に姉と話してほしいからとすぐには部屋を出てこなかった。
「あなたも一緒に泣けましたか」
 コルネリアが姉の婚礼の前に頑是なく泣き、テルティアが自身の婚礼を間近にしばしば涙を浮かべていたこと、あるいは、父のもとに嫁いで間もなかった継母が隠れてほんのわずかな間だけ泣いていたこと──夫を亡くしたのち再婚のために出ていった養母が最後に思い出を惜しんで泣いたこと、そういうことが頭に浮かんだ。
 答えはなかったが、スキピオは今はそれで構わなかった。センプロニアは彼女の父を、母を見つめ、弟と目が合っては小さく首を振る。日が傾くまで続く宴のあいだずっと、彼女はそれらを忘れないでいられるように目を開いていた。

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