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 お前に弟か妹が生まれるんだ、そう最初に告げられたのは父が新しい妻を迎えて一年も経たない頃だった。彼女を母上と呼ぶのに慣れ、ふたりきりで過ごすのにも気楽さが生まれていた。父が彼の次子を見つけたのもそうして手仕事をする継母のそばで遊んでいた時だ。
 部屋に入ってきた父の膝に上げられて何事かと目を瞬かせたプブリウスは、彼の言葉に兄の言った通りだなと思ったのだ。だから驚きは薄かった。
 しかしその静かさがかえって継母に緊張を強い、それは父も大差なかった。どうやら子供たちに告げるのには懐妊が分かってからいくらか時間が置かれていて、兄もその日までは知らなかったらしい。
「弟か妹? どっち?」
「それは生まれてみないことにはなあ。どちらがいい?」
「……僕も兄さまも男の子だから、女の子?」
 別にどちらでも変わらないだろうと幼子は思い、父の膝から継母の姿を見た。子供ができるとお腹が大きくなると聞いていたけれど、それはこれかららしいと。
 その数ヶ月後に生まれたのは男の子だった。弟の誕生は家中が大騒ぎで叫び声まで聞こえた恐ろしい出来事として記憶されている。子供部屋で兄と共に長い一日を過ごし、産声が聞こえて暫くして両親の寝室に連れて行かれ、初めて目にした赤子については、正直なところ印象が希薄だ。実感は時と共に深まり、継母が世話をする弟が笑うのを見たとき、ようやく可愛いと思えたくらいだった。
 継母はその後さほど間をおかずに女の子と男の子を産み、以来屋敷にはいっかな静かな瞬間が訪れない。そしてまたひとり、彼らに兄弟が増えようとしていた。
「奥様は大事な時期ですから」
 弟妹の乳母は何度目になってもそう言って、母に駆け寄る子供らを引き留めた。
「いい子になさっていないといけませんよ。お兄様お姉様になられるのですからね」
 クィントゥスは、甘えたい盛りのアエミリアや物心もつかないガイウスがそんなふうに諭されるのが切ないと言って、いつも彼らの遊び相手になっている。昼前に帰宅し子供のトガを脱がないうちから彼らに引きずられていくのだけれど──
「兄さま、どこか行くの?」
 かけられた声に手を止めて振り返ると、上の弟のルキウスが人形を抱いて子供部屋の戸口に立っていた。弟妹と一緒に兄のところに行ったものと思っていたが、プブリウスが出かける支度をしているのに気がついてしまったのだろう。
「遊びに行くの? お勉強?」
「どっちも」
「誰のところ?」
「ラエリウスの家だよ、今日は泊まるんだ」
 近づいてきてプブリウスの手元を覗き込むと、そうなんだと小さく呟く。彼が生まれた時のプブリウスと同じ四歳になったルキウスはあまり背丈が伸びておらず、机に手をかけてつま先立ちになってやっとという風だった。
 プブリウスに付けられている子守奴隷がまとめられた荷物を受け取り、じきに迎えがくると教えてくれる。ガイウスは彼の父について出掛けた帰りにプブリウスを迎えにきてくれる予定だった。兄が弟妹の相手をしている間に出掛けてしまいたかったのだ。ガイウス・ラエリウスのことならば弟妹もよく知っており、見つかったら引き止められてしまうに違いないから。
 アエミリアの甲高い笑い声が裏庭から響いていた。
「ルキウスは兄上たちと遊ばないの」
「うん……いいの」
「ずっとかくれんぼしてるから? 飽きちゃった?」
 小さく首を振り、ルキウスは父と同じ色をした目を伏せる。他にしたいことがあるのかと尋ねるとまた首を振ったが、プブリウスが部屋を出ると後ろをついて歩いた。
 弟妹が乳母や手の空いた奴隷まで巻き込んで遊ぶのが常だからか、ルキウスを追いかけてくる者はいない。アトリウムに出て端に置かれた椅子に腰掛けたプブリウスのすぐそばに立った弟は、頻りに外の様子を窺っていた。
「父上はまだ帰ってこないと思うよ」
 これだと思って声を掛けたがルキウスはきょとんとして、数拍置いて頷いた。違うらしい、じゃあ何がしたいのだろう──引っ込み思案の弟は思っていることをなかなか口に出さない。欲しいものを弟や妹に横取りされても手を引っ込めてしまうばかりで、兄たちが気がついてやらないと切ない顔でじっとしている。
 クィントゥスならこの様子を見てルキウスの気持ちが分かるだろうか。プブリウスの思うことをすぐに察してくれるみたいに。どうしたのと訊けばいっそう小さくなって口を噤んでしまうのだけは分かっていた。
「──坊っちゃま、ラエリウス様が到着されました」
 門先から戻った子守奴隷の後ろに、ラエリウス親子の姿が見えた。トガを着たガイウスが手を振るのに椅子を降りて駆け寄ろうとして、プブリウスはつんのめる。
「ルキウス?」
 弟はやはり俯いている。プブリウスの手を握った小さな手はやけに温かい。
 結局自分に用事があったのだろうか、もうガイウスが来てしまったのに──そう思ったのが手を伝っていったように、ルキウスが幼いなりに思い詰めた顔を上げた。
「ぼく、ぼくも行く……」
「ええ? だめだよ」
 深く考えるより先に口をついた返事に、ルキウスの口がわやわやと動く。
「…………」
「ルキウスは約束してないじゃない。母上と父上にお許しを貰わないといけないし」
「……だって……兄さまが」
 教えてくれなかったから。そう言うよりも瞳が潤む方が早かっただろうか。あっと思う間もなくぼろりと溢れた涙はまるい頬を伝わず落ちて、トゥニカに染みを作った。
 人形を抱きしめ兄の手を握ったままのルキウスが肩を震わせ始めると、プブリウスからは弟のつむじしか見えない。嗚咽ばかりが響くアトリウムに入ってきたラエリウスとガイウスとが、その様子に目を丸くした。
「どうしたんだ、喧嘩か?」
 気取りのない仕草でルキウスのそばに膝をついたラエリウスは、兄弟を見比べてそうではないらしいと首を傾げた。困惑から抜け出せないプブリウスはやっとのことで弟が何を言い出したのか説明したが、どうして泣き出したのかは彼にも分からないのだ。
 ラエリウスがあれこれ尋ねるとルキウスはやはり何も言い出せなくなって、嗚咽は泣きじゃくる激しさに変わり始めていた。ここ最近ではこんなふうに泣くところは見たことがなかったのに──プブリウスが弟の顔を覗き込もうと屈んだとき、それを止めるように声がかかった。
「──ルキウス?」
 アトリウムに出るなり来客よりも先に我が子に声をかけた彼女を責める者はそこにはいなかった。だが、ルキウスの震える体に触れる前に継母はラエリウスに向き直る。
「申し訳ありません、この子が何か……」
「いやいや、叱っていたわけじゃないんだ。ただ今日は兄さんと離れたくないみたいで」
 子供にはよくあることだとラエリウスの方に言われて継母がルキウスの顔を上げさせる。濡れた頬を拭った手で抱き上げるものと思ったのに、継母はそうする代わりにルキウスの小さな肩に手を置いた。部屋に戻りなさいときっぱりと告げて控える侍女の方へ押し出そうとする。
 ルキウスがその場に踏み留まるとは、継母も思いもしなかったのだ。ついさっきのプブリウスが引き止められるとは思わなかったのと同じに。だから彼女は驚き、ほんの僅かに焦った。ラエリウスが親子の様子を見守っている。
 継母は人前に出るのが躊躇われる姿ではなく、最初からラエリウスに挨拶をするつもりだった。いくら親しい間柄でもそのあたりはきちんとすべきというのが彼女の考え方で、プブリウスが世話になる時も、逆にガイウスがこの家にやってくる時も、母親として子供たちを見送り迎えてきた。
 もしラエリウスがこの場におらず、ただルキウスが訳もわからず泣いてしまっただけなら、抱き上げて宥め、訳を聞いてやっただろうに──プブリウスがこっそり覗ったラエリウスは怒っても困っても見えない顔を作って待っていたけれど、継母にはそれを見る余裕がない。
「奥方さえよければ、ルキウスもうちに遊びにきてくれていいんだが……泊まるのは早いだろうから夕方には送らせるし、ガイウスもプブリウスもいいよな? それで」
 ガイウスがもちろんだと頷き、プブリウスもそれに続いた。嫌かどうかというよりこの場をどうにかしたかったのだが継母だけが首を横に振る。
「お気持ちだけで十分です、この子を甘やかすわけにはいきませんわ」
「母上、僕が教えてあげてたら、たぶんもっと早くに行きたいって言って……」
「プブリウスのせいではありませんよ」
「でも今日くらい」
「ルキウス、いらっしゃい。我儘を言って人を困らせるのは恥ずかしい子です」
 とうとう強く腕を引かれたルキウスがプブリウスを振り返って、何も言わないまま侍女と共に屋敷の奥へ戻っていった。ラエリウスが立ち上がり肩を竦めて戸惑う子供たちの背を叩く。
 彼らを見送った継母はルキウスを厳しく叱るだろうか、父にも叱るように求めるだろうかと思うと、いつもなら楽しくて仕方がない道中も覚束なかった。自分を見たルキウスの目も、最早そればかりを恐れているように思えてならなかった。
「あれくらいの齢の子はもっと聞かん坊で当たり前なんだけどなあ。クィントゥスとプブリウスを基準にするからかもしれない」
「……父上、それってどういう意味ですか?」
「自分に慣れてなくておとなしかったのを、子供はそれくらい聞き分けがよくて普通だと思ったんじゃないか。ガイウスだって小さい頃は皿の色が気に入らないとかパンが丸いのが嫌だとか……」
「僕そんなこと言いません」
「毎回大泣きしてたよ」
 親子がそんなふうに言い合うのを聞きながら、そうかもしれないと思う。確かに、兄と自分のせいかもしれない。
 つい先頃兄とプブリウスが他家を継ぐことが決まって、父の後継はルキウスになった。それから継母の態度は変わり、子供たちに穏やかに接することがほとんどだったのが、厳しい声で特にルキウスを叱りつけることが多くなった。一方でプブリウスは彼女に何かを咎められることがない。自分の子ではないのに口は出せないと遠慮するように、あるいは、やっと親の役をしなくともよくなったと肩の荷を下ろしたように。
「プブリウス?」
 ガイウスがプブリウスの手を引く。首を振って横に並ぶとそれ以上は何も問われなかった。


 ぽんと放り投げられた胡桃が壺の中でころころと軽い音を立てた。
 無心に投げていると不思議とよく入る。プブリウスの手元の袋に残った最後のひとつも、行き先を間違わずに小さな口に吸い込まれていった。
「勝負にならないね」
 窓辺の長椅子からそう言って自分の胡桃を手のひらで弄んでいるガイウスの膝には、大きな猫が鎮座していた。ふたりがガイウスの部屋に入ってすぐ忍び込んできて、子供の膝から大きな体がはみ出るのも構わずに甘えている。
「……そうやって無理やり膝に乗っちゃえばいいのにね?」
「ルキウス?」
「うん。アエミリアもだけど」
 壺から革袋に胡桃を移して、プブリウスはガイウスの隣に座った。猫のふわふわした毛並みを撫で、腕に巻きつく尻尾の柔らかい感触になんだかほっとする。
 ルキウスもアエミリアも、乳母が止めるのを聞かずに母にまとわりつく弟のガイウスにどうしてあんなことができるのだろうと不思議そうにするだけで、自分ではそうしない。おとなしい弟妹はお互いに寄りかかるでもないのだ。
「でもやっぱり寂しいんだと思う」
 プブリウスが言うと、ガイウスは頷いた。
 ルキウスはまだ物心つかないうちに妹が産まれ、それに慣れた頃に弟が産まれて、あの子が誰よりも優先されて可愛がられたのは本当の赤ん坊の頃だけだ。
「お友達がいるといいのかな?」
 プブリウスにガイウスがいるみたいに。
 もっと幼い頃にも会うことはあったらしいが、プブリウスは四歳の頃、ルキウスが産まれて間もなく引き合わされたときガイウスを知った。思い返してみればそれは、息子に友人を持たせようという父親たちの意図のもと作られた出会いだった。
 ガイウスはプブリウスよりもみっつ年長で、むしろ兄の方が齢が近かったけれど、ふたりともそんなこと少しも気にしなかった。父親たちの都合がつくだけ、共に過ごせるだけ過ごして、たとえ両親や兄が弟妹にかかりきりでもプブリウスにはガイウスがいる。
「どうだろう。僕は兄弟がいないから間違っているかもしれないけど」
 思慮深く目を伏せ、ガイウスは慎重に言葉を選んでいた。
「まずは家の中で安心できていないと、外で遊ぶのは怖いんじゃないかな。プブリウスはパウルス様やクィントゥスがいるからどこに行くのも怖くないでしょう?」
「うん……」
「ルキウスもアエミリアも、君たちのことをよく見てるよ」
「どんなふうに?」
 ガイウスは弟妹たちと遊ぶのを嫌がらないで、いつも優しくしてくれる。だからプブリウスの家族にガイウスのことを嫌がる者は一人もなかった。
「まず君たちがどうしているのかを確かめてから、なんでも始めている……かな」
 だから、どっちも下の子に優しいでしょう。
 ごろごろと喉を鳴らす猫の頭を撫でて、耳元を掻いてやる、その横顔は幼子から少年のものに移り変わろうとしていた。たぶんガイウスはもう手慰みの胡桃がなくても平気なのだ。
「ねえ、やっぱり今日は泊まらないで帰ろうかな」
「いいと思うよ」
 その代わりまた別の日に来てねとガイウスが言うと、彼の膝から猫がひと鳴きした。


 子守奴隷に連れられてパウルスの屋敷に帰ったのは日が傾き始めた頃だった。アトリウムを抜けたプブリウスの姿を認めて女奴隷があらと声を上げる。夕食の支度をしているところらしい。
「坊っちゃま、お忘れ物ですか?」
「ううん、帰ってきたの。ルキウスはどこ?」
「お部屋にいらっしゃいます」
 そう言いながらなんだか気の毒そうな顔をしたので、プブリウスは頷いて屋敷の奥へ進んだ。兄たちはどうしているものか、はしゃぎ回る声はない。
 ひとつの部屋の前を通る時だけ、プブリウスは中庭に向かって開いている窓から姿を隠すように少し屈んだ。どこかに招かれていなければ父が戻っているはずの時間で、そろそろとやり過ごした父母の部屋からは話し声が聞こえてくる。
 それが争っているふうではなかったので、そのまま進んで子供部屋を覗いた。兄が別の部屋で過ごすようになり、家庭教師について学び始めているプブリウスも近々この部屋からそちらに移る予定だった。
「ルキウス、いる?」
 声をかけると、子供用の小さな寝台の上で何かが動く。
 それが毛布を被った弟だと教えられずとも分かった。すっぽりと毛布に包まれて丸くなっている横に座ると小さく、ほんの小さくしゃくり上げるのが聞こえた。
 毛布の上からそっと手を乗せて、頭がある場所を確かめる。髪の柔らかい手触りの上を何度か軽く撫でていると、毛布の下からルキウスが顔を出した。
「……もう朝?」
「まだ夕ごはんの前だよ」
「じゃあ……どうして?」
 いまも潤んだ目をして、ずっと泣いていたのだろう。プブリウスは弟の横に寝そべって、毛布の中で火照った手を握った。
「あのね、明後日はスキピオさまのところに行くんだ」
「……うん」
「ルキウスも行こうか」
「え?」
 目を瞬いてぽかんとするのも無理はない、ルキウスはスキピオの屋敷に連れて行かれたことがほとんどなかった。それにいまやあそこはプブリウスとだけ関係のある家のようになって、ファビウス家にプブリウスがわざわざ行かないように弟妹はさほど親しんでいない。
 明かりのない部屋は暗くなり始めていたが、彼らの色味の異なる青い眼はお互いの顔がちゃんと分かった。
「みんなで行くってこと?」
「違うよ。僕とルキウスで行ってみようってこと」
「でも、ぼく……あんまり好きじゃない」
「…………」
「なんで兄さまたちがよそにいかなきゃいけないの」
「それは……」
 母親が違うからだと答えるのは簡単だったが、実際にそうするのは難しかった。ルキウスたちは上の兄ふたりには自分たちとは別の母親がいることを知っているはずだが、それがどんな意味を持つのかは知らないだろう。
 継母の生家がルキウスたちを養子に出すことを許すはずがない。パピリウス・マソ家は後継者がなく、母パピリアの離縁についてでさえ意見する者がなかった。──この理屈をプブリウスは養父に教わったが、彼でさえ注意を払いながらプブリウスに語ったのだ。
「パウルスと、スキピオとファビウス……そのみっつが僕たち兄弟の家だと、いろいろ良いことがあるから……うん、そうじゃないよね、知りたいのは……」
 プブリウス自身、父の説明に全く同じ気持ちになってスキピオに尋ねたのだから。
 そして、また別の話をしてくれた人もいた。
「ルキウスはね、僕らの中でいちばん父上に似てるよ」
 もう誰もそうとは言わなくなったけれど、兄もプブリウスも母に似ていた。アエミリアもガイウスも継母に似てきていて、さほど父の面影を感じない。
「父上はお祖父様とおんなじ顔をしているんだって。それで、僕らの髪はお祖父様と同じ色なんだ。つまりルキウスはお祖父様にそっくりなの」
「そうかなあ……?」
「だってアエミリア伯母様がそう言うんだから。いちばんパウルスらしいのがルキウスなんだよ」
 戦死した祖父には死に顔の像がなく、彫像もなんだか勇ましげに作られていて、生前の印象とは違うらしい。
「おばさま……」
「アエミリアさまに会いに行くのもいや?」
 小さく首を振る。アエミリアは、ルキウスに優しい。少し前まではプブリウスにも優しかった。プブリウスが養父のもとに学びに行くのがいつも少しだけ憂鬱なのは、あそこに歓迎されていない気がするからだ。
「僕、ルキウスがいてくれたら勉強も頑張れるな。応援してくれない?」
「いっしょにいていいの、勉強するところみてていい?」
「いいよ。養父上にお願いしてあげる」
「じゃあ、行く……」
「よし!」
 勢いよく起き上がったプブリウスにルキウスはぼんやりとした目線を向けた。その手を引き、部屋を出る。父母の部屋に向かっていると察してルキウスの足取りは鈍ったが、プブリウスがずんずん進むので一緒に戸の前に立った。
「父上、母上、よろしいですか」
 すぐに戸が開き、父がプブリウス、次いでルキウスを見て笑みを浮かべた。奴隷が伝えたのだろう、プブリウスが予定を変えて帰ってきたことは承知のようだった。
 部屋に招き入れられると、寝台に腰掛けて肩を落としている継母が顔を上げた。プブリウスとしっかり手を繋いでいる彼女の息子の姿に痛みを堪えるように眉を寄せる。
「二人してどうした?」
「父上にお願いがあります」
「うん、言ってごらん」
 腕を組んだ父が子供たちと目線の高さを合わせないのを、プブリウスはなんとも思わなかったがルキウスは明らかに怯んで、兄の背に隠れた。
「明後日、スキピオさまのおうちにルキウスも連れて行っていいですか」
「ふむ。理由は?」
「アエミリアさまに、お祖父様のお話を聞かせていただこうと思って。あとは、スキピオさまが連れてきてもいいって前におっしゃっていました」
「そうか」
 父がルキウスを手招く。兄の背中に額をくっつけて動かないルキウスを、プブリウスは自分の前に立たせた。
「今日、母上に叱られたな。どうしてか分かるか?」
「……わがまま、だった……から?」
「わがままじゃなかったよ。ラエリウスさまがいたからだよ」
「プブリウス」
 苦笑交じりに名を呼ばれて、そっぽを向いて口を閉じた。
 継母がルキウスをじっと見つめて、話の成り行きに耳を澄ませている。
「まあ、そういうことでもある。時と場合で許されることもあれば、叱られてしまうこともあるということだな。ルキウス、今日はもう少し待てばよかったんだ」
「まつ?」
 なにを、とこちらを見上げるルキウスに、プブリウスは父と目を合わせてから耳打ちした。父上が帰ってくるのを待って、お願いをして、後からラエリウスの家に行く。それなら母上も許して下さったかも。
 しばし思案げに唇を尖らせていた弟は、こくんと頷いた。たぶん、昼間に彼がしたかったこととそれは少し食い違っているのだろうが、それを飲み込んだ。
 父が子供たちの前に膝をついて、ルキウスに腕を差し伸べた。その腕に抱き寄せられた弟はようやく父が怒っていないと分かったようだった。
「プブリウスの言うことを聞いていい子にしていられるか?」
「……でき、ます」
「なら行ってきなさい。さあ、もう夕食の時間だ」
 私たちも後から行くからと部屋を出される。食堂に向かおうとして、クィントゥスが柱廊に立ってこちらを見ているのと目が合った。
 早足に近づく弟たちの様子を検めて、兄はほっと息をつく。
「部屋から出てきたと思ったら父上のところに行くから、何事かと思ったよ」
「ちょっとお願いごとをしに行っただけ。ね、ルキウス」
「ん……」
 昼間泣き通したのを思い出してか気まずそうにするルキウスに、クィントゥスが食堂に入るよう促す。既に席に揃って父母を待っていたアエミリアが泣き虫さんだと声を上げるのを兄は軽く嗜めた。
「なにをお願いしてきたんだ?」
 ルキウスの手を拭き清めながらクィントゥスが尋ねるのに、弟はひみつだと言ってはにかんでいた。


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