戸口から声をかけるよりも先にラエリウスは顔を上げた。どうしてそんなところにいるのと、先触れの奴隷から来訪を知らされていた友人を手招く。
スキピオは招かれるまま、いつもよりも狭い歩幅で彼の寝台に近づく。寝台の上にラエリウスは起き上がっていたけれども、彼の肩には毛布がかけられていて、それと不釣り合いに膝には書物がのせられている。
「ちゃんと寝ていないといけないでしょう」
その書物が自分も好んでいるものだと気がつくと苦言も柔らかくなってしまうが、ラエリウスはおとなしくそれを巻き直し始めた。彼の顔色は、そこまで悪くない。
彼が流行病に倒れたと聞いてスキピオはそれこそ自分のほうが血の気をなくしたが、どうやら、病は彼にさほど愛着を持たなかったようだった。ラエリウスの視線が部屋のなかをうろつくので、スキピオは椅子を見つけてきてそれに座る。そうするとやっと、ラエリウスの双眸はそろってスキピオだけを映すのだった。
本当はもっと早く会いたかったけれど、僕に移すと君が気に病んでしまうだろうし、僕も君に気を遣わせたくなかったと、スキピオは型どおりのことを言う。それは限りなく本心そのままに言葉になっているが、馴染まなかった。
「ラエリウス」
こう呼ぶのに慣れていないせいかもしれない。彼はどうしたの、と答えたあと、付け足すようにしてスキピオと友人を呼んだ。
べつにどちらが先にそうしようと言い出したわけでもなく、彼らはスキピオの成人を境に互いの呼び方を変えていた。おかしがったのは父たちのほうで、彼らにおかしがられるといかにも背伸びをしているという気がした。
そのむず痒さを笑うように、ラエリウスは目を細める。
「君がブッラを下げていないのも見慣れてきた」
「僕はまだ慣れないよ」
「今日はトガを着ていないね」
「フォルムに行くわけじゃないから、いいかと思って」
ブッラを首に下げていた頃から時折トガは着ていたけれども、十四歳になり成人と同時に着せられた市民服はどこか重たくて、これを着るのを嫌がる大人の多い理由をスキピオはなんとなく察した。思うように走れないし、曲げておかなくてはいけない左腕を少し上げるのにも気を遣う。短衣に気軽な外套だけで出かけたって誰も眉を顰めないけれど、重苦しい市民服には慣れておいたほうがいいと、養父は言っていた。
たった五日か、それくらいの間会えなかっただけで、話の種は山積みになっている。しかしそのどれを拾っても彼に振る舞うには貧しい気がした。昔、拾った石が綺麗だったとずっとそのことばかり話したことを思い出す。どう考えてもうんざりさせられるのに、遮られた覚えはなかった。
ラエリウスが寝かされている部屋には心地よい風が入ってきていた。彼の父母がひとり息子を案じる様子もやはり心地よい愛情に満ちている。それだからスキピオはこの家が好きで、何度訪れたか知れない。ラエリウスはふと気付いたといった顔でスキピオの家について尋ねた。
「お養父上は体調を崩されていないかい」
「うん、アエミリア様が気を遣っているからかな。なんだかみんな病気に慣れきっているみたいだ。僕も念の為にって薬草を煎じたのを飲んだけれど、すごい味だった」
病弱というよりも最初から健康に見放されている養父のことも、ここへの訪問を遅らせたのだ。スキピオが持ち帰った病で彼が床に臥すことがあれば、もうあの家に居場所がない。
生家を出たのはブッラを外し、トガを着せられたすぐ後だった。数年前から彼はふたりの父どちらもから教えを受けていたが、その比重が変わったということだ。実父が剣の振るい方、槍の投げ方を教えてくれるなら、養父は法廷での振る舞い、法と言葉の扱いを教えてくれる。いまのスキピオの生活は行儀見習いとか学問の師のもとに住み込む書生だとかとさほど変わらない。楽しかったが、やや不確かだった。
兄も同じようにして生家を離れている。あの家には、父と、継母と、その子供たちがいる。時折訪ねると弟たちは寂しがっていた。すこし神経質な気性が目立ってきたすぐ下の弟がもう十歳になるのだ、とスキピオは言ってから驚く。いつまでも小さな手をしているものとどこかで思い込んでいるらしい。
「ルキウスは僕や兄上に会うと、なんだか緊張してるみたいだ」
「失敗したくないんだろう。パウルス様はいつも、兄たちを手本にと言っているじゃないか。君やファビウスにがっかりされたらそれこそこの世の終わりなんだよ」
「……がっかりはしないと思うんだけど」
「どうかな。君はそのあたり、すこし残酷だよ」
「僕は君に落胆したことは一度もないよ」
知っている。ラエリウスは冗談を言われたみたいに返した。スキピオとしては大真面目に言ったのだが、気軽さがかえって真実味を帯びている。
家族のことを話すなら、それこそ話題は尽きることがない。スキピオと入れ替わるように家を出たコルネリアがグラックスとそれは仲睦まじく過ごしていることも、スキピオ家の年頃の近い少年たちの話も、きっとラエリウスは億劫がらずに聞くはずだった。けれどもそれらが相応しくないと思われるのは、本当は話したいことがあってここを訪れたからで、それを言い出せない自分らしくない愚図愚図とした心持ちをどう割り切ればよいか迷っているからだ。
「……母にね」
「パピリア様?」
「そう。お母様に……手紙を出したんだ、初めて。そうしたら返事があった。会いたいって」
ラエリウスが瞠った目を幾度かまたたき、話の腰を折るまいと何度も浅く頷く。ブッラを首に下げて走り回っていた頃からスキピオは何から何までこの友人に話してきたから、彼は知っている。
「父上はいつでも会いに行けばいいって、本当はずっと前からおっしゃっていて」
「でも君もファビウスも、そうしたことはないよね」
「どういう理由をつけて、どういうふうに会えばいいか分からないじゃないか? 父上が言うにはね、僕らが会いたいときには邪魔をしない約束なんだ。でもお母様はどうなんだろう、そう訊くと兄上も分からないと言うし、僕も……でも、お母様はいまひとりだから」
家を出てからしばらくは母について尋ねることもなく、まるきり消えてしまったように思っていた。だから彼女が再婚することもなくひとりきり、自分たちと出会うことのない場所で暮らしているのだと聞いて、スキピオはよく分からなくなった。
「それで……」
「私もお会いしてみたいな」
何でもないことのようにラエリウスは言って、肩からずり落ちかけた毛布を引き上げる。それを目で追うだけのスキピオの内心がどれほどみっともない有り様なのか、分かっていても分かっていなくても、彼の言葉もほほえみも変わらなかった。
唐突に黙り込んだスキピオのそばにすこしにじり寄り、ラエリウスは重ねて言う。お礼をしなくちゃいけないだろう?
「思うに、君のそういうところはお母上譲りなんだよ」
「……どういう、ところ?」
「困ったところさ」
よくないところということだろうか。そう言われても、思い出せるかぎりの母の記憶にきちんと彼女の人格を推測しうるだけの材料はなかった。
「僕……それが言いたくて困ってたんだ」
兄が会わないと言い切ったとき、本当に途方に暮れた。まさか断られると思わなかったのに兄の言葉ははっきりしていたし、説得の余地はまったくないように思えた。ひとりでは、行きたくなかった。
こわごわとスキピオは笑みを浮かべ、すこし熱っぽく感じられる手を取る。君がすっかり元気になったら。約束を求めて両手におさめた彼の手がしっかりとスキピオの手を握り、彼はお会いできるのが楽しみだと言った。まるで不安ばかり思い浮かべるスキピオの分まで喜んでおいてやろうというくらいに彼の声は明るかった。
優しい子ね、と。
彼女は何度も言っていたはずだ。それは殆どが、いや常に、兄に向けての言葉だった。寝台ではない場所で眠りこける弟に毛布をかけてやり、母のためにしてやれることを探している、兄のそういう姿を真似るようになった頃には母はいなくなっていたから。
自分の手に触れる母の手が思い出よりも冷たく、柔らかさを失っているのを、すこしだけ怖いと思う。同じくらいの高さにある彼女の瞳に映り込む自分が笑えてはいなくとも戸惑っているように見えることが救いだった。パピリアは、美しいままだ。十年しか経っていないのだ、父よりもずっと若かったのだし、老年にはまだ入っていない。
スキピオが前もって伝えた通りの日付に、奴隷を先触れに出してから訪れた母の家は、彼女の生まれを思えばあまりに小さなものだった。けれども玄関から出て我が子を待っていた母がスキピオを見つけて見せた笑顔は、憶えているどの笑みよりも屈託がなかった。
「手紙、ほんとうに嬉しかった」
声は変わらない。艶やかに波打つ濃い灰の髪も。ひとつひとつ、何が異なるのかを見つけようとすることは止めようがなかった。スキピオは何も言えないままだ。何も言えないで、なぜだかかぶりを振った。
「きれいな字で、きれいな文章を書くようになったのね。あなたのお父さまから何度か手紙は頂いていたの、でも、会ってみなくちゃ分からないでしょう……。ああ、いけない、いつまでもここで話しても仕方がないわね」
「お母様」
「……なあに?」
言いたいことがはっきりと、ひとつだけ。スキピオは憶えていたから、それだけ携えてやって来たようなものだった。だがそれは、言ってもいいだろうか。逡巡はほんの短い間、またかぶりを振り、前髪のまだ揺れている間に、なんとかして笑みを作る。
母はただ笑みを深め、控えめに彼らを見守っていたラエリウスに目を向ける。友人が淀みなく、彼が意識しなくともそうであるように優しくパピリアと言葉を交わすのを見て、安心した。
小さな家には本当に最低限の数だけの奴隷がいて、そのなかにはスキピオが顔を見てあっと声をあげた者もいた。やや腰を曲げた老女はスキピオの顔を見てやはり笑み、聞けば彼女はパピリアの乳母だったのだという。
「昔、こっぴどく叱られた思い出があるんだ」
「あのひとに?」
「うん。何をしたんだっけ、悪戯をした覚えはないんだけど……」
客間に通されて、母は見せたいものがあるのだとすぐ出て行ってしまった。部屋に控えている奴隷は女、老年に入りかけた風貌だった。
君はどうやって悪戯すればいいか悩んだくらいだもの、ラエリウスはそう言って、質素というよりも味気ない調度品を眺めている。派手好きでない主人の家としては、これくらいで妥当だろうといったところだ。しかし友人が同じことを考えているだろうとスキピオは思い、少々の落ち着かなさを感じている。
「緊張してる」
尋ねる調子ではなく言われて頷く。あるいはきっと、迷っている。どんなふうに振る舞えば、言葉を選べばいいか。まさか母と別れた頃と同じように振る舞うわけにはいかないし、具体的に何をどうすれば当時と合致するのかは見当もつかなかった。スキピオ家にいる時のように適切な緊張で背筋を伸ばすよりはむしろ、ラエリウスの前での軽く肩から力を抜いたやり方がいいかもしれない。けれどそれが難しいように思われた。
戻ってきた母は手に何かの包みと、蝋板を携えていた。奴隷の中でひとりだけ年若い女が杯を並べて果物の盛られた平皿をテーブルに置き、スキピオのほうをちらと見て、たぶん微笑んだ。なぜ微笑まれたのかを考えるより先、母に呼ばれて顔を上げる。
「これ、憶えているかしら」
差し出された蝋板はどうやら古いもので、身を乗り出してやっとスキピオは気が付く。自分の字だ──それもみみずののたくったような酷い字だった。
「昨日ね、何か話の種にでもできないかと思って荷物を探したら出てきたの。きっとあなたが初めて書いた字よ、お父さまに褒めていただいた。憶えてる?」
「ええ……綴りは合ってますね、かろうじて」
手本を見ながら、しかし手元はまったく見ずに書いたのだろうと思う。幼児の力では蝋を深く削ることが出来ず、その筆跡は指先でこすると消えてしまいそうだった。ラエリウスが同じように覗きこんで、笑う気配がした。
プブリウス、これは自分の名前だ。それから野菜や花の名前をいくつかと、自らの家名。憶えているわけでは、ないかもしれない。
「何だかいろいろ出てきたのよ。これはあなたの靴、こっちはクィントゥスね。くすねて持ってきたのかしら」
古ぼけた子供靴はあまりに小さくて、歩き始めた子供に履かせていたのだろうと想像した。母が広げてみせた短衣も同じだ、小さすぎるから、赤ん坊の時のものかもしれない。思い出の品と言うには古くて、スキピオの記憶には結びつく場所がなかった。
傍らでラエリウスは、何が面白いのか先ほどの蝋板を眺めている。母と同じような目の細め方をしていた、楽しげに。
「うちには、古い物は残していなくて。弟たちの靴なんかは小さくなるとすぐ奴隷の子にあげてしまうから。兄上もきっと見たら驚くでしょうね、僕よりよく憶えているかもしれない」
「……クィントゥスは」
小さな靴を手に乗せて、パピリアはすこし口籠った。彼女は既に自分の産んだ子供たちが生家から出されているのを知っているだろう、たとえ父が知らせなくとも、耳に入らないはずはない。兄が彼女に手紙さえ送っていないのかどうかスキピオは知らない。ただ彼は本当にうまくやっていて、心配はいらないのだと言わなければならないはずだった。
「お母様、兄上は」
「いいの、ごめんなさい。それよりも……。私ね、アエミリアさんとは何度もご一緒したわ、決して意地悪じゃないけれど厳しい方だという気がした。ご子息もお嬢様もそう。ねえ、プブリウス、大丈夫なの?」
息を呑んだのは、自分と傍らの友人、どちらだっただろう。スキピオは母の瞳が先程よりもきらきらと揺らめいているように見え、寄せられた眉根に、自分の泣き声を思い起こした。
「……お母様……」
「つらい思いをしていない? あなたは、やさしい子だったわ。お兄さまがいるから大丈夫とばかり思っていた、でも、もうクィントゥスはあなたを構ってあげられないんでしょう」
「そんなこと……」
胸に何か、冷たいものが入り込んでくる。懸命に微笑み、かぶりを振って見せても、パピリアの憂いは晴れなかった。優しい母は、優しいままの母は、力なく笑むばかりの我が子の様子に不安を読み取ったようだった。
我が子がいま背負う名の意味を、パピリアはよく分かっているのだ。かつて義理の姉であったアエミリアの夫であった英雄を、もしかすると彼女は見知っているし、そうでなくとも知らなくてはおかしい。スキピオは何も言えなかった。何を言ったとしても、母に届くまいと悟ってしまっていた。
「いまさら私が心配したってどうなるものでもないわ、でも」
彼女の膝の上、触れられないまま仕舞い込まれていた短衣の色は、かつて兄がよく着せられていたそれだ。蝋板の字は初めて書いたものなどではない。初めて書いた言葉が何だったか、スキピオは、父から聞いたことがある。
「プブリウス、いまあなたに求められるものは、あなたには、あまりに……」
「そんなことはありません、パピリア様」
不意に重ねられた手が、知らぬ間にぎこちなく握りこまれていた手からおそれを抜き取ってすぐに離れていった。見れば、ラエリウスはまるで法廷でそうするように深く笑みを刻んでいる。
「私がスキピオと友人になったのは互いに幼い頃のことで、確かに、彼はやさしい少年でした。いまだってそうです、ですが決して……稚く弱々しいままではありません。自分が何をすべきか、誰を目標とすべきか、知って努力する人間を惰弱とは言いませんでしょう」
「ラエリウスさん、でもね」
「……でも?」
「人間には本質というものがあるでしょう」
「彼の本質が、スキピオ家にはそぐわないとおっしゃるのですか」
「そうではないと思う?」
困り切ったように、ラエリウスはスキピオの無言を振り返った。それにつられて母がスキピオに向けた目というのは、優しい。その憂いがまさしく幼い日にスキピオの夢見た母のぬくもりなのだった。誰かが同じことを言うとき、そこにあるのは落胆でしかないのに──だが同じ言葉だ。
腕を伸ばし、スキピオは母の両手を握る。そうして彼はいま養父の言葉を思い出している、口にしたい言葉ではなくて、口にしてほしいと思われている言葉を選ばなくてはならないのだ。
「僕にはラエリウスがいます。アエミリア様も、養父上も、決して僕につらくあたる方々ではありません。大丈夫です、みんな親切だから」眉を下げて、きっと幼い日と同じような顔ができているはずだった。「ごめんなさい、こんなふうに心配をかけて」
こんなふうに不安がらせるばかりで、喜ばせてやることができないままで。
「ごめんなさい、お母様」
やっと伝えられたのに、言葉は届かない。あの日の母にはあの日の自分の声しか聞こえない。だから許してもらえることはないのだ、その他には彼女に望むものなどないとしても。
母の手がわなないた。抱きしめてやるには遠い我が子の幼さの抜けきったとは言えない手を撫で、いいの、と彼女は呟く。
「あなただけでも変わらないでいてくれれば、私は嬉しい……」
夕刻、母の小さな家を出ると、トガがはためくほどに強く風が吹き付けていた。乱れた格好で歩くくらいなら脱いでしまったほうがいくらかましとも思われたが、どちらも何も言わないで歩き始める。去り際手渡されてしまった蝋板を持て余していた。誰かに見せたいと思うようなものではない、一度は父や兄に見てもらったものかもしれないが。
食事を共に、とは母は言わなかった。言えなかったのだろう。その髪は流行のやり方で結い上げられ、よく磨かれた宝飾はそれきりしか持っていなかったとしても彼女を飾っていた。室内の調度と彼女の姿とはどこか不釣合いで、きっと、パピリアが望むのは彼女の父の名に相応しい暮らしに違いなかった。
できることがあれば何でも言って欲しいと伝えた。金銭的な援助のことばかりではない、あの老いた忠実な奴隷がもはや働けなくなったとき彼女を道に打ち捨てることにならぬよう、口を利いてやれることがあれば何であれ頼んでほしいと。でも、と小さく落とした声は風に巻き込まれていく。
「母が僕に何かを頼むことはないような気がする」
「……そんなことないよ」
「兄上は訪ねたくないなんてどうしておっしゃるんだろう……」
らしくないとスキピオは思いながらも、理由を尋ねることもなく引き下がった。母が弟に宛てた手紙に目を通し、お元気そうでよかったと言いながらも、会うことはないと言った。兄がかつて母を嫌っていたとは、思えない。
「君に譲ったのではないかな」
「……よく分からない」
「甘えておいでということだったのかも。……ファビウスは君が寂しがっていたことをよく憶えているんだ、きっと」
がたがたと、閉じられた木戸がどこかで鳴っている。ひときわ強く小道を貫いていった風に背を押されて足下をふらつかせるスキピオの腕を取って、ラエリウスはなんだか疲れたような、気の抜けたふうな顔を見せた。
「ラエリウス?」
「──ねえ、あれ」
ラエリウスの指さした先で、灯りが影を作っている。持ち主はどうやらきょろきょろしながら歩いているようで落ち着かなかったが、すぐにラエリウスの指さした理由は分かった。あれはスキピオ家の下男だ。手を挙げて声をかけると男は小走りに近づいてきて、すきっ歯を覗かせほっとした顔を見せた。
「旦那様が心配なさって。もう暗くなるのに灯りを持っていないのじゃないかと。若様も小さな子供じゃないのにと申し上げたんですけどね、ともあれすれ違わなくてようございました」
「それは、なんだかごめんね」
暗いと言ったってまだ夕焼けが赤々と燃えている頃合いで、この道を抜ければ人通りも増えるのに。下男が持つ角灯の火は強い風に危なげに揺れていた、スキピオはそれを見、ふと、貸してくれないかと手を出す。
「これを?」
「うん。そうだ、僕これからラエリウスの家に行くから、それを伝えてくれないかな。泊まるかも」
「叱られますよ、たぶん」
「おまえが叱られることはないようにするよ」
それにしたってラエリウスの邸までは送って行くと、下男は角灯を差し出しながらもその場を動かなかった。
「……うちに来るのかい」
「だめかな。だめなら、パウルスの家に行く」
「構わないけれど。叱られるんだろうに」
養父は怖いひとでないから大丈夫さとスキピオは軽く返した。それよりも心配をしたのだと強く訴えられるときのほうが堪える。彼は自分がそうだったから、ほんの少しの変化や危険と言えなくもない些細な要因にスキピオが翻弄されはしないかと気を揉むのだ。
腕に抱えていた蝋板をラエリウスに預け、角灯を開く。風に吹き消されるだろうかと思って下男を風上に立たせた。ゆらゆらと皿に注がれた油の上で踊る火をそっと、蝋に近づける。
「スキピオ、何を」
「動くと危ないから、じっとして」
薄く、弱い力で削られた下手な文字。まず自分の名前を溶かしていくと、拍子抜けするほど簡単にそれは消えてしまった。他の文字を作る溝もすぐに姿を消していく、古びて埃のついた蝋だったがこれなら使いまわせるだろう。
たらりと溶けた蝋が落ちてそのまま固まるのは不格好だが、それはまた、風の当たらない場所で溶かしなおせばいいのだ。火を角灯に戻し、何も書かれていない蝋板を指先で撫でるとまだ固まりきらないところがあった。きょとんとしたままのラエリウスの手からそれを取り上げ、角灯と一緒に下男に手渡す。
「あげる。字は書けたよね」
「ええまあ、買い物のメモくらいなら……」
どう見たって新品でない物だからか、下男はぺこりと頭を下げて大して気後れもなく蝋板を受け取った。ラエリウスだけが腑に落ちないようでそれを見つめ、さっさと歩き始めるスキピオの手を取る。
「どうして?」
「持っていても仕方がない。それにほら、うちには古い物を残しておく習慣はないんだ。もったいないでしょう」
「そういう問題かな……。君の手紙はみんな残しているよ、私は」
そういう話題だったかな。スキピオはするりと落ちて行きかけた手を捕まえて、そのまま歩いた。彼の手は冷たくないし、ぺたぺたとしてもいない。小さな頃と変わらない感触かと尋ねられると答えようがないがいつまででも快いはずだ。
ラエリウスの邸に着くころには、角灯が役に立つくらいの薄闇が辺りに広がっていた。養父にいくらか伝言を頼んで送り出しかけた下男をそうだと気が付きスキピオは呼び止める。繋ぎっぱなしの手をすこし上げて、他の者たちよりいくらか馴染みやすい背の高い男を見上げた。
「これ、秘密にしていてくれる?」
下男はスキピオとラエリウスとを見比べたのち、勿論ですと片頬をあげる。
「まあ、いつものことですしね」
そう肩を竦められてふたりが繋いだままの手を見下ろすのを、下男は微笑ましく思ってかあるいは呆れてか笑った。野卑なものでなかったからスキピオはそのまま下男を帰してやり、ラエリウスの手を引く。
「どうして帰らないの」
「君と話したいから」
簡潔すぎただろうかと思ったが、ラエリウスはひとつ頷きを返しただけだった。