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 手が強張って、指を伸ばすのに鈍く痛みを感じた。疲れは感じていないが身体の方はそう思っていないのかもしれない──ふと見回せば、あたりが暗くなっていた。月に照らされているのもあって、暗くなったのにさえ気が付かなかったのだ。
 鈍らになってしまった剣を鞘に戻し、馬の手綱を手にしたまま、その傍らに立つ。主人の若気に駆り立てられ疲れた様子の、しかし従順なその眼差しは、スキピオと同じところに注がれていた。濁りゆく敵兵の眼に月の輝きが入り込み、空になった身体を満たしているようだと、まさか同じように思ってはいまいが。
 途中まで数人の仲間と共にいた覚えがあるが、あたりに彼以外の気配はなかった。見上げれば星々が帰り道を教えてくれるものの、不用意なことをした、と息を吐くのも吸うのも穏やかな調子になってから独りごちる。戦いが始まって暫く経ち、戦場から外れた場所の近くにいるとすればローマ兵よりもマケドニア兵のほうが可能性が高い。
「急いで戻ると、おまえに無理をさせてしまうね……」
 撫でるのを嫌がらない馬を牽いて転がった死体から離れる。周りが見えなくなるほどに追ったのはこの兵士ではなかった気がするが、では何だったのか、考えようとするとどうにも散漫だった。要するにまだまったく落ち着けていなくて、スキピオは馬首に添えた自分の指が震えるのを見つけた。
 ──父は勝利を手にしたに違いなかった。
 蹄が地を蹴る音を耳にし、咄嗟に剣に手をかける。が、冷えた緊張は杞憂だとすぐ知れた。彼がこれから向かうべき方向から現れたのはローマ軍の、それも軍団副官の姿だった。
「──スキピオか?」
 問われ、はいと答えた声がいくらか掠れた。ふつりと糸が切れ落ちるように、意識できていなかった息苦しさが和らぐ。
 副官は騎馬のままスキピオのすぐそばまで来て、少年の様子をじっと見分したが、やや首を傾いで
「戻ることのできない有様ではないようだ」
 と、片頬を上げて言った。皮肉げな物言いをするその男のことをスキピオは勿論知っていたが、なんだか見たことのない笑い方をされたようだったので、呆けたように彼、メテルスを見上げていた。
 戦場にいるにしてはさっぱりとした彼の顔に、ああ、と合点する。メテルスは一度陣営に戻っているのだろう。……つまり、指揮を執る立場の彼が身なりを整えるだけの時間が経っているのだった。
「どうした、どこか傷を負ってでもいるのか」
「いえ、大した傷は……メテルス殿、もしかして」
「貴公を迎えに来たのだ」
 さっさと馬に乗ってついて来いと言うまでもなく、今しがたやってきた道を辿っていくメテルスを、スキピオは馬に飛び乗って慌てて追った。
 何かもっと言うべきことがあるだろうに言い出せないまま、平原に出たところでスキピオは思わず嘆息した。それは感嘆だった。地面を覆う死体は、進むごと多くなる。ざっと見渡すかぎりが敵であると分かり、少年の胸には得も言われぬ熱さが満ちた。渡った川は朝に見れば赤く染まっているかもしれないというほどで、これが単なる勝利ではないと彼に教えるに十分だった。
 不意に先を行くメテルスが振り返ったのでぎょっと背が伸びる。彼の指し示したほうから、それぞれ少しばかり離れたところにいた幾人かの騎兵がこちらに駆け寄ってきていた。
 闇に慣れ月に助けられた目でよくよく見れば、確かに共に戦っていたはずの同輩で──彼らはスキピオの名を口々に呼ばわったかと思うと、馬鹿野郎とか何とか罵り始めた。
「謝った方がいい」
「……どうして?」
「どうして、ときたぞ。行儀の良い言葉を選んでいる場合ではないな」
 メテルスに言われて青年たちがかえって言葉を失い、項垂れたり天を仰いだり、ひとしきり何かしらの感情を噛みしめるのをスキピオは待った。待つ間に、これはどうしてもこうしてもないな、と呆れた。
「僕を探してくれたんだね」
「そうとも!」
「死体を片っ端からひっくり返そうかと思ったところだった」
「それは、すまなかった。でもそれじゃあどうして、メテルス殿が……」
「メテルス殿だけと思うなよ、スキピオ」
 同い年の少年に凄まれ、スキピオは口を噤む。何を言っても失言になるらしい。
 その言葉の意味は聞くよりも見て思い知れと彼に言われて、嫌とは返せなかった。一行が自然と馬を急かしながら眼前にした堡塁の松明が、そのそばにいる歩哨らの姿を影にしていた。
 男は職務に忠実に向かってくる者たちを見定め、あっと気がついたように大きく腕を振る。歩哨の一人が物見台を駆け下りていくのまで見て、スキピオはいつの間にか隣に並んでいたメテルスを見た。何か助けになることを言ってほしいという、あやふやな期待で。
 にわかに騒がしくなった陣営を見つめるメテルスはやや冷ややかな声で言った。
「執政官殿は貴公の無事を目にも耳にもできず食事さえままならないご様子だった」
「う……」
「今はもう殆どの者が陣中に戻ったが、どれだけの将兵が命じられもしないのに若者一人の姿を探して血眼になったものか」
 こちらへ向かって腕を振り続ける歩哨たちに、スキピオは半ば自棄っぱちになって同じように応えた。大げさなくらい腕を振って、それが受けたらしいのに笑いが漏れる。これも自棄である。
 スキピオが戻ったぞ、と声を張り上げたのはきっと、スキピオと話したこともない古参兵だ。いま自分を見つめる者たちの殆ど、そのようなもので、しかし今となっては誰も彼もがスキピオを知っている。兜を外し、陣営の門をくぐったところで下馬した。
 そういえば兄は無事だろうかと思いついたのは、父パウルスの姿を前にしてやっとだった。やや遠巻きにスキピオとその背後の者たちを取り囲んだ兵士の壁が割れ、現れたパウルスは、目が合ってもいつものようには笑わなかった。
 彼のそばにはナシカもいて、スキピオと目が合うと笑顔で首を横に振った。何を伝えてくれたのかはわからなかったが、たぶんあれは苦笑に近い。
「ちちう、」
 言い切らないうちに抱き竦められて兜を落とした。何度か背中を叩いて身体を離したパウルスにも負傷した様子はなく、彼は何度もスキピオの背を撫でおろし、傷のないのを確かめてやっと、息をつく。
「戻らないかと思った」
「……夢中になっちゃったんです」
 聞いてもらいたいことがいくつもあったが飲み込んではにかんだ我が子に、父も目元を和らげた。それで周囲にもほっとした、やっと気が抜けた、という空気が広がった。
 すれ違う人みんなに肩だの背中を叩かれ、よかったなとか、お騒がせ者だとか声をかけられて、スキピオは逃げるように、幕舎に戻る父を追う。いまや陣営中に存在の知れ渡った少年が顔を赤くするのを笑う声もあった。しかし好意的だと思う。彼らは彼らの将軍であるパウルスを慕うからこそスキピオにもそういう態度でいてくれるのだ。
 執政官の幕舎に入る前に腕をはっしと掴まれて振り返れば兄がいた。彼も父と同じで、スキピオの頭の先から足の先まで眺めてやっと安堵を滲ませる。
「おまえは──……ああ、もう、先にこちらに来なさい。父上、あとでお訪ねしてもよろしいですか」
 パウルスは軽く頷き副官たちを伴って幕舎に入っていった。何か話し合いの途中だったのかもしれない、だとすれば申し訳ないことをした。
 弟の腕を掴んだまま歩き出しかけて手を離し、ファビウスは自分の幕舎に向かう。スキピオは軍装を解いた兄の腕などに包帯を見つけたが、それだけだと分かって安心した。
 兄についていく途中、視界の端を通り過ぎかけた姿にスキピオは立ち止まるより前に声を上げた。
「メテルス殿!」
 足を縺れさせかけた姿に気がついた彼は、大きく踏み出す歩き方ですぐにスキピオの前に立った。先程まで兜の影になっていた面がいまははっきりと見え、そこに険はなく、いやむしろ好意的に思われて、申し訳ありませんと口にするのに重苦しさはなかった。
「メテルス殿、僕を最後まで探してくださったのでしょう。それに、──あ! そうだ、馬と友人たち」
「いい。ただ私がそうしようと思ってしたことだ」
「……ならばこそ、パウルスに代わって私からもお礼を」
 ファビウスが言い、折り目正しい仕草で腰を折るのを、メテルスは鷹揚に受け止めた。
 上背のある男は柔くはない目つきで、しかし理知的な声とかたちをしている。スキピオを見下ろす彼にはスキピオと同い年の弟がいて、だからだろうか。その双眸の行う明らかな値踏みは、恐ろしくなかった。
「諦めるにはあまりに惜しい探しものならば、労苦ではないさ。姿を認めたときに馬を走らせた甲斐はあったと思わせてもらった」
「甲斐ですか」
「いまにも私を殺しそうに両目を見開いていたろう」
「それはあの、敵だか味方だか、咄嗟に分からなくてですね」
「貴公について聞く言葉、私には虚言だと知れたということだ」
 息を詰めた少年に彼は笑いかけなかった。見据えられたのはいくばくか、問うべきことがあるだろうと自らを叱咤するうちに強い視線は剥がれていった。兄に声をかけてから踵を返して行った姿を、スキピオは目で追い損ねる。
 先を促した兄が今度は手首を掴んだままなのを見て、スキピオはか細く問うた。
「僕、兄さんを心配させた?」
「当たり前だよ。おかげで喜ぶ暇もなかった」
「ごめんなさい。でもね」
「でもねはあとで聞いてあげるから。先に身綺麗にしなさい。血塗れだ、髪まで固まってるじゃないか」
 幕舎の中に入るが早いか濡れた布を渡され、髪を拭ってみると赤黒く布が汚れた。兜を被っていてどうしてそうなるのだと言われても、自分でも不思議なので答えようがない。
 外套を取り上げて胸甲を外すのを手伝いながら、ファビウスはスキピオのいない間のことを話してくれた。父は戦いが勝利のうちに終わった後、スキピオの姿が見えないのを知ると顔を真っ青にしたのだとか、夕食の席についていた兵士たちみんなが将軍の悲嘆を知って席を立ったのだとか。ファビウス自身どれほど気を揉んだか分からないと言って、弟の小さな傷に薬を塗る。
「医者がいるような傷はないよ、兄さんのそれはどうしたの」
 腕の包帯には血が滲んでいた。けれどもファビウスはちらと笑みを覗かせる。
「ケンソリウスのご子息がいるだろう。そのカトー殿が失くした剣を探すのに力をお貸しした」
「……剣は?」
「見つけたとも。それでみんな盛り上がってしまって、見ものだったよ。みんなして喜んで歌まで歌って……ケンソリウスがお聞きになればさぞ、お喜びになるだろうね」
 カトーとは言葉を交わしたこともあるし、この陣営で何度も顔を合わせているが、温和な印象が大きい。父親に比べれば控えめに思われるという評価は、彼の父親の強烈な個性を思えば割を食っているものだった。
 その青年がしかし猛然と敵を倒したのだと聞かされてスキピオは嬉しくなった。武具をみんな外してしまって足や腕を拭いながら兄にもっと詳しく聞かせてくれとせがむうち、馬を駆り剣を振るったときの気分まで蘇ってくる。
「父上のところに行って、楽しかったなんて言うんじゃないぞ」
 片眉を上げて言うのは真逆のことを考えているときの合図で、スキピオもしかめつらしく頷いたが耐え切れないで忍び笑いを漏らした。
 弟の頬に固まった血を拭い去ってからまた幕舎を出た兄に続き、見上げる夜空には、煌々とした月がある。一度は影に覆われて誰しもを怯えさせたが、そのとき感じた不安をもうひとりも覚えていない、そういう夜だった。


 王という存在に夢を抱いたことがないのだから、幻滅もなにもないだろうと思っていた。けれども呆気にとられ、思わず隣に立つトゥベロを見上げて、自分は王ではなく敗者の有り様に幻滅したのだと悟った。
 大人は激情に駆られどもぶざまに取り乱したりしないものだ。少なくとも、スキピオの知る人々はそうだった。マケドニアでは違うのだろうか? 幕舎の外に立つスキピオらにまでその嘆きの声が聞こえ、ペルセウスが父に何を懇願し、哀れみを乞うているものか、分からないではいられない。スキピオは不自由な暮らしを知らない王子や王女たちが異国の兵士に囲まれ不安げにしているのを見てほんとうにかわいそうに思った、その哀れみばかりを王の声は掻き立てるようだった。
「パウルス殿は落胆しておられるだろうな」
「落胆、ですか」
 トゥベロは自分もそうだという顔で幕舎を見遣る。妹の婚約者はどのような場面にも余裕のある、泰然とさえした風情を崩さないのに、この時ばかりは居心地が悪そうにしていた。
「アフリカヌスの栄光が私たちにとっても限りないものであるのは、その敵が比類ないものであったからだよ。ならばこそパウルス殿はペルセウス王への敬意を捨てようとはなさらないのに、これでは……」
「当たり前のことのように思われてしまいますか」
「そんなことは誰にも、何にも、ありえないと思うのだけどね」
 そうだろうかとスキピオは思い口を開きかけたが、幕舎から将校のひとりが出てきて外にいた他の将校を招き入れたので言わず仕舞いになった。
 椅子に腰掛けている壮年の王は父よりもずっと若いはずなのに、泣き腫らしたためか、夜毎不安にかられて眠れなかったのか、項垂れる様子はひどく窶れて老人のようだった。彼は自分に注がれる若者たちの眼差しに気が付いただろうが顔を上げなかった。
 パウルスはぐるりと幕舎に入った者たちの顔を眺めて、トゥベロの言葉を裏付けるようにじっと沈黙していた。沈思することは多くとも、このようにまるで当惑して言葉を失くしたような姿を見ることは少ない。
「おまえたちもまた己を戒めなくてはならない」
 そう言って顔を上げたパウルスはラテン語を用いていた。
「私を、そして自らを幸運のなかにあると考える者がここにいるかもしれない。それは正しい。私は大きな、また小さな幸運を与えられた。ならばこそ不安に思う。誰しも、幸運に己を傾け自惚れていれば、その変転を前にして何もかもに見放されることになるだろう。いまこのとき幸福を得た者はその代償を求められる日を思い、神が何を見舞わしたもうか、恐れなくてはならない。勝者である我々はもうひとつ幸運なことにこの王の姿を目にしている……」
 指し示されたペルセウスにその言葉が分かるかどうかはともかく、彼には父の言葉をより早く聞くことができればよかったのだろうとスキピオは思った。
 順繰りに若者の顔つきを確かめた父と目があったとき、たぶんスキピオは彼からすると拗ねた顔に見えただろう。彼は皆が真摯に自分の言葉に耳を傾けたのに満足して、あるいは安堵して少しだけ表情を和らげた。
 パウルスはペルセウスを立たせ、握手を交わすと彼を連れ出すようにトゥベロに言った。あまりにも惨めな、けれどもその場の誰の憐憫を誘うことの出来ない男が必ずしも何もかもにおいて愚かだったわけではないと、スキピオも他の者たちも知っている。彼の国は彼のもとで栄えることもできただろう、ただ、時が悪かったのだと言うこともできる。
 それからパウルスは司令官として各々に指示を与えてから、他と一緒に幕舎を出ようとしていたスキピオを呼び止めた。そのときにはもう彼は父親の顔になっていて、地図を広げてみせる様子になにか良いことがあるらしいとスキピオは眉を上げる。
「これからペラで処理すべきことが済めば、暇というのではないが、少々好きに使える時間ができる。プブリウス、ギリシアにいるのにあそこには行けないのかと思うところはないか」
「あります!」
 それはもうたくさんある。間を置かずに答え身を乗り出したが、地図を指し示しているときりがなくなりそうだった。
「私にもある。これは旅行というよりもギリシアの視察だ。各地の様子を見ておかなくてはならない。見物はそのついでだな。そこまで大勢を連れて行く必要もないが……」
「僕をお連れくださる理由がないとは、おっしゃいませんよね、父上」
 意地悪く悩むふりをしていたパウルスは、すぐに相好を崩した。あんまり早いので悪ふざけにもならない。スキピオはますます目を輝かせて何度も地図の上に視線を行き来させた。
「なんて素晴らしいんだろう! もしかしてと思っていたんです。……兄さんはいかがなさるんですか?」
 ピュドナでの戦いの結果を元老院まで携える役目を、父は自分の息子に与えた。それは紛れもなく誉れであるし、その使者一行にはメテルスも加わっていたので、スキピオは心配をひとつもしていない。しかし兄とてこの地への思い入れは深いはずだ。
「戻って来るのを待つ余裕はある。ペラに入って暫くは動けないからな」
「では一緒に!」
 ひとしきり喜ぶのを見てから、パウルスはやかましいと言いたげにスキピオを幕舎から追い出した。けれどもギリシアの地、名こそ知れど目にしたことのない多くの場所への憧れは父にもあることくらい子はよく諒解している。
 やたら存在の知れ渡った将軍の息子がはしゃいでいるのに目を丸くする人々、そのみんなに自慢して回りたいくらいだった。自慢したところで然程羨まないかもしれないけれどそれでも構わない、そういう気分でいた矢先、見知った顔を見付ける。
 背後から呼ばれたカトーはすぐにこちらに気が付いて、スキピオが満面の笑みで駆けてくるのにややたじろいだ。
「……何か良いことが?」
 不思議そうに言う、その頭に巻かれた包帯が少々痛々しかったが、深い傷ではないと聞いていた。
「あったので、聞いてほしくて。お忙しい?」
「いや、手紙を受け取ったところで……話くらいなら、構いません」
 大切そうに両手で持った手紙に視線を送られて、父親からだと白状したうつむきがちな顔はすこし、いや大いに嬉しそうだった。
 すこし口元を綻ばせてみせる様子は線の細い青年のそれで、温かみのある眼差しを送られる手紙もまたそうした柔らかさを連想させるが──実はそうなのかもしれない、いくら著名な相手と言っても子息への様子まで知っているわけではない。
「ちょっと読ませてもらうとか、だめですよね」
「だ、だめです。それよりも、何を自慢してくれるんですか」
「父上にギリシア見物に連れて行っていただけるんです!」
「ああ、それは……」
 よかったですねと二、三度頷く。それがギリシアに、というところよりも父とともに、というところに重点の置かれた頷きに思われた。
「カトー殿はやっぱり、興味がないんですか? お父上と同様に」
「ありますよ、父も。知らんぷりしてるだけです。あなたのように好きというわけではありませんけれど」
「ああ、よかった。面白くない話をしてしまったかと思って」
「そんなこと……そうだ、私もお尋ねしたいと思っていたことが、あって」
「なんです?」
 ぱちぱちと忙しなくまばたきをして、少々言い淀むカトーは手紙とスキピオと、何故かパウルスのいる幕舎の方を交互に、見るというより覗き見るようにした。
 相談したいのだと彼は苦労して告げた。兄は会戦での一件でカトーに以前よりも親近感を覚えているらしかったが自分はそうでもなく、それはカトーも同じことだろうに。そう訝しんだのが分かったのか彼は重たげに口を開いた。
「その、土産の品をですね、何がいいかと考えるのですが私は疎くて」
「おみやげ。それは……どなたに? お父上?」
「いえ、あの、違うんです。いやもちろん何かあればいいけれど気に入って頂けそうにないので……あの……パウルス様のご息女に……」
「はっ?」
 やけに大きな声が出た。上の妹の婚約者が陣中にいることを知らぬはずもなく、ならば末のテルティアのことだろうが、藪から棒にも程がある。
「違うんです」
「何がですか……」
「違うんです、そういう話を父と、ああ違う。つまり、パウルス家、ひいてはスキピオ殿ファビウス殿と縁をという気持ちが私にあって、父が乗り気に見えるということで……本格的なことはこの軍務の終わってからと送り出されてしまって。もちろん私からとは言わないでお渡し頂けると嬉しいのですが」
 二重にも三重にも驚いて何を言ったものかも掴めないスキピオに向かって、冗談を言っているわけではないのだとカトーは強調した。
 自分たちの名前が連想させることはひとつしかない。スキピオ自身がこのカトー家の跡継ぎと友好的であるということ自体驚かれることがあるのに、その原因たる人物の心変わりには現実味さえなかった。
 目尻を赤らめて注視に耐えている青年がこんな冗談を言わないことくらい、浅い付き合いでも分かる。駄目かと尋ねられ駄目とは言わなかった。
 高価過ぎず、しかし幼い少女としては初めて持つような、きらきらしい髪飾りなどでいいだろうと助言すると、カトーははっきりと力の抜けた笑顔で礼を言った。彼の両手のなかでくしゃくしゃになった手紙については触れないでいたが、彼とその場で別れて歩き始めてすぐ、驚いたような慌てたような声を背で聞いた。
 スキピオはそっと、父のいる幕舎を少し振り返る。
 トゥベロは、アエミリア自身とても気に入っているというだけでなく異母兄である自分たちとしても不満のない相手だった。大勢の親族と一緒に狭い屋敷で暮らすこと、清貧と呼ぶべき貧しさに妹が耐えられるというなら自分たちに不安はない。ならばカトーはといえば、これ以上ないと言えるのではないだろうか。コルネリアのためにグラックスを捕まえてきたアフリカヌスの気持ちというのはこういうふうだったかもしれない。
 いいことが多すぎる、と誰かが脳裏で言った。溜息をつくような声だった。


 旅の供として何冊も書物を携えたスキピオと兄に父は少々呆れた顔をしたが、およそいつものことなので叱られるということはなかった。そもそもこれらの書物はペラの王宮で父がスキピオと兄に与えてくれたもののほんの一部だったし、自分と奴隷ひとりとで持っていられる分だけなのだ。
 先だって言われたようにギリシアへの偵察に父は少数だけを連れることにした。従者を含めても大した数にはならず、だからこそ、行く先々の都市で訪れたい場所みな回ることができたということでもある。各都市の情況を鑑みて請願を聞き裁可を下すだとか、王の蔵を開いて配給させるだとか、祝祭や宴を主催するだとか、パウルスには将軍として様々に仕事があったがスキピオには特になかった。
 自分たちが去ったあと父の像が載ることになった角柱を見上げるに至り、スキピオは勝利が変えるものを知った。父を訪ねる人々、父を迎える人々は、ローマの姿を彼に見ている。ギリシア人たちが両手を擦り合わせるようにしながら父に阿るのを目にすれば、自分が従うのはただのひとりの人間ではないのだ。
 その父のいちばんの楽しみはどうやらオリュンピアだというのが兄の予想だった。書物から、また伝聞から想像するばかりだった名立たる土地すべて感嘆せずにいられないものだったし、故事に思い巡らせる横顔は緊張の解かれたゆったりとしたものだったが──それもこれも最後に訪れる彼の地への期待を膨らませる過程のようだった。
 一行がメガロポリスに立ち寄ったのはそのオリュンピアを目指す途中、スパルタを出て半ばほど進んだときだった。
 ローマ人たちの饗応を請け負った屋敷の主人はリュコルタスといって、アカイア同盟の長官を務めたこともある人物だという。長子のテアリダスに支えられる様子から病を患っているものと知れたが、しっかりとした眼差しと口ぶりで、老人の枯れた風情はあまりなかった。
 このメガロポリスもアカイアの他の都市と違わず党派の争いに揺れているなかで、父が彼の招きに応じた理由ははっきりとは分からない。分からないけれども、スキピオはこの家の人々と接していて嫌と思うことはひとつもなかった。
「メガロポリスといえばフィロポイメンというところがあるだろう」
 旅の疲れと主人の身体への配慮で早々に部屋に下がった父を訪ねると、彼はそう言った。
「そのフィロポイメンと、リュコルタス殿は親しい友人だったという。だからまあ聞ける話もあるかと思ってな。それだけでもないが」
「英雄譚ですか」
「おまえも好きだろう?」
 頷くが、いくら最近の人物とはいえ異国の英雄となるとどこか伝説を聞いている気分になる。しかしいまや、この父もまた英雄と呼んでも遜色ないひとなのだ。
 ややぼんやりしているのを疲れているのだと見てとって、パウルスはいくらか話をしてから息子を部屋に戻した。疲れといえばそうかもしれない。目新しいものばかり、初めて身を置く空気ばかり吸って、息をつく間を見つけられていない。
 眠りはすぐにやって来てくれたけれども、いくつか夢を見た。
 翌日には雨が降ったので、出立は更に明くる日ということになった。昼過ぎになってもしとしととあたりを濡らす雨は止む気配がなく、父は彼の言った通りリュコルタスと何くれとなく話し込んでいるようだった。スキピオは疲れが取れないということにして書物を相手にしている。父が穏やかに楽しげであったから、水を差すような気がしたというのもほんとうだった。
 庭が見えるが雨で濡れない位置に長椅子を持ってきてくれた下男も早々に引き下がって、文字に意識を落としこむのにそう時間はかからなかった。王の書庫にあったときにつけられた札がそのままの書物は当たり前のことながら状態がよく、手に入れたものみな購入していたならば暮らし向きが変わるかもしれない。
 ギリシア語は幼い頃から学んでいて、読むにしろ書くにしろ、また話すにしても、この地でさほど不自由を覚えない程度ではあった。それでも見覚えのない言葉というのはあるもので、すこし読み返してみたり読み進めてみたりして類推を利かそうとしても見当がつかないので首を傾げていたところに、ふと影がかかってスキピオは顔を上げた。
 背後から椅子を覗きこむようにして立っていたのは、見知らぬ男だった。黒髪がやや長めに切り揃えられ、怜悧な印象を与える双眸には深い知恵が宿っている。身形からして使用人ではなく、相応の身分と知れたが紹介を受けた覚えはない──どなたですか、と反射的に尋ねていた。男は黒い目をぱちりとさせてから、屈めていた腰を伸ばす。思いの外上背があった。
「失礼を。わたしはポリュビオスと申します、リュコルタスは父に、テアリダスは兄にあたります。昨日はご挨拶に伺えなかったものですから」
「それではこの家の……こちらこそ失礼しました、僕は」
「パウルス将軍のご子息でしょう、スキピオ殿」
 もう父への挨拶は済ませているのだと気付いて書物を片付けようとするのを彼は制した。スキピオが先程から格闘していた言葉を指でなぞってその意味するところを語った彼の言葉がその時だけラテン語であったのに、スキピオは礼を言ってしばらくしてから気が付く。
 テアリダスとよく似た顔立ちなのに、ポリュビオスには兄の見せた世慣れた風というか、大抵の人が身に着けている考える間もない笑みや、距離を掴もうとするまごつきがなかった。では彼がいまどの程度の場所にいるのかというのは、スキピオには分からないのだが。
「大層書物がお好きとか」
「書物の嫌いな人なんて……」
「いるのが不思議に思いますか、わたしも同じです」
 広げていたいくつかの巻物を引き寄せて長椅子に場所を作って見上げてみると、ポリュビオスは一言断ってからそこに腰掛けた。しゃんと伸ばされた背筋にも、まっすぐこちらへ向かう眼差しにも人柄が表れているなら、彼もこの家の他の人々と同じで、きっとスキピオの好きな部類に入るだろう。
「この本はみんな、ペラの図書館にあったものなんです」
「……マケドニアの王宮に?」
「はい、父が僕と兄に好きなだけ取ってもいいと言ってくれて、陣営に戻ればもっと沢山あります」
「素晴らしいことだ」
 そこでポリュビオスが笑ったように見えた。ほんの少しの緩みで、それでもまだ若い彼がやっと、少しだけ歳相応に近づいたといった静けさがある。スキピオがけれども父は本を自分たちにくれたほかは何も得なかったと続けたのは、誇るためでなくその笑みを深めてほしかったからだった。
 スキピオの手元に目を落としていたポリュビオスが不意に、ペルセウスについて尋ねたので、スキピオはどう答えるべきかと迷いながらも見たままを語った。王の振る舞いを語るスキピオの歯切れの悪さに、ポリュビオスは落胆したのだろうとそっと、やはり自身もそうだと明かすように言う。
「それにひきかえ、あなたの父君はよく道理の分かった御仁だ。こう言うと烏滸がましいでしょうか」
「いいえ、そんなこと。僕は嬉しい」
 心から、そうだった。どこででも、戦争の行く末を知った人々は父を讃える。けれどもそれがこうも、素朴な……純粋な理想から発せられる言葉であったことなどなかった。
 書物のなかに題は知っていても手にしたことがないものがあるというので渡すと、まばたきさえ惜しんで字を追っているように見えた。それなのに思いついたように話しかけてくる調子にも淀んだところがない。
「多くの都市を巡ってこられたとか。それでもやはりローマがよいと思われるでしょうね」
「生まれた場所、祖国です、それは変わりません。ポリュビオス殿もこのメガロポリスがお好きでしょう」
「ええ、生まれた場所ですから。……ローマはよいところですか、リュコルタスは使節として赴いたことがあるが、わたしはイタリアには行ったことがない」
「これからもっとよくなるに違いない場所です」
 ポリュビオスがスキピオに視線を寄越したが、それはどうにも漠然とした眼差しで、自分が見られているという気はしなかった。それならばよかった、と呟く。自分に深く関わることについて話すような、それでいて投げやりな安堵が見えた。
「ポリュビオス殿」
「ただのポリュビオスで構いません」
「それなら、僕もただのスキピオがいい。ポリュビオス、あなたさえよければ、それを差し上げましょうか」
「……これはいわばあなたの戦利品でしょう」
「そう、僕のものですから」
 はっきりといらないと言われないのでスキピオは目を細める。
「僕も一度は目を通しています。あなたとここでお会いした、その記念に差し上げたいのです。いけませんか?」
 書物と異邦の少年とを見比べた彼の迷いがスキピオにはよく分かった。だから彼がかぶりを振ったときには驚くよりもきょとんとして、「どうして?」とただ首を傾げた。彼はしっかりと巻物を手にしたままなのに。
「頂くことはできません。ですが貸していただけるというなら、お願いします」
「貸す、と言っても……」
 明日にはこの都市を出て、もう一度やって来るかどうかは本当に分からない。これから先、スキピオが高位の官職を得て東方に任地を与えられることがあれば来訪も可能かもしれないが、いつになるか。ポリュビオスは遠い話をしているのではないと今度こそ間違いなく笑んだ。
「遠からずお会いすることがあるはずですから。直接お会いできなくとも、必ずあなたにこれを返します。それを信じていただけるのであれば、預けてください」
「……あなたがそうおっしゃるなら」
「ありがとうございます、……スキピオ」
 その名を知っていましたと彼はひとりごちた。それもまたスキピオがよく耳にする言葉のひとつだったが、どうしてか、そんなはずはないのに、彼の知っていた名前が自分のものだという気がした。
 メガロポリスを去るとき、どれほど別れを惜しんでもいいのに後ろ髪の引かれる思いがなかったのは彼の言葉を曲がりなりにも信じたからだし、それは正しかったというのはすぐに証明された。
 視察を終えてアンフィポリスに入ったパウルスのもとに挙って集まった使節は戦勝を祝う他に、自都市から追放する同朋について将軍に認めてもらおうとする者が多くいた。アカイア同盟からの使節もまた例外でなく、彼らの差し出した名簿に、スキピオはポリュビオスの名を見つけ出したのだ。それを喜ぶべきか嘆くべきかも決まらぬうちにあの書物はスキピオの手に戻ってきた。彼の人の手から、他ならぬローマで。

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