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 吉日を選んで行われた婚約式で、スキピオは参列した人々の微笑ましげな視線に囲まれていた。
 スキピオ家とグラックス家、兄に生家の人々、それに友人たち、みな和やかな笑みを浮かべて、まだ若いスキピオと幼いセンプロニアが供犠を終えて並んで立つのを見守っている。
 綺麗に結った三つ編みを前に垂らして、少女だから着飾るのではなくただ可愛らしく飾られているセンプロニアの手を取る。出来上がったものを受け取った時にも思ったがあまりに小さな指輪が、彼女の薬指にぴったりと収まるのを見届けて、誰かがほうと息をついた。
 誰と言って、コルネリアに決まっているのだけれど。センプロニアは母の方を見、ほんの小さく頷いていた。
 パウルスとグラックスとが契約を交わす傍らで、スキピオは指輪に触れている少女を覗った。たった九歳の少女の指に嵌めた指輪は、きっとすぐに合わなくなって、新しく誂えることになるだろう。飾り気のない鉄の指輪だから、それを惜しく思うことも楽しみに思うこともなさそうだった。
「神々がお立ち合い下さいますよう」
 決まり文句を終えた父親たちが、晴れ晴れとした面持ちで婚約の立会人となった人々に向き直る。途端に空気が緩んで親しげな言葉が交わされるなかで、幼い甥がぱちぱちと手を鳴らしてくれていた。トゥベロは他の人々がそうしないので不思議そうに首を傾げて、みんながそれににこにこと笑う。
 奴隷たちが宴席を整え始め、自分たちから注目が逸れてようやくスキピオもセンプロニアも肩の力を抜いた。そのスキピオの肩を、グラックスが痛いくらいの勢いで叩く。
「さあ、これで無事に我が婿殿だ。もう逃げられないからな」
 そう冗談か本気か定かでないことを言いながら娘を抱き上げた。視線の揃った婚約者はなんだか困ったふうに眉を下げて、父親の首にしがみつく。それを叱るどころか可愛くて仕方がないという顔で、グラックスは妻のもとに娘を連れて行った。
「まだ幼いのにこれが何の儀式か分かっているらしいな」
「はい……」
「どうしてお前のほうがぼんやりしているんだ。緊張するには早いぞ」
 そう笑うパウルスの顔色こそあまり思わしくなく、スキピオは父を兄夫婦の席に促した。昨年監察官を務めたあと病に倒れ、どうにか持ち直したが健康を取り戻すには程遠い。南イタリアでの静養を話し合っているところだったが、それを押してこの婚約式に参加してくれたのだった。
 兄に支えられるのを嫌がりつつも席に落ち着いた父の膝下に、トゥベロが駆け寄ってくる。三歳になる孫を膝に上げたパウルスが他の子供たちはと問うのに、じっとしていられない子たちは別の部屋にと答えたところで、幼い泣き声が聞こえてきた。
 テルティアが夫の隣からこちらを振り返るのに頷く。マルクスの声だろう。
「少し見てきます。アエミリア様もいらっしゃらないようだから……」
 センプロニアは祖母に会うのを楽しみにして来ているはずだ。義姉が自分もと立ちあがろうとするのを制し、テルティアを伴って広間を出た。
「お兄様、もうちょっとうきうきしないと」
「うきうき?」
「センプロニアが不安になるでしょう、ああ楽しみって顔をしてあげたら?」
 それはそれで気味が悪いと思う、と答えないまでも顔に出した兄に、テルティアはくすくす笑った。カトーもそんな顔はせず緊張していたように思い出されるが、不安だったのだろうか。その考えも見透かして、十六歳ですでに母親となっている妹は子供の頃と同じように兄の腕に手を添える。
「私はお義父様が喜んで下さってたからぜんぜん大丈夫だった」
「確かに……すごかったね、あの時は」
「あの時だけじゃないの、ずっとすごいの。飽きないわ」
 夫となる青年はともかくその父親とテルティアの反りが合わなかったらどうする。そう父と兄たちが真剣に頭を悩ませたのも昔のことだった。
 子供たちを乳母に任せている客間を覗くと、マルクスはすでにほとんど泣き止んでいた。母の姿に気がついて大伯母の腕の中で魚のように暴れ始める。
「伯母様、見ていてくださったんですか?」
 敷物の上で子供たちを遊ばせていたアエミリアは姪にゆったりと笑って、テルティアへその息子を渡した。
 部屋にいるのは三人とも昨年生まれた、一歳になるかどうかの男の子たちだった。兄の子であるマクシムスが赤子にしては俊敏な動きで叔父の足にしがみつく。それを抱き上げながらスキピオもアエミリアに礼を言ったが、首を振られる。
 この頃体調を崩しがちになったアエミリアは、あまり話さなくなった。胸に痛みがあって話すのがひどく億劫なのだという。けれどティベリウスが空いたその膝に甘えると重たげにもせず腕に抱いた。
「お席に行かれませんか、センプロニアが会いたがっていると思います」
「そうね……」
 もう堅苦しい席でもないから、この子たちも乳母に任せていれば広間にいられるだろうか。自分の手をしゃぶっているマクシムスの口から垂れる涎を乳母から受け取った布で拭きながら、どう言ったら動いてくれるだろうかと、スキピオは未だに養祖母に対する正解が分からなかった。
「本当は……」囁くような声でアエミリアが呟く。「今日、パピリアさんも招待したかったでしょう」
 テルティアが兄たちの顔を見比べ、そっと立ち上がる。息子の乳母と共に部屋を出て行った妹の足音は遠ざかっていく。
 柔らかい声で何事か祖母に話しかけているティベリウスの頭を撫でながら、アエミリアは目線だけでスキピオに座るように促した。乳母たちが気まずそうに目を見合わせているのなど彼女は構わない。
「グラックス様たちは構わないとおっしゃってくださいましたが……母が、遠慮なさったので……」
「そうでしょうね」
「……はい」
 母はこんな席に呼ばれることがないどころか、祭礼の場にもあまり姿を見せない。その理由を知っていれば返事がぎこちなくもなる。
「あなたが私とあの方を見比べるのは当たり前だわ」
「アエミリア様、僕はそんな」
「だから、私が死んだ後はあなたの好きになさい」
 その言葉の意味が分からない幼子と、奴隷たちの前だから言ったことだっただろう。
 アエミリアはそれきり口を閉ざした。テルティアと入れ替わりに近づいてくる騒々しい足音に顔を向ける。顔を見せたのはセラピオだった。
 すでに青年となっている彼は、床に座り込んでいるスキピオたちにきょとんとした。
「何やってるんだ? アエミリアヌス、早く戻ってこいよ。今日の主役だろう」
 アエミリアに歩み寄って、ひょいとティベリウスを肩に担ぎ祖母に手を差し伸べる。アエミリアはその手を取って立ち上がった。
 広間ではやはりセンプロニアが祖母を待っていた。自分の隣に座らせて、左手の指輪を示した孫娘にアエミリアが何か囁くと、この日初めて見せた笑顔で祖母に抱きついた。
 その後パウルスがローマを離れてからさほど経たず、アエミリアは亡くなった。彼女に残された娘たちに両手を握られて、苦しまずに眠った。
 彼女から相続した財産のうち祭礼のための衣裳や身の回りの品々をすべてパピリアに贈ったスキピオは、多くの人に褒めそやされながら母が笑ってくれるかどうかだけを見ていた。アエミリアは、娘たちに持っていてほしいものはみな生きているうちに譲っていたらしい。数多くの装飾品の類で遺されていたのは本当に好きにしてもいいものだけだった。
 憶えていてくれたのね。そう涙を浮かべた母は、ひどく悲しそうに笑った。


 目を覚ましたときに視界の端に見えた手、その浅黒い肌で、誰がそばにいるのかすぐに分かった。起き上がろうとしたスキピオはその手に額を軽く突かれて枕に押し戻される。
 テレンティウスがもう辺りは明るくなっていると言いながらも何故か寝かしつけるように寝具を整えるのを、文句もつけないで眺めていた。彼がどことなしに楽しげで、それが昨夜の様子とは打って変わったものだったのが理由になり得た。
「ラエリウスは?」
「とっくに起きてる。書き物をすると言ってたよ、君が起きたら遅い朝食をとって、散歩でもどうかって」
「ああ、いいね……」
 彼の言う通り太陽は地平線からその姿をすっかり見せているらしい。差し込む陽の光のなかを細かな埃か何かが舞っていた。怠惰の一歩手前か、一歩踏み込んだところといった有様だが、スキピオはあまり焦りを感じなかった。
 彼はつい昨日ラエリウスの別荘にテレンティウスとともにやってきて、この作家の作品についてああでもないこうでもないと好き勝手、夜遅くまで話し込んだ。その延長としていまも軽々とした心地が残されている。ラエリウスの別荘にはもう何度も滞在したことがあり、テレンティウスも初めてのことではなかった。
 寝台に腰掛けた友人は、深酒をして常ならず荒れた様子を見せたことなど忘れたと主張する明るい目をしている。まるで濡れているかのように垂れ落ちる黒髪も機嫌がいいように見えた。
 着替えようと今度こそ起き上がったスキピオを、テレンティウスはひどく手慣れた様子で手伝った。彼は奴隷に声をかけるでもなく用意されていた着替えを手にし、甲斐甲斐しく帯を締める。サンダルを履くのまで手を貸そうとするのは退けると、不思議そうにしてからふと顔つきを変えた。
「昨晩はいい夢を?」
「夢? ……見なかったと思う。それか忘れたか」
「寝ながら笑っていたから、夢で楽しいことがあったんだと思ったのに」
 僕はとびきりいい夢を見て、けれどとびきりがっかりする目覚め方をした、とテレンティウスは言った。濃い睫毛の向こうでその瞳は夢を見つめ、しかし未練なくスキピオのもとに帰ってくる。顔を洗うだろう、といつの間にか控えていた奴隷の少女から盆を受け取り、そうして面倒を見られているうちにスキピオはいつの間にか朝食の席についていた。
 テレンティウスは座ってしまうともう誰かの世話を焼く素振りは見せなかった。欠伸を噛み殺した友人の様子を見逃さず少しわざとらしく嫌味っぽい笑い方をする。気がつかないふりで暖かいパンを取って千切った。
「夢ってどんな夢だったんだい」
 姿を見せないラエリウスのことを言う代わりに尋ねると彼は目を眇め、どうにも少年っぽさの抜けない頬を指の腹で擦った。
「拍手喝采」
「ああ……」
「舞台に食らいついて離れない観客!」
「いい夢だね」
「でも僕は終劇まで見守ることができなかった。窓辺にうるさい鳥がいて」
「いい目覚めじゃないか、鳥まで君を讃えてたわけだ」
 鳥の囀りに起こされるというのは、この友人に限って言えば物凄く似合っていて、むしろいつもそうだと言われても疑問なしに頷いてしまいそうなところがあった。
 朝の空気が昼間のそれに移りかけていると思う。ローマにいたなら屋敷を出てどこかしらにいる時間帯だし、余暇と言えど長閑過ぎて、息を吸うのさえぎこちなくなりそうだった。
 今度は欠伸を誤魔化さなかった。手のひらで大口を空けるのを隠しはしたけれど。書き物をしていて調子が良くなると手を止めたがらないラエリウスの気性は知っていて、この分ではしばらく待たねばならないだろう。苦とは思わない。ただただ、ぼんやりとしている。
「疲れてるんだね」
「……うん?」
「君だよ。疲れてる。ラエリウスがここに来ようって言うのも道理だね。僕が騒いだのもあるんだろうけれど」
 パンを割いた指先は彼の風貌から想像されるよりずっと痩せて、硬いのだとスキピオは知っていた。主人の現れを待たずに小さくしたパンを口に放り込んでいる間もテレンティウスはスキピオを見ていて、何か答えるべきことがあるらしいとは察した。それ以上のことは何も頭に浮かばなかった。
 ただただ視線を合わせているうちに、テレンティウスが呟く。
「僕らはこうしている間も想像されているんだろうなと思うんだ」
 先ほどと同じような顔をするわけでもなく、テレンティウスはじっと瞳を動かさない。強い光を受けると鮮やかな空のようにも、いまこうしていると湖の水面のようにも見える。彼の瞳の他にそんな色をするものをスキピオは知らず、美しいと認めているので見つめられるのは嫌いではなかった。
「いま僕と見つめ合うのは好きだって思っただろう。想像を君が肉付けしてる」
「想像は想像だよ。きみ、妬まれるのが怖いの」
「そうじゃなくてね、舞台に上がった気はないのにいつの間にか見物されているっていうのは、この身の上にならなきゃそれこそ想像上の経験だろう」
「舞台は君が作るんじゃないの?」
「からかってる? 本当に眠たくて頭を使いたくないのかい」
 さあどうだろう。スキピオは前者のつもりだったが、卓に頬杖をついてしまうと後者だと言っているに等しかった。
 ぺたぺたと足音が聞こえてふたりは同時に食堂の入り口を振り返った。現れたラエリウスはその視線を受けて少々たじろぎ、誤魔化しの笑みを浮かべる間もなく席に着く。その手がインクで汚れていた。
「もしかしてすごく待たせた?」
「スキピオほどじゃない。ぜんぜん平気さ」
「君たちいつ起きたんだい」
「いつもどおりに」
 ラエリウスは不思議そうにテレンティウスとスキピオを見比べたが、深入りしないことに決めたようだ。彼の手をよく気のつく給仕が綺麗に拭うと、やっときちんと朝食が始まった。
 何を書いていたのかとかもう済んだのかとかテレンティウスが尋ね、ラエリウスが答えるのを聞きながら、干し無花果を齧る。甘みが薄く、すこしばかり味気なく思えた。
 食事を済ませてすぐに彼らは別荘を出て、田舎道を連れ立って歩いた。ラエリウスのこともスキピオのことも知っている地元の者は挨拶はするが呼び止めはせず、幼い頃からこの道をふたりで歩く彼らを憶えていて笑って見送ってくれる。テレンティウスはそれを少し感慨深そうにしていた。
「ギリシアに行きたいんだよ」
 昨晩、管を巻きながら五度も言ったことをテレンティウスはまた繰り返した。流れるような鼻梁に皺を寄せて、何を思い出しているのか、戦うように向かう先を睨みつけている。
「僕というのは不確かだ。生まれはカルタゴらしいけれどそれだけで、何を憶えているわけでもないからネタにもできない。ギリシアは遠い幻! ポリュビオス殿のお話は夢に色をつけるばかりだ」
「行けばいいじゃないか。いいところだよ」
「娘が可愛いんだ」
「……産まれると思わなかったって大慌てでいたのは僕の記憶違いかな」
「産まれてみるとなんとなく物凄く可愛いんだ。君らには分からないさ、まだね」
 そう言われてしまうとスキピオもラエリウスも顔を見合わせるしかなかった。何しろ独り身である。スキピオの婚約は二年前のこと、懇意の女性というのもいない。娼婦のいる席などかえって気疲れするから受ける招待に慎重になっているくらいだった。
 もう少し歩いた先に湖があるのでそのそばにクッションでも並べて話そうということになっている。敷物やクッションを抱えて主人らに続く奴隷たちは若者の沈黙をおかしそうに眺めていた。
「ラエリウス、そこの眠たげな人に尋ねてほしいことがあるんだけれど」
「どうしてまだ眠たげなのかって?」
「そう。君が訊くと子供より素直になるから」
 左腕を引かれテレンティウスとやたらと大きなひそひそ話をしながらラエリウスは声を立てないまでもおかしげに笑っていた。もう片方の腕を引いてやろうかと思ったけれど、そうするとまた昨晩のような有様になるので止した。彼らは若者だったが、子供ではなかったし、この辺りの誰にとっても見知らぬ誰かではなかったので。
 テレンティウスの風貌を見ると目を丸くする人というのが、彼を友人として遇しこの道を歩き始めた頃にはあった。想像がなされていただろう。異国を思わせる肌はまだしも、彼はあまりに役に相応しかったのだ。
 スキピオは何も言わないで歩き続けたが、からかう調子でいたラエリウスが次第に心配げな顔をし始めたので、それも長く続かなかった。まったくよく友人たちを把握しているテレンティウスだけが満足気に眉を上げる。
「なんだい、テレンティウス。今日に限って詮索好きだな」
「今日に限らない。君は人間だし、なんたって僕の友人であるわけだ。関心はとどまるところを知らないよ」
 流麗な声で歌い上げるように言い、微笑む。そうすると疎ましく思うことなど不可能事である。
「いまごろ兄がウェリアにいるんだ」
「パウルス様のところに? ……何かあったのかい」
「ローマに戻るって仰っている。出ないわけにいかない祭儀があるからって」
「それは……」
 どうだろう、とラエリウスは遠慮がちにではあったが眉を寄せた。
 市民たちがマケドニクスの姿を懐かしがっているという話をしたのが悪かったかもしれない。スキピオは何度も、お父上はどうなさっているかと尋ねられ、嘘偽りなしに答えてきたけれども、それがかえってよくない結果を生みそうだった。
「兄はやめておけと言いに行ったんだ。でもたぶん駄目だね。真面目な方だし……」
「どうして君は行かなかったの」
 釣り道具を携えた少年たちが彼らのそばを駆け抜けていった。全身ずぶ濡れで何がおかしいのかと思うくらいけたたましく笑い声を上げている。
 それを見送り、丁度いいときに来たらしいと思った。子供らがいれば話し相手になってやるくらい、してやらねばならなかったかもしれない。いまの彼にはひどく億劫な想像である。
 答えを待っていたテレンティウスがまたラエリウスを今度は言葉なくけしかけるのを、ラエリウスはやんわりと笑ってやり過ごしていた。奴隷たちが一足早くいつもの木陰に敷物を広げクッションを並べに行く。
「亡くなってしまうかもって兄が言うから……」
 継母からの手紙を受け取ったファビウスはスキピオが同行を渋ったのを意外そうにはしたが、それ以上のことは何もなかった。若い息子たちが老いた父を諌めるのは古今東西で繰り返されてきたことで、けれどスキピオはその一端を担う気になれなかったのだ。
 木陰ではなく湖のほうに早足に進んでいったテレンティウスが振り返らないまま、意外だと一声上げた。
「君ってそんなにあの方のこと好きだったの」
「あの方って?」
「パウルス様じゃない方の」
「ああ、……いや、そういうことじゃない」
 履物を脱がないまま水面に足先を引っ掛けるテレンティウスの表情は窺えなかった。浅瀬を泳いでいる魚を追って気ままに歩く長い脚を見送り、スキピオは敷物の上に腰を落ち着けた。すぐに気持ちが緩んで寝そべったそばにラエリウスが座る。
「父が亡くなることは何度も想像したんだ」
 硬いクッションを選んで引き寄せて胸に載せる。テレンティウスに夢を見なかったと言ったのは嘘だった。
「弟たちが死んでからずっとその日が来ることを思わないではいられなかった。スキピオ家の養父や養祖母が亡くなったときにも……どう思えばいいのか、どう考えればいいのか分からなくて、君を困らせたね」
「私だって君にもっともよい言葉をかけてやれたわけじゃない」
「僕はそうは思わなかった。悲しいと言うのが嘘じゃないと言い切ってくれたもの」
「スキピオ、不安ならお会いしたほうがいいだろうに」
 不安なら。不安なのだろうか。ここにポリュビオスを連れて来ていたら、父を亡くしたうえでこの地に囚われる彼の前ではこんなことは口にできない。無理を押してでも訴えたいものがあるわけではなかった。
「弟の夢を見ながら僕は笑っていたんだろうか……」
 頭上を吹き過ぎていく風に前髪が泳ぐのを眺めた。ラエリウスはどこを見ているのか、黙っているのが当惑ならば申し訳ないけれどそうではないだろう。
 心地よさに任せて瞼を落としかけていた。頬や額にぽたぽたと冷たいものが落ちたので、眠りかけていたのに気付かされて、はたと目を開く。テレンティウスが影を落としてスキピオを見下ろしていた。その手からひっきりなしに滴が落ち、彼が合わせていた両手をぱっと広げると、小魚が躍り上がった。
 咄嗟に受け止めようとした小魚はスキピオの手をすり抜け、草の上に敷かれた布の上に落ちる。びたびたと尾で叩いているものが水でないことに困り切った哀れな姿だった。
 弱り始めた魚から目を背けたスキピオのそばにしゃがみこんだテレンティウスの濡れた手が輝くようだった。
「君はちゃんと自分をわかってるくせに僕みたいなことを思っているから、おかしい。好きなところだ」
「君みたいなことって」
 言いさしてから察してスキピオは口を噤んだ。不確かだと歌う声が蘇る。テレンティウスはまた水辺へ戻って行った。
 ラエリウスの線の細い指先が魚を取り上げ、息絶えたそれを彼は水に返した。


 パウルス邸を訪れると、よく帰ったと何の気なしに声が掛かる。いらっしゃいませと奴隷たちは言わない。ほんの幼い頃に子守として身辺を守ってくれていた男はもう解放されていたが、何かの折に顔を合わせると親しげに笑ってスキピオを見つめるのだ。あるいは誇らしげに、あるいは眩しげに。
 父がローマに離れてから屋敷の管理はほとんどファビウスに任されていた。ウェリアからの手紙で指示はあるけれども、ほとんど誰もがパウルスは帰ってこないものと思っていたのだ。ならばこそ、大勢の市民が祭儀を終えて帰路につく父を取り囲み、まるで凱旋式のあの日と同じに騒ぐのを、いっそ素直に喜んでやればよかったかもしれない。
 彼をローマに呼び戻した儀式の翌日には快癒を願っての犠牲を滞りなく終え、体調を見てまたウェリアへ船旅をするか、このまま屋敷に残るかを医師と相談するという段取りになっていた。継母はどちらがよいとも言い切れず言葉を濁すばかりで、父もどちらで過ごしたいとも言わない。
 供犠のあと家に戻り寝室で大人しく横になりながら、父は変わらぬ笑みで息子たちをそばに呼び寄せた。午前には妹たちがやって来てあれこれと父母の世話を焼き、本当は泊まりたいけれどそうもいかないから明日にも来ると兄たちに念を押して帰った。妹たちが夫のもとで子を儲け、女主人として嫁いだ家を取り仕切るのを、いまのところ彼女らよりずっと身軽なスキピオは感嘆の思いでさえ見ている。
 兄は椅子を引いてきてそれに腰掛けたが、スキピオは寝台に顎をのせるように床にしゃがみこんでいた。幼い頃にそうしたように。父も同じことを思ってか、頭を傾けて彼の息子に向けて少しだけ、眉を寄せてみせた。
「ウェリアにいるとおまえがあまり顔を見せないだろう」
「……何度もお訪ねしたと思いますよ」
「もっと来てほしかったという話さ」
 父の痩せた肩には上の妹のアエミリアが織った布で仕立てられた上着がかかっている。寝台のそばの小机に置かれた花輪は彼女の幼い息子が作ったものだった。トゥベロも、他の孫たちも、本当は祖父に会いたいだろう。彼らが願うよりずっとたくさん父と会うこともできたのにそうしなかったことが今更惜しく思われた。
「今晩はずっとここにいます」
「極端だなあ」
「いまは父上のそばにいたいけれど、この間はそうでもなかったんです。それだけですよ、それだけ」
「おまえが私のそばにいたいと言うのを聞いたのは初めてだ」
「…………」
 スキピオは父でなく兄を見上げた。彼ははっきりと憶えていないからと首を傾げ、時間を気にしている。医者があまり長く話させるなと言ったのだけれど、彼らは父が話したいと言うなら甘えてもいたかった。
 自身の近況など何を話そうにも父を楽しませる調子を纏いそうになく、スキピオは本当にただパウルスのそばにいるだけだった。言葉少なに、ファビウスが自分の息子について話すのを、父は嬉しそうに目を細めて聞いた。
「父上からのお手紙にあることなら、それまでどんなに嫌がっていてもやり遂げるんですよ。魚が食べたくないと言っていたのも克服しました」
「そう、挨拶もきちんとできるようになって」
「それでも直接諭して頂くのが一番でしょうから、明日か明後日か、父上の体調さえよかったらクィントゥスを連れてきます。今度は着替えるのを嫌がるようになってしまって……」
 本当は自分の言うことを聞いてくれるのが一番だけれど、と兄が苦笑して、何故かスキピオをちらを見た。
 スキピオだけが意味がわからずにいるのにふたりは諒解しあって笑っている。こういうことが幼いうちには何度もあって、時には癇癪を起こしたものだと思い出した。父と兄だけが分かっていて自分には分からないというのは途方もなく気に入らず、説明されたって腑に落ちることでもないのに、ひとつひとつ説明しろとせがんだものだった。
 いつもならば晩餐が開かれて、それが酒宴へと姿を変えている頃合いだったが、この屋敷はまるで寝静まっている。パウルスの相槌が曖昧になって、徐々に目付きがぼんやりするのを認め、ファビウスがそろそろ失礼しようと言って促すのに、スキピオはかぶりを振った。
「ここにいるって言ったもの」
「本気だったのかい。……なにか上着を着て、静かにしていなさい。父上を起こさないように」
「クィントゥスの聞かん坊がひどくなってから僕とあの子の見分けがつかなくなってるよね、兄さん」
「ついているから言うんじゃないか」
 潜めた声はかえって静かな寝室に響き渡っている。部屋を出る間際にファビウスが灯りを吹き消すと、小さく開かれた窓からの月明かりばかりが頼りとなった。
 父の寝息の穏やかさ、単調さを、じっと耳を澄まして聞く。彼が病に倒れてすぐには本当に死んでしまうと思ってスキピオを含め誰も彼も、真っ青な顔で右往左往していた。いまはこの病と付き合うのに慣れて、時間が与えられたと父が言ったのに頷くこともできた。自分たちには時間が与えられたのだ。夢に見ることさえできない突然のこと、恐れに倒れることさえ間に合わない断崖のような悲しみは退けられた。
 兄が置いていった上着を羽織ってまた同じ場所に戻る。椅子に座る気にどうしてもなれなかった。頬をつけた寝台の感触や匂いを知るはずもないのに、懐かしい。
 髪に触れたものに顔を上げそうになって、どうにか押し留める。彼のもう剣も盾も握ることのできない手がスキピオの頭を撫でているのだった。「父上」そっと呼びかける。夢心地なのかと思って。「父上?」答えはなかったが、手ばかりはしっかりとしていた。
 そろりとその手に触れてみても、彼が撫でるのを止める様子はない。少し浮かせていた頬をまた寝台につけ、そのささやかな重みを享受することにした。
「もう心配することもないな」
「僕のこと?」
「そう。お前のことばかり心配してきた」
 その言葉は聞き飽きていると言ったら、どうするだろう。あなたのことが心配だ、あなたのこと、あなたの家のこと、あなたが継ぐ家のこと……。
 もうスキピオは子供ではとうになく、若者と呼ばれることで多少評価が甘くなることを期待する齢さえ過ぎようとしていた。若造だの青二才だの、そういう存在になって、相変わらず崖を登らねばならないのだ。父が登り切った崖だった。父がそれをどんなものと思ったかは知らないことだった。
 疲れたように手が落ちて、スキピオの肩に指先が触れた。熱があるのかと思う手だった。
「あのとき帰って来たのがお前でよかった……」
「……父上」
「お前をスキピオに呉れてやってよかった、私が守れずともあの男は守ってしまえるのだから」
 とうとう顔を上げると、父の穏やかな目がそこにあった。彼の目に自分の顔が見えていなければいいと思うのに、月明かりは目に眩しいほどなのだ。
 父の手を握った。彼には握り返す余力があるのかないのか、そんなことも分からないまま強く握りしめ、スキピオは何か言葉を、ひとつきりでいいから捕まえようとしていた。言葉になるはずのものたちは思い出に似て、流れるばかりで目にも留まらぬのだった。途方に暮れて自分を見上げている息子をパウルスは──彼は笑んだ。
 戦場で、この人にこうして微笑まれたのなら生命を投げ打ちたくなる、そんなことを思った。この人の前で無様を晒すくらいなら、落胆されるくらいならと、少年のスキピオは純朴に信じ抜いていた。
「お前のことは私が知っている、他の誰が知り、言い立てるよりずっと正しく」
 あなたのようになりたいと、スキピオは彼に言わなかったのだ。養父には何度も話し、彼の力添えのもと、そしていまは師の助言のもと、目指しているのはあなたそのものなのだと。
 両手のなかにあった父の手がとつぜん強張って、ほとんど呆然としていたスキピオはすぐに立ち上がった。胸のあたりを抑えて背を丸めた父の呼吸が乱れる。痩せた手足が幾度も痙攣し、眼差しが虚ろになっていく。ああ、と呻いたのが自分だとはスキピオは知らなかった。大声で医者を呼びつける間にもその手を離さないでいたのにも気が付かなかった。
 医者が部屋に飛び込んできて、召使たちが部屋に灯りを点す。スキピオはおそらく兄に部屋から引き出されたのだろうが、部屋の中を見つめるファビウスの顔を見てやっとそれが分かった。
 翌日に妹たちが、その翌日に彼女らの夫と子供たちがやって来た。幼い子供らは何が起きているものか知ってか知らずか、当座の子供部屋で乳母とじっとしている。スキピオが顔を見せると真っ先にマクシムスが寄って来、腕を伸ばした。小さな身体を抱き上げればひしとしがみつく。ねえ、と叔父を覗き込んだ大きな目は鮮やかに青い。
「おじいさまは何を言ってるの」
「名前を呼んでるんだよ」
「だれの?」
「まだ子供の時に亡くなった僕の弟たちのこと、それに君たちからすると曽祖父にあたる方のことだろう」
 ずっと父は譫言ばかり繰り返していた。意味の取れる言葉もそうでない言葉もあった。子供らには得体の知れないものでしかない。
 トゥベロはマクシムスとマルクス・カトーよりほんの少し年長だからか、伯父を見つめるばかりで動かなかった。部屋を出たところで手招くとトゥベロはマルクスの手を取ってスキピオの後に続く。父の寝室に入ったところで、寝台を囲む人々がこちらに気がついて目線を上げた。マクシムスは叔父の腕を下り母の裾に身を隠すようにして抱きついた。
 枕元に立つファビウスが彼の弟を振り返る。その顔は影になっていて見えなかった。
「プブリウス、こちらに」
 足が重くてならなかったけれど、スキピオはすぐ彼の隣に立つ。向かい側で継母と妹たちが泣き出しそうな目をしてパウルスを見つめていた。一度兄を見てからでなくてはスキピオはその眼差しに倣うことができなかった。
 この位置に立つのは初めてのことではない。二度目のことでさえない。それなのにこうも逃げ出したいのは初めてのことなのだ。養父に名を呼ばれたときあったのは安堵だった。自分がそこに立っていてもいいのだという、場違いな喜び。
「…………」
 父の目はどこを見ているのか、もしかすると開かれているだけで何を捉えているわけでもないかもしれない。たった三日前にしたように膝をつくことができればどれほどいいか。
 不意に彷徨ったように見えた父の手を兄が取る。そのとき掠れた声で呼ばれたのは兄の名でなかったかもしれないし、もしかすると、兄を指す名であったかもしれない。ファビウスは顔を伏せたまま、捧げ持った父親の手になにごとか、声に出さぬまま囁いた。
 医者が近寄ってきてほとんど決まった手順通りに全てを確認していった。そして数年の間ずっと父を診てきたギリシア人はそれが苦痛だという顔で死を告げた。ファビウスが手を伸ばし、パウルスの目を閉じさせる。そして彼はその父の名を呼んだ。彼のものとは異なる名、それでも彼だけが呼ぶことのできる名だった。
 そろりと指に触れたものがあって見下ろすと、トゥベロと目が合う。
 彼の母親はその母と妹とを抱き締めるようにして毅然と立っていた。一歩引いた場所に立つ父親の手をすり抜けて伯父のもとにやってきたトゥベロはこの場にいるのが怖いのか、寂しいのかと最初思った。スキピオにはその瞳が不安に揺れ、ひたすらにそれを解きほぐすよう求めているように見えたのだ。しかし違っていた。
「おじいさまはどうなるの」
「……どう、って?」
「いなくなってしまう?」
「そんなことはないよ、トゥベロ……」
 母の手を離れない年頃の甥が、こうして言葉を待つことを知っているといまこのとき分かるのは、大切なことだった。問いを抱く真摯な目に微笑みかける。スキピオはいつもこの子たちにそうしてやっているつもりだった。
「君がいてくれるから、そんなふうにはならない」
「ぼくがいるから?」
「そうさ、君が……」
 続く言葉は拾えていたのに、続けることができず、スキピオはトゥベロの目線に合わせて膝をつく。
 ひとたび流れだしたものをどう押し戻せばいいかをスキピオは知らなかった。子供の顔がぼやけ、瞬きをするたびに膝を濡らすものがあった。
 トゥベロが目をまんまるにして彼の父親を振り返った。けれど彼は誰の助けも言葉もなしに、小さな手を伸ばす。柔らかくて暖かな手のひらがスキピオの頬を伝う涙に触れて、不器用に拭っていった。吐き出されきらない息が胸に詰まってスキピオは口を覆ったけれど、嗚咽がひどくなるばかりだった。
 トゥベロはスキピオが泣き止むまでその手を引っ込めなかった。優しい子供は礼を言われてなんのことだか分からないという顔をした。その目を見れば分かる。自分とこの子は、この場にいる者はみな遺されたのだ。父が選び遺した、彼の宝だけがここにはあった。

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