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 ローマに戻って最初に聞いたのは歓声ではなく、悲鳴だった。
「お兄様……」
 およそ一年ぶりの兄の姿を前にして、アエミリアが呆然としていた。無事に戻って良かったと言いかけてはつっかえて、どうしてここに来たのと問おうとして、それもできずに。
 妹がそんなふうに動けずにいる訳を、スキピオはもう知っていた。
 姉よりも後ろで、伯母に付き添われたテルティアの幼い顔は青褪めて強張っていた。彼女たちまで病に取り憑かれぬようにと継母によってスキピオの屋敷に預けられて、ずっとおとなしく過ごしていたのだろう妹たちだった。
 アエミリアが見開いた目で兄を見上げる。
「ルキウス兄様は……?」
 ギリシアにあった時その報せはなかった。戦勝を報せた兄がローマに戻った時には、弟たちは喜びをいっぱいにして兄を囲み、限られた時間で聞き出せるだけの話をせがんで、別れを惜しみつつも次に会うときはもっと嬉しいはずだと笑っていたという。
 まだ成人しない弟たちが病に倒れ、もう幾許もないなどとは、誰ひとり考えもしなかった。
「ルキウスは……」
 続きが言えずにまた口を閉ざした兄に、アエミリアがよろめき近づく。
 ──きっと大丈夫だよねと弟は何度も繰り返していた。
 フォルムでは、父の凱旋式について激しく争いが起こっている。期待したほどの戦利品を得られなかった兵士たちが凱旋式の挙行を阻み、民衆は輝かしい勝利に泥を塗る行いに歯噛みして、父はその渦中にある。将軍であるパウルス自身は決定が下るまでは市域に入ることができなかった。
 良心ある人々が父の武徳を庇い、きっと凱旋式は行われるだろう。スキピオはそれをどこか遠い出来事のように思った。ペルセウスの船でティベリスを上っていた時には、あんなにも心躍らされる想像だったのに。
 けれどルキウスはずっとそれを心配していた。起き上がれもしないのに何かできることはないかと父を案じ、兄たちにフォルムはどんな様子か繰り返し尋ねた。高熱を発しそれが下がらず、朦朧としているのに兄のつく嘘を見抜いて、本当のことを言ってと怒りさえした。
 叫ぶこともできない母の腕の中で眠って、もう目を開かない。
 かろうじて小康を保つガイウスにそれを悟られないよう母も乳母も、家中の誰もが声を殺していた。ファビウスがガイウスのそばを離れず済むように、スキピオだけが妹たちのもとにやってきたのだ。
「お願い……」
 兄の胸に縋った手は激しく震え始めていた。泣き疲れた目から涙を流して、アエミリアは何度も首を横に振る。お願いと妹は叫んだ。
「お兄様お願い、ルキウス兄様とガイウスを助けて、助けて! 助けて……!」
「アエミリア」
「いや! おねがい助けて、助けてよ、お兄さま、どうして……」
 縋る手で兄を押しやり叩いて、不意に膝の力が抜けたアエミリアを支えたスキピオは、母親と同じ目をした妹を抱き寄せた。恐怖に怒りが綯い交ぜになり、虚脱しかけてまだ現実に踏みとどまっている目だった。
 その五日後、凱旋式はセルウィリウス・ゲミヌスの弁護が功を奏して無事に挙行される運びとなった。マケドニアの富は一日ではとても市中を渡りきるものではなく、凱旋式は三日をかけて行われた。
 スキピオもファビウスも、行列の中から父を振り返るふりをして何度も戦車に同乗するガイウスの姿を確かめた。姉妹に支えられながら、凱旋式の三日目、どうしてかその日だけ歩き回るだけの活力を取り戻した末の弟は夢の中にいるような顔をしていた。ルキウスは起き上がれないからお前だけでもと、周囲がついた嘘を信じていたかどうか、兄たちと目が合うと笑みを浮かべた。
 市民たちの中にも、様子のおかしさに気付いたものがあったかもしれない。父に近い将校たちは行列を歩かされるペルセウスやそのふたりの王子と王女への憐れみ以上に、息子の葬儀のあとでこの行列の最後を進む将軍への畏敬にとらわれていた。
 波となって押し寄せる歓呼、兵士たちがパウルスを讃えて歌う勇壮な声、足並みを揃えて進む者たちがひとかたまりになって起こす地鳴りのような響き、そのすべてを聞きながら、父は静かな眼差しで前だけを見ていた。


 夜が更けてからの葬列は静かに進んだ。それでも運ばれる棺の小ささに、誰もが一瞥して何が通るのか気がついてしまう。ただ彼らが驚きを見せ、深い哀悼を表してくれるのは、その列を歩く男の姿をも知っているためだった。
 スキピオは肩にかかるのがあまりに小さな重みであることを思わないではいられない。棺は小さく、簡素で、この葬列そのものも華々しさとはかけ離れていた。讃え惜しむにはあまりに幼すぎる死者を担いで彼らは歩いている。そしてこれは、つい先ごろにも辿った道なのだ。その時にはもう少しだけ棺は重く、泣き咽ぶ声には引き裂かれる痛ましさがあった──いまはただ呆然と落ちていくばかりの涙だった。
 ローマへと戻り、幼い息子たちが揃って病に倒れているのを伝えられたきの、父の顔をスキピオは目にした。あるいはそのとき既に我が子を死の手に奪われるのを悟って恐れを隠さなかったパウルスが、どのようにこの葬列を歩く足を励ますのかを。
 ガイウスは、凱旋式の三日後に息を引き取った。最後の一日はもう何も見えていないようだったが、父の腕に抱かれて、何か口ずさんでいた。それは凱旋式で歌われた将軍を讃える歌だった。
 もう声を殺す必要はないのに、誰も声を上げては泣かなかった。抜け殻のようになって娘たちに寄り添われている継母が自分をどんなふうに見ているのか、見たくないのか。苛んでいるという思いにこそ苛まれてスキピオは彼女から目を逸らし続けている。
 喪服の影が闇の中に溶け込んでいる様は、光のない墓所へと開かれた入り口は、足元を覚束なくさせた。松明を持って先を照らし歩きながら父が彼の先祖の棺を、真新しい息子の棺を、そしてそこに彼の父の棺がないのを、ゆっくりと確かめていく。続いて入って行きながら自分は死者としてここに訪れないのだということを、スキピオは思っていた。そしてスキピオ家の墓所も同じように存在するけれども、そこに英雄は眠らないのだということを。
 数年前世を去った養父はスキピオを連れて先祖を参ったとき、よく眠れそうな場所だろうと言って、笑っていたけれど。冷たい空気にまじるにおいの正体は分からない。
 共にここまで棺を担いできた兄がスキピオに並んで立ち、父の背を見つめていた。兄のいまにも傾いで倒れてしまいそうな顔色のなかに、力の抜けた疲弊がある。
「おまえでなくてよかった」
 彼はそう言ったのだ。他の誰にも聞こえない小さな呟きで、スキピオが顔を上げるのを確かめたのに、その言葉を打ち消さなかった。ファビウスが続けて言いたいことさえ、スキピオにははっきりと聞こえたから、彼はかぶりを振った。けれども、その意図は伝わらなかったかもしれない。
 運命の移ろいのなかで父が報いを受けなければならないと言うならば、その腕からもぎ取られていくものは弟たちでなければ最もよかった。たとえローマではなく自身に、そして自らが負う家に幸運の代償を求めるようパウルスが祈ったとしても──その祈りの範疇に自分たちがいないことにふたりとも気が付いている。
 葬儀を終えて邸に戻った父は、誰にも何も言わなかった。彼は市民の動揺と同情を知って彼らへ向け何かを話すつもりらしかった。彼だけが弟たちがなぜ死んだのかを決められるのだ。なぜ、この日まで生きてきたのかを。もはやスキピオはそうではなかった。彼は自らに何を課すも自由で、それを幸運と呼ぶのなら──この幸運の代償はどのようにして求められるのだろうか。


 勢い良く駆け込んだ部屋、スキピオが自分のために設えた書斎に、出かけた時と同じように彼の姿があるのに深く安堵を覚えた。待っていてくれと言ったのだから当たり前だのに。
 彼としては素早く、急く様子で振り返ったポリュビオスに駆け寄って彼の手を取る。両手を捉えた手がいささか熱っぽいのに気が付いた彼はそれで訳が分かったようで、スキピオに続いて姿を見せたファビウスに向けた視線も、やさしいものだった。
「法務官のお許しを頂きました。ポリュビオス、あなたはどこにも行かなくていいんです!」
 彼とともにローマへと連行されてきたギリシア人たちは様々な都市に預けらればらばらになる。裁きを受けるべくこの地を踏んだはずの人々が法廷に引き出されることはなく、そのなかでスキピオと兄はただ彼だけを引き留めたかった、自分の側に。
 強く握られた手をそのままに、ポリュビオスはわずかに目を細めた。まさか彼が躍り上がって喜んでくれるなどと期待はしていなかったけれども、スキピオはふと我に返ったようになって彼の手を離す。
「お父上にもお知らせしなくてはなりませんでしょう、お礼も共に」
 ポリュビオスはそう言ってファビウスを見遣る。彼らの願いが聞き届けられた理由のひとつに、スキピオとファビウスの実父もまた同様の願いを持っているからというのがあった。他ならぬパウルス・マケドニクスが、子息のためにひとりのギリシア人を望んでいる、それだけのことでもあったのだ。
「お知らせするなら、三人で共に参りましょう。あの家は少しでも賑やかになったほうがいいですから」
「兄さん、僕は……」
「何だい?」
 兄はもう白い顔をしていなかったし、微笑みにも、伸びた背筋にも無理なところはなかった。スキピオが口籠って目を伏せるのをただ待っている様子にも変わりがない。
「……何か、飲むものを用意させます。一段落したら出ましょう。お伺いしますと、父上に知らせておかなくてはいけませんから」
 すぐに背を向けて部屋を出た。訝しむ眼に引き留められたくなかったから了承も何も受け取らなかったけれど、スキピオが彼らの前では何かとそそっかしいのはいつものことだろうと、そう思う。廊下で行き当たった奴隷に要件を伝えてすぐに部屋に戻らなかった理由をこじつけることはできなかった。
 ほとんど毎日そうであるように太陽の光が中庭に差し込む、このスキピオ家で過ごすことに慣れてしまうと、パウルスの屋敷がむしろ縁遠く思われるようになった。幼い頃に訪ねたとき物珍しく見ていたのと同じ場所に立っているのに、その頃の印象は夢半ばのように感じられる。
 庭先に立つとそんな風に曖昧な心地になって、それがスキピオは嫌いではなかった。
「──どうしたの、こんなところで。お兄様と先生がいらしているのでしょう」
 いつの間にか隣りに立っていた女性を思わずスキピオは真っ直ぐ見下ろし、すぐにまた前を向いて、答え倦ねて曖昧に笑った。
 スキピオの顔を少し覗き込んだアエミリアはそれで何が分かったわけでもないだろうに、そう、と呟く。
「パウルスのところに行くの?」
「はい、ポリュビオスのことをお知らせしに。彼をローマに残せることになりました」
「それはよかったこと。あなたはこのところあの先生のことばかりだもの。ああ、そうだわ。あなたのお母さまに渡してほしいものがあるのよ。従者に持たせるわね」
 あなたも一緒に、とスキピオは心のうちだけで言った。アエミリアは、弟に会いたいならば自分からそう言って出かけるだろう。幼い甥たちの死に涙を流してくれた、そして自身の息子たちを喪って久しい彼女には、パウルスの心境というものがよく分かるのに違いなかった。
 かつてアエミリアが夫君や子供たちと暮らした屋敷はもうなく、グラックスがその跡地にバシリカを建てたのはつい二年前のことだった。スキピオはアエミリアが望むのならば田舎に別荘を買ってもよかったし、アフリカヌスが最期を過ごしたあの場所を贈ってもよかったけれど、彼女はローマに残ったのだ。
 そして彼女の息子の建てたこの家に暮らしている。スキピオが共に暮らす家族は、つまりこの伯母だけだ。養祖母と呼ぶべきなのかもしれないが、どう呼んだほうがアエミリアの気持ちに沿うものか、問えないでいた。
「友人からお礼の手紙が届いていたわ。あなたの紹介してくれた弁護人のお陰で上手くことが運んだそうよ」
「ええ、僕のところにも知らせは届いています」
 最初はスキピオ自身に届いた依頼だったが、より相応しい人がいるだろうと受けなかった。アエミリアを通じてとあれば確かな結果を約束すべきだと言って。
 言い訳を、と叱られた。あなたの養父が自分を頼ってきた人の手を取らなかったことなどなかった、何を見て学んだきたのか──あの叱責の続きが始まるかと思ったが、アエミリアはまた話を変えた。
「まだよく眠れていないのね、アエミリアヌス」
 その凛とした横顔は彼女の弟、スキピオの父に、当たり前だけれど通じるものを持っている。スキピオがまた何も言わないでいるとすこし冷たい指先が伸びてきて伏せたままの目元に触れた。
「そんな顔では心配をかけるだけでしょう」
「……僕は、悲しそうにしていますか?」
「いいえ。小さなころとおんなじ顔をしているの」
 それだからいけない、そう言ってまるで涙のあとを拭うように指先を払う。彼女に叱咤されることはそう珍しくもなく、けれどこのときは──スキピオは彼女から目を逸らさないでいられた。そこに見慣れた落胆はなかった。
 アエミリアは厳しくも優しい。それがどういった理由によってのことか、幼い頃ならばいざ知らず、スキピオはもう悟っていなくてはいけなかった。
「おかしいわね、そんなはずはないのに、時々あなたはよく似ている」
 大人になりきらない少年に彼女は様々なことを思い出している。その一部でさえスキピオには遠いのに、彼女がいま誰を見つめているのか、彼は悟ることができるようになっていた。だからただそこに立ち尽くしていたのだ。スキピオにはまだその他にできることがなかった。


 ローマの町をすべて見たいと彼は言った。カピトリウムだけでなく、貴族たちの邸宅だけでもなく。ポリュビオスはローマよりよほど古く栄える町を見てきたというのに、その熱心さはイタリアの地方から出てきた若者と同じようなものがあった。
 市壁の外には墓がある。庶民たちの集団墓地や街道に沿って並ぶ墓碑に、同じようなものはギリシアにもあるだろうに、彼は関心を持ったらしかった。スキピオはポリュビオスがゆっくりと彼にとっては異国語の墓碑を読むのを少し後ろで待っている。従者が何が楽しいのだろうと不思議がっているのに肩を竦めてやって、ひたすら静かな背中を前にしている。その向こうにまだ春の訪れを待つだけの空の色があった。
 アッピウス街道をひっきりなしに通う人々は、スキピオにもポリュビオスにも大して関心を向けない。暇を持て余しているならば墓碑に足を止めることもあるだろうと、それくらいのもので、彼らの方にはそんなふうに浪費する時間はないのだ。
「僕の入る墓はもう少し西に行った辺りにあるんです」
 熱心な背中に言うと、彼は律儀に振り向く。
「スキピオ家の墓所ですか」
「はい、代々の……アフリカヌスはリテルヌムに埋葬されましたから、いらっしゃいませんが。僕は入るつもりでいます」
 道を外れた場所にあるから、いっそう人はまばらだろう。軽い昼食を従者に持たせて屋敷を出たから少しの寄り道も、予定外の行動も構わなかった。ポリュビオスは見たがるのではないか、とスキピオは期待したのだ。
 筆記具をまとめて立ち上がった彼が案内して欲しいと言うのを待っていた。だからポリュビオスが想像のとおりにそう言ってスキピオを促すのに足取りだって軽くなる気がした。
「いちばん最近そこに入ったのは僕の養父です」
 ポリュビオスには様々な話をした。彼と再会しあの書物を返して貰った日から、彼をすぐそばに置いておけると決まった日も、いままでも。家族の話というのはその中でも大きな部分を占めている。
「お話しましたよね。養父はとてもいい人だった。陳腐な物言いになってしまうけれど、僕は彼よりも善良で、心根のうつくしい……よき人を知りません。たとえ義務を全うできなくとも養父は価値ある人間だったと思います」
「お会いしたかったですね、あなたがそうも慕うお方なら」
「……僕も会っていただきたかった。養父はギリシア語で歴史書を書いたんです、それも読んでいただきたいな。弁論の原稿もあります。すべて取っておいてあるので」
「あなたは実のお父上のことも大層尊敬しておられる」
 ポリュビオスはスキピオのすぐ隣を歩いた。彼らについて歩く従者のような真似は決してせず、彼が目の前にする少年に対し臆するということは絶対になかった。怜悧な印象を崩さないままのポリュビオスがいま穏やかだと分かるのは、足を急かさないその様子からだけだ。
「そして養家のお父上のことも。お幸せだ、人間そう多くの父を持つことはできないものです。あなたにはあとひとり増えることになるわけだし」
「まだ、それは……先の話でしょうけど」
 スキピオが何かを誤魔化したい気持ちで髪を撫で付けるのを、ポリュビオスはちらと見ただけで、眼差しは彼にはまだ親しみのない景色へと注がれている。
 折々に一族が集まって参ることはあっても、そうたびたび墓所に足を運ぶことはなかった。子供の頃には恐ろしげな場所だとばかり思っていたし、そこに親しい人が眠っているということもなかったのだ。
 墓所を認めて、スキピオはそれを指差した。名門に相応しいが壮麗な霊廟と言うほどのものではない。
「灯りを用意していないので、中には入れませんが……すみません、思いつきで言ったので」
 ポリュビオスは浅く頷いて構わないのだと言った。ひたひたと彼の瞳が墓所を辿り、何事かを思いながらそれを心の裡で形容しているのをまたスキピオは眺めることにした。彼が放り投げてくる沈黙も手持ち無沙汰もスキピオには快く思われる。
 座れる場所を探して木陰に腰掛けてみると、その光景は想像のうちか夢のうちか、ともかくどこか現実から浮き上がったものに見えた。理由は知らないが暗い色の衣服を好むらしいポリュビオスがゆっくりと歩き、時折立ち止まって、また進んでスキピオの視界を離れていくのを葬列のようだと。こうも日の照るさなかであるのに彼の暗い姿はそんなふうに見えた。スキピオにとってすれば、未だ慣れ切らない光景を彼が作っている。
 すぐそばに立って控える従者に隣に座ってはどうかと声をかけたが彼は頷かなかった。男の名はソレウスといって、もとはスキピオ家の奴隷だったものが養父の遺言のなかで解放されたうちのひとりだ。すでにコルネリウスの名を与えていたけれども、スキピオは彼をソレウスと呼びつづけたし、彼もそれで居心地が良いのだということを言った。
「ねえ、ソレウス」
 呼べば気安い顔つきでこちらを向く。何事もきちんとしているのだと養父が彼をほめたことがある。
「ポリュビオスのことをどう思う?」
「旦那様のお好きそうな御仁だと」
「それは何を見て言っているの、僕の友人たちと比べて?」
「それもありますが。つまりご立派なお方だと申し上げているので」
 世辞だろうかと思ったが、たぶんそうではなかった。何事もきちんとしていて、ずる賢いことを考えるほどの頭はないから、よく用いられて解放された男なのだ。すきっ歯を見せて笑う顔には彼に相応のものが詰まっていた。
「やはりお座りよ。先生は向こう側にまで行ってしまったようだから」
「付いて行かれないんですか」
「ひとりで歩かせて不安のある場所でもないもの……」
 墓など、と。スキピオは思わないでいようとしていたことを思って頬杖をついた。ポリュビオスにとってもスキピオにとっても墓は、ひいては死者は近くにありすぎるのではないだろうか。
 遠慮がちに隣に座ったソレウスに水を勧められて杯だけ持ったけれど、スキピオにはこのところ何かを食べるとか飲むとか、そういう意欲が乏しい。食べはする、飲みもするが、欲してすることがなかった。そういうことをもうスキピオの身の回りの世話をしなくなったソレウスは知らない。知らせてやらなくてもいいことだ、彼は心配するだろう。
 けれどももう浅い眠りに囚われることは少なくなった。夢がどんなものだったか思い出せないのにそればかり気にして目覚める、そんなこともなくなった。近くにありすぎるようでいてすでに遠ざかりつつあるのだ、幸とも不幸とも言い切れない。
「旦那様はなんだか、大旦那様に似てきましたね」
 彼の近況を尋ねていた最中だったのに出し抜けにそう言われて、スキピオは咄嗟に何も言えないで、ソレウスが機嫌よくしているのを振り向く。
「あの方もお優しくて、わたしはそれが嬉しくてね……ご立派な方は多いけれどお優しい方は少ないでしょう、奴隷なんか運でしかそこを選べないから、わたしはとびきり運がいいんだと思う」
 スキピオが膝を引き寄せるのをどう思ったのか、抱えていた外套を少年の肩にかけてやる、その手は節くれだって硬い膚に覆われているのに疎ましくはなかった。黙りこくって外套の礼も言わないでスキピオは耳を傾けようとしている。
 生まれたときから奴隷の身にあった男の語る幸福はあまりに簡素で、簡単なものだった。彼はいま連れ添う伴侶を得て嬉しい、仕事があって嬉しいと言って笑うのだ。そのついでにスキピオ家の誰でもいいから褒めたくてたまらないのだった。
「物覚えの悪いわたしを大旦那様は辛抱強く使ってくださった。辛抱というのは、むつかしいことだ。そうじゃありませんか。そのうえあの方にはわたしのために辛抱なさる必要なんかなかったのに。もっと酷い主人のところに売り飛ばされなかったことが嬉しい。旦那様」
「聞いているよ」
「大旦那様はご自分の子供がいないことをつらいとはおっしゃいませんでしたよ」
 まさかそれを幸福と呼ぶのだろうか。
 杯を傾けるとやや冷たい水が喉を通って、胸まで冷えるような気がした。すぐに空の杯を受け取ったソレウスはただ言いたくて言っただけなのだろう、返す言葉を拾い上げようとさえしていないスキピオの顔など彼は見ていない。
「おまえも僕を優しいと言うのだね」
 飲み下したはずの水がただ落ちた先で淀んでいるようだった。そこから浮かんだ言葉も声もみっともなくて、取り返しがつかない。
「旦那様はお優しいでしょう、わたしを座らせてくださる」
「そういうことじゃないんだ」
「それじゃあご友人のために方方を回って評判の名医を紹介して差し上げたことですか」
「褒めてほしいとねだっているんじゃないんだよ、ただ」
 言葉を失って黙りこむ相手をソレウスはただ不思議そうにするばかりだった。そこを追って言葉を費やさせるという発想が彼にはなく、スキピオがそれを彼に求めたことはなかった。ぽつぽつと落ちる静けさのなかに探すものがあるのに、スキピオはもう何を言う気にもなれない。ソレウスのせいではなく、自分のせいだった。
 養父が死ぬとき、最期に何を言ったのか、知っているのはスキピオだけだ。呼び寄せられ彼の手を取った息子だけ。掠れ、のたうつように痛ましい声で、それでも彼は自分のためには何も言わなかった。大丈夫だ、と。心配はいらないと。スキピオは、あの儚い人のことを疑ったことは一度だってありはしないのだ。
 ソレウスが不意に立ち上がったのに顔を上げると、ポリュビオスが戻ってくるところだった。何かを書き留めてきたものか手元に目を落としたまま、危なげなく歩いてきてスキピオと目を合わせる。
 昼食をどうだと尋ねると頷いたので、ソレウスに準備を頼んでポリュビオスを座らせた。まるで狩りか何かに出た日のようだと何気なく言うと、ポリュビオスが目をぱちりとさせて、「狩りが好きなのですか」と問い返す。
「ローマではさほど好まれる遊戯ではないと聞きましたが」
「流行りではないですが、僕は好きです。父は狩猟の先生を僕たち兄弟につけてくれていたし、書物でもよい訓練になると……ポリュビオスもお好きなんですね。キルケイウス山などは猪の狩場ですよ、季節になったらご一緒にどうです」
「ええ……」
「どうかしましたか」
「いえ、ただ、ローマにいてもあなたについていればわたしは趣味を楽しむことさえ叶うのだと思って」
 思わずといった様子で浮かんだ笑みだった。楽しみにしている、そう微笑む顔を、スキピオは見たことがなかったのだとそのとき知った。
 彼に言いたいことがある。尋ねたいこと、乞いたいことが。それはすべていっぺんに言ってしまわないと意味を成さないものどもだった。そしてひとつでもスキピオの願いのとおりにいかなかったら、何もかも得られないどころか、スキピオは失うもののほうが大きいだろう。ポリュビオスがそうと思わなくとも、そうなのだ。
「ポリュビオス」その手を取ると、彼はほんの少し指を曲げて応えた。「僕はできるだけのことをしたいと思います。あなたがこの国で暮らすのに、幸せと思えるようなことを何だってしたい」
 メガロポリスで初めて言葉を交わしたあの日よりも少し伸びた髪や、どこか寂れたような佇まいを、スキピオは見逃していなかった。彼が本当にしたいことは何か、望むことは何か、分からないほうがおかしい。それでもスキピオはそう言った、そう望んだのだ。
「あなたによってなら、もしかすると、そうなってしまうかもしれない」
 彼の故郷の言葉でポリュビオスは少年に答える。それが本心からの、ひとつの困惑のあかしだった。
 差し出した言葉に返ってくるものがそのまま充足に姿を変える心地よさをスキピオは昔から知っている。けれどポリュビオスにはもう一歩先に進んだ、彼の方から充足の姿を示してやろうと言う挑戦的なところがあって、それがスキピオに彼を先生と呼ばせる一因となっていた。そして同時に、もしかしたらと思わせる。
 お優しい方でしょうとソレウスは嬉しげに杯をポリュビオスに差し出して、ポリュビオスはスキピオの手から抜けだした右手でそれを受け取った。そして純粋な従者に頷く。彼は、異国の言葉を正しく用いることのできるのと同じに、その言葉の形を掴み損ねていないはずだ。
 もしかしたらと思う。彼ならばと期待している。その予感を裏付けるものがあるような気がしている。スキピオはまた杯を受け取って水を口にした。それは冷たかったが、彼を苦しめはしなかった。

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