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 優しい母だと思い続けていたのは、きっとその手のやさしいのばかり憶えているからだろう。
 プブリウスの持つ最も古い記憶は彼女のものである。そしてその傍らに父は不在だった。邸の敷地のなかにある畑、豆か何かを摘む母の裾のあたりで、プブリウスは草を引っこ抜いたのを手にちょろちょろとひとりで遊んでいる。構ってほしいのではなくてそのときはそうしているのが本当に楽しかった。パピリアは歩くことを覚えるとすぐに目の離せなくなった彼女の二番目の男の子が一応は大人しくしていると、機嫌よく笑う。母が微笑っている限りは子が逃げ出さないのを、きっと知らなかっただろう。
 プブリウスよりもずっと聞き分けのよい幼子であったクィントゥスまで呼び寄せて、日向に揃って寝そべることもあった。父の話をせがむと、公人としての父のことばかり話してくれたし、兄弟としてはそれで大いに満足だったのだ。パピリアは結婚してしばらく子がなく、けれどもやっと授かってみれば期待通りの男の子であった。自分たちをかわいがってくれた母をプブリウスもクィントゥスもよく分かっていた。
 父が任地から戻ってからのことは、そうした母と兄だけのいる淡い色合いの思い出よりもはっきりと頭に住み着いている。少しばかり大きくなったからかもしれない。凱旋将軍として夫が帰ったときパピリアは折り目正しく彼を言祝いだ。
 子は信じるものである。父は母を愛し、また母は父を愛し、彼らは望んで寄り添うものと。母の手を離れる頃には貴族であることの実際を少しは知っているものだが、プブリウスはそんな齢ではなかった。そんな齢であったクィントゥスがいくらか元気をなくす日のあったこと、自分が父と母と、どちらのそばにいればいいものか考えあぐねたことに、長じてのち思い出すと意味付けができるという程度である。
 いつも、まず父が呼ぶのは兄の名前であると決まっていた。正しく決まっていて、母はそれを目を細めて見送った。プブリウスは自分が呼ばれないのは小さいからだと信じていた。兄が母でなく父のもとで様々な教えを受ける年頃になったということではなくて、自分が家でいちばん小さいのがいけないのだと。
 自分の名前が書いてみたいだとか、身近な品々の名前をどう綴るのか知りたいだとか、せめてもの対抗としてプブリウスが求めれば母は教えてくれた。良い家柄の生まれである彼女には教養も、その当時の婦人としてはじゅうぶんにあった。
「大きくなればあなたはお父さまとお兄さまに色々なことを教わるのよ。クィントゥスよりも贅沢なくらいだわ」
 ペンを拳で握りこんで母の文字を真似るプブリウスの髪をそう言って撫で梳く。顔立ちはよく似たけれど、子らの髪は母のそれとは似なかった。
「ぜいたくって、悪いことなのでしょ」
「そうね。でもプブリウスがちゃんとお父さまとお兄さまの言うことを聞くなら、贅沢じゃないのよ。いい子にできる?」
「いまのぼくっていい子じゃない?」
 いい子ね、と褒められるのも、兄のほうだった。そのようにプブリウスは思っていた。パピリアが小さな手にきちんとしたペンの持ち方を教えてやりながら「好き嫌いがあるもの」と呟く。
「ご飯に嫌いなものがあると、嫌いだなって顔をしてるわ」
「そんなのしないもん」
「お母さまは見ているのよ。お見通しよ」
「……ねえ、お母さまのなまえはなんて書くの」
 他のものならば教えてくれても、母はそれを教えてくれなかった。プブリウスが自分や兄や父の名前、花や野菜の名前をぐちゃぐちゃに書き連ねた蝋板は父に披露されてしまって、大袈裟なくらいに褒められてかえってプブリウスは臍を曲げたくらいだった。父の広い膝に乗せられて見上げる母は、彼女の膝元から見上げるよりも美しかったが、可愛らしくはなかった。小さなプブリウスはそう思っていた。
 夜になれば子らはすぐに眠る。そうしなさいと言われるまでもなく瞼を開けていられなくなって、兄と同じ部屋でプブリウスは眠っていた。
 その日に限って、プブリウスはどうしても寝付くことができなくて部屋を抜け出した。水でも貰おうと厨房に歩いて行きかけた彼はしかし、とつぜん響いた大声に足を止めることになった。
 何と言った声だったか、そのときにもうまく聞き取れなかったように思う。プブリウスは闇に慣れ始めた目を擦り、それが怒号であること、父母の寝室から聞こえたことを確かめた。彼はそこそこ敏い子供であったからその場に足を止めたが、ずば抜けて機転が利いたわけではなかったからすぐ部屋に戻ることは思いつかなかった。
 父母の部屋はまだ明かりが消されておらず、廊下に伸びる頼りないくらいのその影を、子供は見つめる。怒鳴ったのは、父に違いなかった。
「はやく決めてしまってください、こんなふうでいるまま長引くのは辛いだけだわ」
 母の声は、震えていた。どういった文脈から出た言葉であったものか、確かなのは彼女がほとんど泣きじゃくる寸前であるということくらいだった。
「あの子が小さいから迷っていらっしゃるのでしょう」小さなプブリウス、そう空に呼びかける声が硬い。「なら何も案じることなどないわ。あの子たちはよくあなたに懐いているもの、あなたのことが大好きだもの、きちんと言いつけをきく、そういう子供になってくれたもの。母親のいないことくらい、珍しくもないでしょう」
 泣いているのだろうに言葉尻には笑いが混ざった。答えるパウルスの声は低く、うまく聞こえなかったのだが、プブリウスにはそのとき偉大な父親の声が鞭打つもののように錯覚された。
「あなただって父親がいなくたって立派にお育ちになったのですものね」
 当て付けがましく──あるいは、それくらいしか言ってやれない口惜しさで母の声は歪んだ。次いで乾いた音が響く。プブリウスは身を小さくする。喉だけでなく口の中までからからになっていた。
 裾を握りしめた手で母を抱きしめてやれたら、いいや、母に抱き竦めてもらえたならと、剣呑な空気のなかに躍り出ることもできないのに念じていた。その思いが裏切られるようにして母が部屋から逃げ出し、すぐに棒立ちになっている我が子を見つける。
 涙に濡れた目が瞬き、彼女は、きっと唇を噛んだ。睨みつけられたのは本当は初めてのことではなかったし、母はときに理不尽な不機嫌をまき散らしたが、プブリウスは母と同じように逃げ出すことを選んだ。たとえ腕を伸ばして呼びかけても母の腕は彼女自身を抱き締めるので精一杯で、子の背を撫でる余分な手は余っていなかったのだから。
 裸足がぺたぺたと音を立てる。頭がぼうとして痛かった。子供部屋に駆け戻ったプブリウスは自分の寝台ではなく、きちんと掛布を肩まで被って横になっている兄のほうに行った。声をかけるまえに兄は目を開いて、すこし端に寄って弟の入り込む隙間を空けた。
 クィントゥスが寝台に上がった弟の背に腕を回して、何にも言わないのにすべて了解しているかのように、しゃくりあげだしたプブリウスの前髪に頬を寄せる。
「怖かったろう」
 そう小さな声で囁いた兄もまだ幼かったのだろうに、プブリウスにとっては大人のそれを同じように彼の手は頼もしかったのだ。自分の胸を濡らしてひいひいと息を引き攣らせる弟の背を、母がするのと同じようにクィントゥスは優しく叩いた。なぜ泣くの、どうしたの、泣き止んでおくれ、そう繰り返して困り切るのがいつもの兄だったのだが、その夜にはそうではなかった。
「にいさま」
「うん」
「にいさま、ごめんなさいって言えなかったの」
「どうして言わなくちゃいけないんだ?」
「お母さまが、だって……お母さまが泣いてたのに……」
 それでどうして自分が謝るのかなんてプブリウスは説明できない。けれどもあそこで、自分を睨めつけた母に一言何か言えていたら、プブリウスは朝が来るのを恐れずに済んだだろう。
「ぼくがいるのがいけないの?」
 小さなプブリウス。この家でいちばん幼い子供はそう呼びかけられては声の主の元へ駆け寄った。ときどき父が呼んでくれるといちばん嬉しかった。
 つっかえつっかえに弟の言うことに耳を傾けていたクィントゥスは、そのとき、涙が滑っていく頬に手のひらを当てた。兄の顔は自分が叱りつけられて折檻されるのを待っているように強張っていた。そんなはずはない。彼は二度も三度も言った。「そんなことあっちゃいけない」
 そうしてじっと弟を見つめていた母と同じ色の目がふと融けて、涙がぽたりと鼻筋に落ちた。プブリウスが声を出して泣くようには泣かなかったが、涙はひっきりなしにその目のふちに溜まり、こめかみのほうへ流れていった。
 怖い、と言ったのはどちらだったか。そのおそれの正体を知らぬまま兄弟は眠りのうちに逃げ込んだけれども、朝がくれば目覚めないわけにいかなかった。いつも乳母がやって来るよりも早く目を覚ますクィントゥスはまだこんこんと眠る弟を見て、すこし調子が悪いようだからと、誰にも起こされないようにしてやった。


 母がいなくなると、家は静かになりすぎた。奴隷たちを差配するはきはきとした声もなく、プブリウスは乳母に見守られながら昼間を静かに過ごすようになった。
 乳母はそれなりの教養を持ってきちんとした言葉を話せるものを父が望んだから、プブリウスが彼女から簡単な読み書きを教わるのは容易だったし、母が家を出る前に言いつけたのだろう、乳母がプブリウスの生活を大きく変えようとすることもなかった。
 クィントゥスが家庭教師から初等教育を受け、パウルスが元老院やフォルムにいる間、一日とはこんなに長いものだったかしらとプブリウスは思うのだ。生まれた時から知っている乳母の顔はこんなふうだったかしら、兄は以前からあんなふうにしっかりと話していたかしら。
「プブリウス坊ちゃま」
 呼ばれ、顔を上げる。差し伸べられる手に手を伸ばす。以前に衣を縫ったときよりも背の伸びたプブリウスのために、乳母が新しいものを縫ってくれる。ああそうか、とプブリウスは思い、優しい乳母に尋ねた。
「はたおりはしないの?」
「……いずれはするかもしれませんね」
「なんだかしずかだと思ったの、はたおりの音がしないんだね」
 彼女が手にしている生地はそれでは、いつ誰が織ったものだろう。均等な目で色合いも優しく、プブリウスによく似合うだろうと乳母は嬉しげに言った。
 パウルス家の女主人の不在はそう長く続かなかった。父は母を子供らから遠ざけるのには何も言わなかったが、そのときにはふたりを呼び寄せて、殊更優しい声で心配はいらないと言った。
 新しくやってくる女性は優しい気性だと聞いているし、心配はいらない。新しい母のためにお前たちの肩身が狭くなることだけはない。いままでと変わらないで過ごしていればいい。心配はいらない。父は、それを口にするのをいくらか躊躇ってから、クィントゥスではなくプブリウスに向けて言った。
「たとえ弟や妹が生まれたとしても、何も変わらない」
 本当のところ、プブリウスは何も分かっていなかったのだが、隣に立つ兄がずっと頷くことだけ繰り返していたからそれに倣った。新しい母という言葉そのものがプブリウスには分からなかったのだ。それに気が付く者はおらず、プブリウスにもそれが不理解であるとはとても気が付くものではなかった。母とは、パピリアのことだった。新しい母とは、では、新しいパピリアだろうか。幼子は考える。──もうあんなふうに泣かない新しいパピリアがやって来るのだろうか。それは喜ばしいことと思われた。
 けれども親族の見守るなかで父に抱きかかえられて家に入った女性は、何が新しいのだかプブリウスには分からない、全く知らない人間だった。
 彼女は自分を見上げている子供たちを見つけて、ベールの向こうでおそらくは彼女が浮かべられるかぎり最も優しい笑顔をつくった。それでも婚礼とその次の日にふたりに言葉をかけなかったことはまだ若い彼女の緊張を示していた。後になって思い返せばプブリウスのせいだったかもしれない。きっとプブリウスは彼女を訝しみ、困り果てた顔で見上げていたに違いないから。
「あの方のことが嫌い?」
 婚礼のあった夜、寝台に腰掛けてクィントゥスは弟に尋ねた。自分の気持ちが晴れないのと同じに弟の顔が曇り続けているのを見て取ってのことだった。
「きらいじゃない」
「怖い?」
「ううん。ねえ、にいさま。あたらしいお母さまが来るって、お父さまは言ってたでしょ。でも……何があたらしいの?」
 あれはべつな人であってお母さまではないと真面目な顔で言うプブリウスに、クィントゥスはすこしぽかんとした。
「お母さまじゃないもの」
「あのね、プブリウス……」
「あたらしいお母さまって、なに? ぼく、お母さまがかえってくるのかと思った……」
 もう帰ってこないものだと納得しかけたところだったのだ。プブリウスはあの夜から、彼女が家を出るまで、結局母に許してもらうことは出来なかった。それもいけなかっただろう。もっといけないこともきっとあっただろう。だから駄目なのだろう。
 クィントゥスは何かを言おうとしては思い直し、より良い考えを捻り出せずに呻いた。弟の目に悲しげな色、涙、あるいは怒りや、強い不安があればもっと兄は簡単に応えただろうに、プブリウスは訝しむばかりなのだ。誤解の正体をクィントゥスが見極めることは難しかったし、クィントゥスとて、こっそりと家庭教師に事情を推測する手伝いをしてもらったに過ぎなかった。
「母上は帰ってはこられない」
「そう……」
「でも、父上には、奥さんが必要だろう? 一人でいるのじゃ……寂しいし、困ることがたくさんあるから。それであの人が来たんだ」一呼吸置き、クィントゥスは微笑みらしきものを浮かべた。「僕とおまえの母上じゃないけれど、もしかしたら、僕とおまえの弟や妹の母上になるかもしれない。だから、大切にしてさしあげなくてはね」
「お母さまには会えない?」
「……それは、僕にも分からない」
 大人たちはもう子供は寝入ったものだと思って、顔を覗かせない。兄弟は深刻な顔のままで目を見合わせることができた。
「プブリウス」兄は、他の誰を呼ぶよりも慎重に言った。「僕は一緒にいるよ」
 そのときの言葉はみな約束のようなものとして、プブリウスの裡に積まれていった。それだから後にプブリウスは、彼自身そうと自分に強いるまでもなく継母に笑顔を見せ、遠慮がちに頭を撫でる手を受け入れたのだ。どこから来たのだか分からないがパピリアよりも若い、むしろどこか幼さのある父の妻は、安堵をいっぱいに湛えて震えるように微笑んだ。
 そうして彼女と言葉を交わしたあとに、父が褒めてくれたのを憶えている。むしろあれは謝意を示されたのかもしれない。「おまえが優しい子でよかった」と、それまで一度も言わなかったのに──彼はおとなしく柔和なばかりの我が子に一抹の不満を抱いていたはずなのに、その日からプブリウスは兄と同じだけの言葉を父から与えられるようになったのだった。


 言葉が流れる。それは時に打ち据え、撃ち込まれ、かと思えば飛翔し、舞い戻ってきた。その人は大きな身振りもなく、時たまに陪審員に同意を、あるいはその逆を求めるように視線を送った。若草色の瞳には猛烈な理性があり、そこに、度し難い激情などという野卑なものは欠片もない。だが彼の言葉は踊り、駆け、刃を煌めかせる──歌うごとく。いいや、歌などよりもずっと、その言葉たちは音として完成されている。
 傍らの父が何かを言いかけてそれをやめた気配がした。目を輝かせるでもなくじっと聞き入る息子を見て、いま声をかければ最低でも五日は口を利いてもらえないと察したようだった。
 自分と同じ名を持つ人がそこにはいた。プブリウス・コルネリウス・スキピオ。輝かしい名前。誰もが知っている名前。彼の姿は勇猛な戦士のそれではなかった。元老院で朗々と意を表す大政治家のものでもなかった。そこにいるのはただの人間だった。ほっそりとした立ち姿、やや青褪めても見える白皙、ひとつも目を落とされないパピルスを持つ指先にはきっとささくれひとつない。弱々しい男だ。きっと誰もがそう思う。だがその声は? プブリウスはこの世で最も勇壮な声は父のものであろうと思っている。この世で最も心地よいのは親友の声である。だが、この声は。
 彼の眼差しが法廷をめぐり、それが自分のところに届いた。するとこの場を支配する声の主はほんの少し、些細な驚きを見せた。流麗な目元に笑みが浮かぶ。長く、しかしひとつも飽きない弁論は終わろうとしていた。彼の弁護する小男はすっかり安心しきったような顔でいる。
 自分は何も聞いたことがなかったのだ。プブリウスがそう考えたのは少年の大袈裟な感性のためだったが、本心であり、事実だった。しんと落とされた沈黙が終幕、その幕の広がりも襞もみな、彼の言葉によって飾られていた。
「──驚きました、いらっしゃると伺っていたらもう少しましなことを言えたのに」
 当然のように勝訴を彼の保護民に贈り、スキピオはすぐにパウルスのもとにやって来た。そして連れられている男の子に目を落とし、先ほどと同じように微笑む。その笑みがどこか、困惑したものだったから、プブリウスの挨拶の声は図らずも小さなものになってしまった。
「今日は……プブリウスだけ? クィントゥスはいないのですね」
「ああ、この子に君の弁論を聞かせる目的だったから」
「……本当に、もっときちんと用意するべきだったなあ」
 パウルスは、亡き友の息子の肩を親しげに叩く。父の大きな手が触れると何気ない力でも倒れてしまいそうなスキピオは、こうして相対してみると先ほどのように遠目にするよりもずっと小さく見えた。
 彼はちらとプブリウスを見た。プブリウスは父の手が自分の手を掴まえているのに気がついて、それがどうにも気恥ずかしくなる。何度か父や奴隷のそばを離れて見知らぬ市民と話し込んだり、怪しげな露店を覗きこんだりしたせいで父はこうするのを止めてくれないのだ。
 大人たちの会話というものは、分からないようで分かる。どうやらスキピオの末妹についての世話話で、プブリウスはあの聡明なコルネリアが嫌いではなかったがどこか怖かったので、このままスキピオ邸に行くのでなければいいと強く思った。彼女には九年来の婚約者がおり、その幸運な夫君について話題が移りかけていた。長話になるのかしらと思い始めたとき、父がプブリウスの手を離した。
「父上?」
 見上げ、呼んでみたが、父は子を見下さなかった。代わりに背に置かれた手が軽く、だが小さな身体が押し出される力でプブリウスを追いやる。一歩二歩前に出ればそれだけスキピオとの距離が縮まった。
「プブリウス」
 子供の名を呼んだのはスキピオのほうだった。優しい声色で、慎重に、振り返ってもらえるようにと呼ばれて、プブリウスは彼を見上げてやらないわけにいかない。スキピオは眉を下げて微笑み、手を差し出した。「お父上はいくらか用事がおありだから」と彼は、何故か嘘をつく後ろめたさがあることを隠さないで言ったのだった。
 用事があるなら、プブリウスには奴隷をひとりつけて家に戻せばいいことだ。差し伸べられた白い手から少し身を引いてしまっている間にパウルスはその場を離れ、やはりプブリウスには、その手を握らないわけにはいかなくなった。
「プブリウス、お父上から何か話をされていないかい」
「……何のこと?」
「なんでも。……ここは暑いね。私の邸に行こうか、今日は母と妹はナシカ殿の御宅に行っているから静かだよ」
「スキピオさま」
 身に覚えのある不安が足元を覚束なくさせた。父のようにぐいと引くのではなくただ促すだけの彼の手はきっと、子供が転んでも支えてやれないくらい弱い。
 プブリウスはスキピオ家の人々と何度も顔を合わせているし、伯母や、従兄妹にあたる彼らのことは、おおよそ好きだった。だが今日のスキピオはいつもの彼とは違うように思われてならない。いつも輪の中心ではなく、かといって外側ではない場所にいて、適切な時に優しい言葉で場の空気を整えてやる家長としてしかプブリウスは彼を知らなかった。彼の言葉が夢見る心地にさせてくれる力を持つとつい先程知り──そのくせ嘘をつくのもごまかすのも絶望的に下手なのだといま知った。
 こういうときの癖で、首に下げたブッラをプブリウスは握りしめた。スキピオはとても無理強いはできないという顔で、まるきり哀願に似たやり方で、こういう約束なのだと言った。
 スキピオの邸は本当に、驚くほど静かだった。主人の帰りを出迎えたのはその細君で、スキピオと同様に華奢な印象の女性はプブリウスを見てどうしてかやはり当惑のままに微笑む。自分に彼らを困らせる謂れがあるのか、プブリウスはいつもならば喜んで覗き込む書斎に通されてさえ立ち尽くした。
「プブリウス、私はあまり、コルネリアや母のようには、君と話してこなかったように思う」椅子に落ち着いたスキピオの顔は、どうしてか疲れ切ったように白い。「もっと君のことを分かっておかなくてはいけない」
 どうしてと尋ねようと思ったが、いつもそれを尋ねるといいことがないのを思い出した。母は出て行くし、見知らぬ女性が家にやってくるし、赤子や幼児が増える。どうして、と素直に問えば、こういうわけなのだと何故か実体を持った答えが歩いてくる。
「さっきの弁論……」
 ぽつりと言うと、大袈裟なくらいにスキピオは頷いた。
「僕、あんなふうに話す人を初めて見ました。スキピオさまみたいな方は元老院にだっていらっしゃらなかった」
「まるきり同じというような人は、いないだろうね」
「すごいなって思うことはたくさんあるし、カトーさまだとか、グラックスさまも、立派にお話しなさるけど、違うように思って」
 有り体に言えば好きだと思ったのだ。称賛を伝えようと口を開いたのに拙い言葉ばかり並べているのが恥ずかしくなるくらいに。
 美しいものが、プブリウスは好きだった。ああきれいだと思うと一息に好きになって、もう目を逸らすこともできなくなる。そのきれいさの定義は曖昧だし、子供にとっては、きれいだという言葉を知っているだけでじゅうぶんだった。
「僕は、大きくなれば父上のようにならなくてはいけないと思います」
「……うん」
「父上みたいに立派な大人になるべきだって。凱旋式を許されて、みんなに手を振ってもらって、それがいちばんだって思います。そのために何をしなくちゃいけないのか、まだ、よくわからないけれど……」
 スキピオは心苦しいのか、あるいは、聞きたくない言葉を聞かされているように眉を寄せ、しかし両腕をとって子供の落ち着かない身体を宥めた。数歩歩み寄ると、知らない香が鼻につく。
 きっとそうなれるだろう。彼は答えようとした。スキピオは事実を提示するようにしてそれを言えたが、それよりも先に、プブリウスは自分に触れる手を見て、「けれど」と続ける。自分と同じ、重い剣も盾も縁遠い優しい膚。
「あなたみたいにもなりたい」
 言葉には翼が生える。声は矢を射ることができる。眼差しは戒めを与えることができる。
 すべて欲しいのだと言い切ったプブリウスの未だ小さいばかりの身体を、スキピオは膝に上げた。こうまでも近くに寄るのは初めてのことかも知れなかった。父の用事はいつ終わるのか、もしかすると父は迎えに来ないのではないかと、プブリウスの胸の裡には母のものが消えてがらんどうになった部屋ばかりが思い起こされた。
 胸に抱き寄せられるまま、目を閉じる。スキピオのゆっくりと流れる血の音、心臓が彼を生かす音が聞こえた。ふ、と彼は息をつく。
「君のような……」
 力のない声が降る。プブリウスはそうしたくなかったが目を開いた。
「君のような子であればいいと思っていた」
「なにが、ですか」
「私が……、君が、こんなふうであってくれればと願っていた」
「スキピオさま、ねえ、どうして」
「プブリウス、きっと約束する。君は君が願うとおりになれると。私はそのために何もかもを投げ出してやれる……それこそが私のすべきことだといま信じているのだから。君は私にそう信じさせてくれたのだから」
「どうして……」
 なぜ泣くの、そう尋ねれば、嬉しいからだと光輝を帯びて生まれた男は言った。


 兄が見知らぬ人を父と呼んだのを、プブリウスはただ見つめていた。兄の髪を撫でた手が血を分けた人のものでなかったことを、プブリウスは忘れられなかった。
 いま自分の手を引く少女の手には、いくらか同じ血が流れている。大人たちの話を聞いていたってつまらないでしょう、と訳知り顔でプブリウスを連れ出したコルネリアの手のひらは、彼の兄のものと同じようにさらさらしていた。
「弟が欲しかったの」と彼女は言った。何度も聞かされてきた言葉だったが、そのときには少し込められる思いが違っているようだった。庭で母とともにコルネリアが世話しているという花をつつきながら、膝を抱えてプブリウスは頷きもしなかった。美しく花弁を開いた一輪を摘んで指先でくるくると弄び、コルネリアもプブリウスのそばに腰を下ろす。
「私は末っ子で、齢がいくらか兄様や姉様と離れているから、下の子がいればいいって思ってた」
「……そうなの」
「あなたに弟や妹が生まれた時羨ましくって、嫉妬したの」
 僕は嬉しくなかった、とは、言えなかった。嫋やかさをまるで生まれ持ってきたように身に纏って、いつの間にかコルネリアは美しく微笑むようになっていた。
「プブリウスのこと弟みたいに思ってたわ」
 初めて出会った時のことは、きっと、というよりもやはり、プブリウスは小さすぎたので憶えていないが。記憶にあるかぎり彼女はいつつ齢の離れた従弟を常に気にかけていた。それはそうして目を配って気を遣うことが大人ぶる遊びの一環だったからでもあるし、プブリウスの置かれている環境を、感嘆すべき聡明さでもって理解していたからでもある。
 手にしていた花をプブリウスに手渡し、コルネリアは従弟の髪に指を通した。
「従弟と甥って、あんまり変わらないよね」
「おねえちゃんとおばさんは、違うと思うけど……」
「だめよ、おばさんなんて呼んだら許さないから!」
 甲高く響いた声はまだ稚気あるそれで、なんだかプブリウスはようやっと安心して、コルネリアを見上げた。少女は優しく笑う。
「変わることって本当は少ないんだと思うよ」
 言葉少なになっていて、うつむきがちになっている。それだけのことで、コルネリアは彼女の弟分が何を思っているのだか見抜いてしまう。
 嫌じゃないのだろうか。プブリウスは、いつもあれをしようこれをしようと言って自分を連れ回すこの従姉が苦手で、それを隠してこなかった。可愛くない振る舞いだなといまごろ思うようになって、すこし後悔し始めていた。
 嫌に決まっているだろう、と、また目を手元に落として、気持ちがぐんぐん内向きになっていくのに抗えなかった。コルネリアは彼女が自分で言うように遅くに生まれた子供で、だから、彼女は偉大な父のことをほんの少ししか知らない。兄や姉が見てきた父の姿を彼女は知らないが、その分だけ、コルネリアは長兄を深く敬慕しているようだった。甥が生まれたら、とコルネリアが言ったことがあるのを、プブリウスは忘れていない。
 兄様に子供が生まれたらうんと可愛がるの。うんと可愛がって、それで、その子がお父さまみたいになるのを見ていたいわ。
「…………」
「なあに?」
「なんでもない」
「なによ、あんまりぶすくれてるとこのほっぺ、抓っちゃうから」
「やだ、痛いよ」
 鈴を転がすようにして笑い、コルネリアはプブリウスを抱き寄せてそのまま倒れこんだ。陽の光に暖められた草の上に寝転んでみると、いつだったか同じことをしたことがあると気が付く。こんな風に服を汚しても許される年頃ではもうなくなってしまったのに、じきに子供でさえなくなるのに、コルネリアの声は何も変わらない風に弾んだ。
「まだ五年もあるの」
 目を瞬くプブリウスに、とっておきの秘密を打ち明けるようにしてコルネリアは声を低めた。
「グラックスさまのお家に行くまで五年。長すぎるよね。でも、そうでもないかもしれない。五年経ったってあなたはやっと十三歳だもの。楽しみだな、それから少ししたら、大人のトガを着たプブリウスが兄様みたいに法廷に立つんだわ」
「スキピオさまみたいに」
「そう。……ねえ、プブリウス。私からのお願いだと思って聞いて欲しいのだけど」
 彼らを探している大人たちの声に、彼女は目を向けただけで起き上がろうとはしない。少し眉を下げてプブリウスを覗きこむ少女の容貌は、彼らの父によく似ていると言われる長兄と同じに、どうあってもきれいだった。
「兄様のこと、お父さまって呼んであげてね」
 少女は無垢に願い、プブリウスの当惑に大丈夫だからと励ますように言った。コルネリア、と彼女を呼ばわるのは彼女の母の声だった。
「ここにいます、お母様」
 そう言って跳ね起きたコルネリアの裾についた土を目に留めて伯母が苦言を呈す、それを草の上に寝たまま聞いた。
「プブリウス?」
 影を落として自分を覗き込んだ人が、何をしているのだか分からないといった顔をしているのを見上げる。プブリウスは彼を呼んだ。驚かせたようだった。けれど拒む言葉はひとつもなく、彼は擽ったそうにうなじに触れた。驚かすついでに手を伸ばしてみれば、養父の線の細い手はしっかりと子供を引き上げることができた。

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